原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 絶対思考 神の立場で考える生活習慣

自分では普段無意識にぽんぽん、ぽんぽん使っているのに、他の人に伝えるとなると、思いつくままにではなく、全体の構造や、わかりやすい順序に気を配らなければならぬという、当たり前のことがなかなかできず、自分の力不足が身に染みる。一応の項目はいくつかここ数日整理してみたが、ではどんな風に使っているかいい例がないかと考えると、とんと浮かんでこない。

先に何か具体的な事柄があって、それに対して判断や意見をい言ってみて、それは何とか思考の何に当たるという方が、やさしいようである。

1,神の立場で考える生活習慣

正分合作用の正も四位基台の中心も神を表している。

そこで神の立場で考え、神の立場で感情を生じ、神の立場で決心覚悟し、神の立場で感受する。

ここでは、神の立場で考えるであるが、相対思考では私と隣人の二者を基本的には想定しているので、自分の立場と相手の立場という風になるのである。四位基台に中心があり主体があり対象があり合成体あるので、基本的には4つの立場があるというわけである。

我々統一信徒が神の立場で考えるといった場合は、通常、神の立場で信仰的に捉えたり考えたりすることを意味している。

さて、個人の信仰的とらえ方という意味意外では、どんな風に使われるものであろうか?なかなか例が浮かんでこない。

そこで、今、私が関心を持っていることを巡って語っていくことにした。

私は日本が神によって祝福された国家となっていく上で、重要と思われる、日本的心情の系譜を、単純に有名な高僧などの、主要な著作を通して辿ってみたいと考えてきたのである。

初期の原始仏教においては、神や霊界の存在といったような形而上学的な事柄については、現世に生きる人間の苦悩とその解決に全精神を集中した仏陀は語る事がなかった。これを無記という。

無記というのであるから、神や霊界の存在をを積極的に否定したわけではないのであった。

この基本的姿勢を重んじて仏教を捉えていくことが、仏陀の御心にかなっているという信者が現れてくることは至極当然のことなのである。ところがこれを無視するような事態になれば、それはもう仏教とは名ばかりで別の教えとなるのである。仏陀の教えが仏教なのであるから仕方があるまい。

さて仏陀の教えとは何かと問われれば、色々な答えがもたらされることであろう。しかし、仏陀の教えは縁起(縁生)であるといえば、それに対して反論するものはいないと思われる。

あらゆるものはそれ自体で存在するものはなく諸条件によって存在するようになるのであると縁起は教えている。そういう意味で実体はないといっているようである。

この縁起から3つの原理が導き出されるのであるが、第一に諸行無常である。物事は諸条件によって生まれ、不変ではなく絶えず変化し変わっていくという有様を言ったのである。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす

平家物語の有名な出だしの部分である。

第二に諸法無我である。

様々な条件の集合の結果として私が現れるのであって、不変の主体として存在するのではないということである。これはウパニシャッド哲学における、輪廻転生の主体としての我(アートマン)の否定ということに繋がっている。不変の私という間違った理解があるので、私という存在を重視して、我が立ち我執し、我があると思うから我欲が生じて執着の虜となるというのである。

第三に涅槃寂静である。

上記の二つの原理を理解することを悟りというのであるが、そこで終点、終わりということではなく、頭ですっかり分かった状態からさらに修行を積んで、煩悩の火を消し去り、つまりは一切皆苦である四苦八苦を解脱するというのである。

そこは輪廻転生から解き放たれ、その考えによって裏付けされた現実のカースト制度からも解放されるのである。

 

さて、私には仏教で言う縁起と因縁とは意味が違うどころか別物に思えてならないのである。

先に、統一原理の授受法にあたるものが仏教で言う縁起であるとしたが、縁起が諸条件が集まって生まれる事であるというのは主体の存在を認めてはいないのである。仏教は対象存在しか認めていない。

さて、授受法には主体と対象がある。主体を主体たらしめている性質を主体性と呼ぶとすれば、主体性とは別の言葉に言い換えると、原因性ということである。一方、対象を対象たらしめている性質を対象性と呼ぶとすれば、対象性とは条件性のことである。一般に因縁とは意味を因と縁に分けて説明されて、原因と条件と言われているのであるが、これは統一原理の授受法の理解に通じるものである。

 

さてこの縁起を龍樹が空と捉えるようになったのである。この空、つまり空っぽのことを、無我と捉えてみたりしたのである。統一原理から、我という文字を使ってあえて表現するならば、空は融我とでも言うべき状態である。

私見では、空とは統一原理で言う連体を表現した仏教的表現である。詳しくは連体のところでまたお話ししたいと思うのである。

堕落世界では個と全体を端から別々のものだとして、ひとつに調和しなければならぬと考えるのであるが、神の立場からすれば、存在するものはすべて連体なのである。全体と個体がもともと調和され統一されているのである。連体という状態の上でしか個体という存在は存在しないのである。考え方が転倒しているのである。

昔、ポセイドン・アドベンチャーという映画があったのであるが、海底地震が原因で巨大な津波が豪華客船を襲って、船を転倒させてしまったのであった。

転倒した船は価値が転倒した堕落世界を意味している。

海上に救援隊が助けに来るが、生き残ったものは船の上に上にと移動して行かねばならない。

ジーン・ハックマン演じる牧師は、船が転覆しているのであるから、生き残るためには、上は甲板を目指すのではなく、船底を目指さねばならぬと言う。

このことは、堕落世界である世の中の価値判断は転倒されているので、一旦すべて捨てて新しい価値判断に委ねなければならないということを暗示しているのである。

そこでイエス様は「新しい葡萄酒は新しい革袋に入れるべきである。」と言われたのである。

神が堕落した人類を救済する摂理的観点に立てば、真理は唯一であり、永遠不変にして、絶対的なものではあるが、経典は真理自体ではなく、時代の変遷の中で、人類の心霊と知能に応じて、真理を教示してくれる教科書として、その時代に与えられ、真理を表す範囲や程度や方法は漸次高められてきたのである。この教科書である経典は絶対視されるべきものではなく、不動のものではないのであった。

大乗仏教は日本に伝えられ、空の創始者龍樹の思想の元、日本の大乗仏教は誕生することとなった。

さて、先に話した三宝印と呼ばれている縁起の3つの原理を吟味すれば、日本の仏教は本来の仏陀の教えた仏教ではないといったことになる。それどころか、本来の仏陀の教えに忠実であろうとする信者であればあるほど、日本の仏教は外道であると主張されても当然と言えよう。

詳細に話すのが難儀なので結論だけ言って恐縮であるが、以前より日本仏教に対して、私はある思いを抱かずにはいられなかったのである。

すなわち、「仏教は神を憧れる」

ということである。

というのは特に空海の真真言宗大日如来や浄土系の阿弥陀如来という創造神の仏教的表現に、神の摂理を感じるからである。

後に山崎弁栄が現れて、神を中心とする仏教を完成するようになったように思われるのである。

 

(12の絶対思考 参照)

 

1,神の立場で考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/15/040754

2,中心が何かを考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/16/030345

3,究極が何かを考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/18/043604

 

4,心情を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/19/042111

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/22/065846

5,動機を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/24/092013

6,価値を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/26/044825

 

7,原理を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/29/063145

8,原則を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/02/053949

9,基準を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/03/062741

 

10、本質を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/05/055401

11、目的を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/08/064458

12、定義を考える生活習慣

 http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/09/054011