原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 創造本然の価値               認識論と価値論の相似性と関係性

原理講論の中には創造本然の価値について書かれているところはあるが、認識論については書かれていない。認識論は統一思想に哲学の様々な見解とそれに対する統一思想の立場からする評価が書かれている。

認識の成立や価値形成の仕組みは綬受法が基になって形成されている。

そこで相似性が現れている。

私が高校生の時に郵便配達のアルバイトをしたのだが、社員の人たちが格子状の棚をまえにして、それぞれの枠に郵便番号の範囲が書かれていて、それに当てはまる郵便先の手紙やはがきを置いていくのを見て、我々の認識というのもかくの如きものかと閃いたことがあった。

我々の外界にある事象を我々が認識できるのは、我々の内側にもそれと照合することができる原型があって始めて可能なのではないかと思うようになったのである。

しかしこれは本当に認識と言えるであろうか?

よく心やその働きをコンピューターに比べて説明する方が居る。

心は唯物論的に説明ができるというわけである。

私が高校の時に着想したことも本質的には彼らとそう変わらない考え方だったのかも知れない。

山新は1983年5月出版の「Victory Over Communism」の中で日本共産党の見解を先ず挙げて

 意識(精神・・・著者)とは、人間の脳髄という高度に組織された物質の固有の特性です。

 人間の意識は、脳髄という高度な物質の特性であり、その機能ですが、それは、物質の反映つまり写しであり、像なのであって、分泌物のような物質ではありません。

(『弁証法唯物論入門』新日本新書57~58頁)

 以下のように批判している。

 このように、弁証法唯物論は、精神(意識)を脳髄の機能であり、特性、反映、写しであるといっている。しかしその一方で、「人間の意識は物質の世界を反映するだけではなく、その認識にもとづいて、計画、方針をたて、特定の目的を実現するために行動するようにみちびき、世界すなわち、自然あるいは社会を変革する能動的な役割を果たします。」(「科学的社会主義」上、178頁)と言って精神が、変革する能動性をもっていると言って、平気でいるのである。しかし、精神が機能、特性、反応、写しといった性格のものであるならば、それが能動性など持ちうるはずがないことは明らかである。しかも、精神の能動性は、時には、母体であるはずの肉体そのものを否定(自殺)したり、精神が主体格に立って肉体を、有機的、合目的的に”機能”させたりするのである。一体どこに母体自体に対し主体格に立ち、機能をさせたり、時には否定までもする「機能」「写し」などといったものがあるだろう。これらは、精神の能動性、主体性をみとめざるをえない現実的状況や科学的成果に直面してもはや、唯物論的立場でこれを取扱うことは不可能である事を知りながらも自己矛盾を覚悟で、唯物論の立場を死守せんとした弁証法唯物論の足掻きなのである。

 そしてさらに、弁証法唯物論は、唯心論(観念論)とともに一つの致命的な問題点をもっている。それは、両者がともに一つの致命的な問題点を持っているとし、それは両者がともに”先次性(根源性)”という固定観念の枠を超えることができなかったということだとし、再び共産党の見解を挙げて

 この問題(物質と精神との関係・・・著者)には、正反対の答えが二つあるだけです。物質がさきだと答えるか、精神がさきだと考えるか、そのどちらかです。(前掲書21頁、著者が付けた傍点は下線に変更)

以下のように批判しているが、認識というのは、それを考える人物の世界観、即ち唯物論、唯心論、唯一論によってその理解のしかたが大きく変わってくると思われるので、その点を念頭にして、森山の主張を読んで頂きたい。

 このような”物質と精神の先次性”という観点に立つ限り、二つの正反対の答え(唯物論と唯心論)しかあえいえない。しかし、この観点それ自体が古典的であり、科学的成果にもとづいた、正しい世界観究明への道を妨げているのである。なぜならば”精神”と”物質”とは全く異質な内容をもった概念であるので、科学が大前提とする因果法則を認めるならば、精神から物質が派生するという唯心論も、逆に物質から精神が派生するという唯物論もともに無から有或いは有から無の創造を是認してしまい、因果法則に反することになるのである。

 従って、私たちは”物質”と”精神”に代わる新しい相対概念と、”先次性”に代わる両者の関係性を新たに考えなければならない。

 ここに有意義な示唆を提示してくれるのが唯一論である。唯一論は、存在は全く、性相(内性)と形状(外形)という有形無形の両面をもち、性相は形状に対し、原因的、主体的、能動的であるというのである。性相とは、存在目的と性質・機能(低次には物理化学的性質からはじまり、生物の自律性(生命)、感覚、本能、そして最高時の人間の心情・知情意の機能)であり、形状とは、低次には原子・分子にはじまり、高次には生物の細胞・組織・構造・形態などをさす。そして、両者は同一存在の両側面として、互いに密接な相互関係をもって、一つの有機的統一体として存在しているというのが唯一論(受法的唯一論)の立場である。

認識に対する考えはこうして本人が持っている世界観によって左右されるのである。

例えば統一協会をカルトとする苫米地英人氏は「お釈迦さまの脳科学」P40に

脳と心は同じ

 脳と心はひとつのものである、が現代の脳科学の考えです。

 それらを別の存在と考えることは、物理的な身体とは別に魂(霊)があると考えるのと同じです。この考えは現代でも根強く残っており、肉体が滅んでも魂が永続するというのが宗教の世界では常識になっています。しかし、死んで脳がなくなってしまえば、記憶はすべて消滅し、あの世を感じることはありません。自分が消えてしまうという怖れがあの世や魂の概念を作り出したのでしょう。霊もあの世も、それを信じる人の脳(心)の中にのみ存在するものです。

 脳科学者が「脳」と呼ぶものも、心理学者が「心」と呼ぶものも、表現の抽象度が異なるだけで、実体としては同じものを指しています。物理的には脳であり、情報空間が心です。コンピューターにたとえるなら、CPUやハードディスクが脳であり、そこで処理されている情報そのものが心です。どちらか片方だけでは、コンピューターは機能しません。同じように脳も心という情報空間が存在して初めて機能しています。脳と心を同時に研究対象にする学問が、機能脳科学なのです。

 これからの脳科学者は、物理的な脳だけでなく、心という情報空間をも研究対象にする必要があります。なぜなら、fMRIでは血流の動きが見えるだけで、心の内容までがわかるわけではないからです。パソコンで言えば、CPUやハードディスクに電流が流れたということにしかすぎず、情報空間であるソフトウエアが解明されたわけではないのです。

と説明している。だいたいこのように考えている世の中の人は多いのではないかと思われる。

ここで苫米地氏が用いている「情報空間」という概念は日常生活で我々が使っているような、例えばインターネットが情報空間であるというような意味ではないことは明らかである。非常に苦しい概念である。

その苦しさを紛らわすためか「脳と心の解明には、量子論や相対論などを含む、人間がこれまで培ってきた知の体系をすべて学ぶ必要があるでしょう。」と結んでいる。

要は現在のところ何も分からないと言う表明でしかないのである。

仏教は神や霊魂や霊界といった形而上学的関心を持たない。仏陀が無記として何も語られなかったからである。しかし、仏陀が死んで霊界に行かれ神の存在や霊魂や霊界の実在を知ったとすれば、無記の誓いを解かれることは自然の成り行きであろう。

霊界通信に由れば、李想憲先生によって仏陀も統一原理を学ばれたという。

今日ネパールや仏教国タイで伝道の証があるのは仏陀の協助の力が働いていることと信ずる。

さて、仏教は無記によって唯物論に近づいてしまった。

そこで仏教徒の苫米地氏も唯物的世界観から認識を考えるようになるのであろう。

統一原理的にはコンピューターに由る譬えはどうなるであろうか?

コンピューターは肉身に相当すると見ることができる。

CPUとは肉心、特にその知的作用を司る理性(比較分別知)に当たると思われる。

メモリーが脳である。メモリーの増設に当たるのがシナプスの結合などによる回路の複雑化であろう。ではハードディスクは?おそらくこれは脳ではなく霊人体に属しているのではないかと思われる。

苫米地氏はコンピューターのソフトウエアが働いている状態が、人間の心が作用している状態と似ているということから喩えたのかも知れない。

しかし、コンピューターのソフトとハードが相互作用をして働いている状態を心が生じていると考える人はいないであろう。勿論似ているところはあると人は言うかも知れない。しかしそこには類似性だけではなく、差異性も存在していることが誰にも分かるのである。

その差異性とはどこから生じているのであろうか?

苫米地モデルはコンピューターという物質的世界にのみ立脚して認識を考えている。

しかし、コンピューターにできることは、厳密には人間の認識ではなく照合である。

人間の認識は物質的照合に始まり価値判断に至って完了すると見た方が実態に即していると私は考えている。

多くの神を否定する人はコンピューターのみを見てい過ぎる。

実際にコンピューターは人間抜きには何の意味も為さない。

そこで、物質的コンピューターシステムに、その閉じた系の外側にある人間をも含めたモデルで考える方が自然なのである。

このことは我々に何を連想させるであろうか?

それは、人間が霊人体と肉身からなる二重体であるということである。

霊人体=霊体+生心→真美善という絶対的価値を追求(全体にとっての利)

肉身=肉体+肉心(自己保存心)衣食住性という生の快適化を追求(個体の利)

これらは主体対象の関係である。

そこで肉心の知的作用を為す理性(CPU)は照合の役割は果たすが

価値判断を伴った認識は、コンピューターの閉じた系の外側にいる、霊人体の生心をもつ人間によって初めて認識は成立すると見ることができる。

人間の認識というのは、人間が時空を超えた霊人体の生心を持つ以上、物質的照合を超えた価値判断がその本質なのである。

心情が本質であり、その心情を原因として知情意などの感情が現象として生じてくる。つまり知が本質ではないのである。

人間が神と同じく心情的存在であるということは、認識の本質も無機質的な照合にあるのではなく、絶対的価値を中心とした判断に存在するのである。

西田幾多郎フッサールの肉心の理性を念頭に置いた、考える主体と考えられる対象から、生心と肉心の関係に於ける、考える主体と考えられる対象に考察を高めたように見受けられるが、残念ながらその視座に仏教を据えることに固執しすぎたため、突破することができず、挑戦するのみに終わった気がする。

人間の認識というのは決して物質で造られた頭の中で為されているのではなく、頭の中で比較分析的に処理されたデータを、頭の外にある霊人体の生心が時空を超越して統一的に把握されるものである。

帰納では最後にこれが働き、演繹では始めにこれが働く、いずれにしてもこのような超越的認識が働いているのである。

神の世界の認識を時空間に展開した際に二性性相的に一つのものの二つの側面として表裏の如く現れたのがこの二つのアプローチなのである。

偉大な文鮮明 恵父の思想が優れた頭脳の持ち主によって正しく考察され、世界に貢献する道を切り開いてほしいと切に祈るものである。