原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

渋沢栄一の「側面観(部分)から全体観へ」 と フェヒナーの「統一的世界観の視座」②

母の日に買った来た赤いカーネーションが我が家にはある。買ってきた翌日、暗いところに置いてあったカーネーションが明るいところに居たいような気がした。そこで移すと、今度は水がほしいような気がした。そこで水を与えた。

統一原理では植物には人間の情に感応する何かがあるので、美が感じられるという。光を与え水を与える愛情の行為に対して、花からは美が返ってくるが、それを美として感じると言うことは、無機的な冷たいイメージではない、人間は無機的なものにさえ、それ以上の何かを感じ得ることさえある。

勿論、花には生命がありそれがあるから人間の情感に訴えるのだという方もおられよう。そうなのかも知れない。しかし私は例えば神話やおとぎ話などに出てくるような、花の妖精などでさえ、単純にありもしないものを空想しただけのことなのか、それとも、そうしたものが創られたり、語られたりしてきた何らかの根元になるような、背景があるのだろうかと思いを寄せることがある。

そして、相対思考を用いてあれやこれやと考えていたら、偶然にドイツの哲学者フェヒナーに関する一冊の本に出会ったのである。

それは、岩淵輝(いわぶちあきら)氏が書いた「生命の哲学 知の巨人フェヒナーの数奇なる生涯」という本である。

先ず心が惹かれた文章は、フェヒナーの文章ではなく、フェヒナーの考えを現代人に理解しやすいように岩淵氏が書いた文章であった。

しばらくの間、風薫る心地よい景色に浸っていた老学者は、ふと我に返り自問した。人々は花が鮮やかな色をしていると思っているが、科学の学説によれば花には色など着いていない。花の色名を強いて言えば、それは「無色」なのだ。そして、花が反射した無色の電磁波は、われわれの眼に届き、眼の細胞を刺激する。この刺激は眼の細胞によって電気信号に変換されて脳に送られ、脳は電気信号を加工して色をつくり出す。つまり、花の「色」は花自体に着いているのではなく、脳がつくり出すものなのだ。花の色だけではない。新緑も紅葉も青空も夕焼けも、ありとあらゆる色彩は、すべて幻なのである。色だけではない。音も同様である。科学の素人は、公園には鳥たちの歌声が満ちていると思っているが、本当は公園には鳥の囀りなど存在しない。そこにあるのは、「無音」の電磁波だけだ。色も無く音も無き電磁波のかたまりに過ぎぬものを、色と音に満ちた世界と捉えるのは誤解であり幻想だ。科学者は、この科学的真実を直視しなければならない。

老学者は自分にそう言い聞かせようとした。が、どうしてもできなかった。科学の学説を信じれば、われわれは底冷えのするような暗黒と沈黙の世界で、本当は存在しない色や音の幻想をひたすらつむぐ存在だということになる。だが、われわれが住む世界は本当にそんな無残なものなのか。いや、そんなはずはない。この世界は、われわれに感じられる通り、色や音に満ちた美しい世界であるはずだ。間違っているのは、自分のこうした考えではなく科学の学説の方ではないのか。

1801年に生まれたドイツの哲学者グスタフ・フェヒナーは、そのような問題意識をもって考察され、闇の世界観から光の世界観へと旅だったのである。

岩淵氏によるとフェヒナーの思想の理解には先ず「ゼーレ」なる言葉の意味をしっかり押さえねばならないと言う。ゼーレとはギリシャ語のプシュケーをルーツとする言葉で、ほぼ同じ意味で、生命と心の両義を孕んだ言葉で、「心」「魂」「生命」「霊魂」「精気」「精神」などと訳されるようだ。

ゼーレの動詞であるベゼーレンという言葉には、「ゼーレを吹き込む」「魂を与える」「生気を与える」といった意味がある。その名詞にベゼールングがある。

さて、彼の父方と母方のいずれの祖父も牧師であった。父も牧師という家系に育ち敬虔なキリスト教信徒であったが、教条的な信仰というわけではなく、異教の信仰であってもキリスト教のものより良いと思われた際には、それを評価してかえってキリスト教を批判することがあったという。

父がルターゆかりの地であるヴィッテンベルクやハレで学んだ後に牧師に就いたという経歴から、受け継いだものなのかも知れぬと、岩淵氏は語っている。ヴィッテンベルクはルターで有名な地である。

また当時祖父が牧師をしながら、医師の代役も兼ねて人々に奉仕されていた事もあってか、医学の道を志したのである。我が国に置いても禅僧などがやはり医者の代わりをある程度果たしていたことがあるといったことを聞いたことがあるのを思い出した。

医学を志した身ではあったが、彼はそれに失望するようになる。「すっかり無神論者になり、宗教的な考え方から遠ざかってしまった。世界が時計じかけで動く装置に過ぎぬものに見えた。そんな時、偶然オーケンの自然哲学を手にし、友人で神学専攻の学生シュピールベルクと一緒に読み始めた」そうである。そして慨嘆している。

「急に新たな光が全世界と全世界に関する学問を照らし出しているように思われた。眼が眩む思いだった。もっとも私は、(正しく理解することが可能であるにせよ)何一つ正しく理解していなかった。私は最初の章より先に読み進むことはできなかったが、突如として、遠大で統一的な世界観の視座を獲得し、シェリングやシュテフェンスやその他の人々の自然哲学を勉強し始めた。もちろん、何もはっきりとは理解できなかったが、この方向で自分でも何かやれそうだと思った」

 

デカルトに始まる物心二元論がやがて無機的な機械論的世界観を形成するようになり、フェヒナーのいうゼーレに基づくような世界観の待望が、キリスト教信仰に根ざして生活する西欧の多くの人にあったことは想像するに難くなはなく、現代に置いてもずっと様々に問題提起されてきていることである。

岩淵氏によれば、フェヒナーが植物に内界(ゼーレ)があるというとき、植物に人間同様の高次の反省的意識があることを意味するものではない。植物は、そうした高次の意識はもたないが、植物にも生動や感覚はある。そしてフェヒナーは、生動や感覚が沸き起こる、いわば生の息吹の場を内界(ゼーレ)と読んでいるのであると語られている。

かって、文鮮明 恵父の統一原理を思想的に纏め上げ、統一思想を書かれた李想憲先生が、あたかもコップの形によってそこに満たされる水の形が違ってくるように、普遍的な生命の場のようなものがあって、植物や動物の様々な個別的な形に応じて、生命自体の形も決まり差別化されるのであろうといったことをお話しされているが、フェヒナーという人は通常植物の命や動物の命や人間の命は個別独立して捉えられるものではあるが、なんらかの繋がりが根底にあるのではないかと、考えたのであろう。

彼は天使についても言及しているようであるが、花の精についてこのようなことを語っているという。

「わたしは花の周りのかすかな霧の中に花の精が立ち上るのを見たような気がしたのだ。霧が次第に晴れて行き、前よりもよく見えるようになると、花の上方に花の精のはっきりとした輝く姿があった。花の精は、咲き誇る彼女の家で、部屋の中よりも陽光を味わえる屋根に上ろうとでもしていたのだろうか、人に見られていないと思っていた所を、驚かせてしまったのだろう。」

 

実は私は花の妖精こそ見たことはないが、10年ほど前に真の御母様の大会で真の御母様のスピーチが終わりそうな辺りから、会場の頭上を何匹もの「光の蝶」が舞っているのを見たことがある。映画館のように後ろに光源があって光が差し込めている所にに蝶々がが紛れ込んで光っているのならともかく、よくよく考えればあの距離であの大きさに見えるのであるから、モンシロチョウやアゲハよりずっと大きなもののようであった。自分の目がおかしいのか、本当は蝶なのかいぶかしく思って、近くの信徒にちょうどスピーチが終了した際に聞いてみた。すると「確かに蝶のようなものが見える。」とは言うものの蝶に過ぎないと断定もしてくれなかった。彼は正しかった貴重なお話に感動して拍手され、そちらに集中していたのである。別の人にも聞いたがその人も見たという。実際の所その蝶は自然界に存在する蝶ではなく、わたしには光にしか見えなかったのである。

フェヒナーは天使に関することも書いているという。

統一教会の信徒ではないが私の知り合いに、あなたなら話しても大丈夫だと思うので誰にも話したことがないのだけれどと前書きされて、天使に遭遇したことを打ち明けられたことがあった。俗に言う霊的な人ではなかった。普通の方であった。実は私は時折このように打ち明けられることがある。同様な体験を持ったことがある人同士はなんとなくわかるのかもしれない。

さて、岩淵氏はフェヒナーは語る。

キリスト教は物質主義と同じく、自然を機械じかけとみなす世界観を生むのに間接的に貢献してしまったのだと考えていた。その原因は、キリスト教が「ものの最も自然な見方」を否定したことにあるという。フェヒナーによれば「ものの最も自然な見方」とは、精神的なものと肉体的なもの、心的なものと物質的なものとを区別することを知らない異教の見方である。

そして、生涯を通じて敬虔なキリスト教徒であったフェヒナーが批判したのはキリスト教そのものではなく、闇の世界観に囚われたキリスト教狭義の解釈であるとして、フェヒナーの言葉を引用している。

「光の世界観は、唯一の神を信仰するのと同様に、聖書の信仰を守るものである。人々は聖書の言葉を闇の世界観が許容する範囲を超えて信じようとはしないけれど」

統一原理では創造原理において、存在するものは目に見えない性相と目に見えるところの形状からなっている統一体であると説いている。

唯心論でも唯物論でもない唯一論の立場をとっているのである。

フェヒナーが時代的恵沢を受けることができず、再臨主の御言葉を学ぶことができなかったことはつくづく残念なことである。

19で統一原理に出会い、統一原理の性相(せいそう)が仏教の性相(しょうそう)にヒントを得てつけられた名称らしいと、ある信徒に言われ、仏教の性相、すなわち唯識に関心を持つに至った。

もうひとつ心に引っかかっていたのが、シェリングである。シェリングも精神と物質、あるいは精神界と物質界を統一的に把握する試みを成してきた方である。1970年代当時、神田の神保町をくまなく捜しても、シェリングの本は2冊しか見つからなかったと記憶している。しかもその本を読んでもポイントさえ理解できるか自信がなかった。

そんな時、同じ学生教会所属の聖心女子大学の女性が先輩を伝道してきたことがあった。その方はシェリングの勉強をされていると言われ、卒論もシェリングに関してであると言われた。

美智子皇后陛下がご出身のこの大学はお嬢様学校とばかり思っていたが、このように研究されている方を知って、驚き恥じた次第である。

残念ながらシスターなどの説得によって、御言葉を半ばまでしか学ぶことができず、袂を分かつことになってしまった。本当に残念なことであった。

プシュケーやゼーレから、より広義のアニミズムというものは一体どの様な背景を根元として現れてきた事柄なのであろうか?

一般に唯一神キリスト教徒と無機物有機物を問わず全ての存在に霊が宿るとするアニミズムは相容れないものと相場が決まっている。

しかし、我々が花を見て美を感じるということは、人間の情操に感応する何かが植物に備わっているので、そのように感じることができるのだと考えることもできる。

実はこの本に出会う前にはこんな事を考えていたのである。

二性性相を備えた神は、そのお姿に似せて人間をお創りになられた。そこで人間は目に見える肉身だけではなく、目に見えない霊人体をも併せ持つ統一体として存在している。

さて、二性性相から相対思考が導き出されるが、相対思考とはある事柄に出会ったら、それに相対する、言い換えれば対応する事柄を考えよ!ということであった。

動物も植物も鉱物も人間を標本として部分的に似せて創られた存在である。ところが、動物にも植物にも霊人体にあたる霊的な体は存在しないとされている。統一原理もアニミズム(汎神論)を否定しているからである。

ところが神話やおとぎ話の世界にはしばしば花の妖精のような存在が登場する。これはただ単に偶然生まれてきたことなのであろうか?それともそうした存在が生まれてくるような素地がどこかにあるのであろうか?

さて、人間自体は霊肉の二重体であるが、動物や植物などは二重体ではないにせよ、存在するものが二性性相であることから、それぞれの個物に対応する霊的世界の霊的存在があるであろうと考えることは自然なことのように思われる。

すると人間は本質的には霊的存在であることから、たとえ地上世界の花を観賞しているように、一見見えても、実はそのものだけではなく、そのものの霊的世界の対応物を鑑賞しているのではないかと考えていたのである。

芸術家が花や自然を通して作品を創作するインスピレーションを得るのはそのためではなかろうか?

人間の霊人体と肉身の間には日々相互作用が起きているが、動物や植物も、それ自体には存在しないが、霊的世界に対応する存在と直接相互作用があって存在しているのか、あるいは人間が肉身では花を見、霊人体ではそれに対応している霊的存在を感応しているが故に、プシュケーやゼーレやアニミズムというような理解を求めてきたのではあるまいか。

ボードレールがコレスポンダンス(万物照応)ということを言っているのも、このことに関係しているのではないかと考える。

以上のように捉えれば、伝統的なキリスト教アニミズムの思想を、一応「統一的世界観の視座」によって理解できると言えるのかも知れない。

それにしても、著者の岩淵輝氏の詳細なフェヒナーの記述には驚かされた。学者の研究というのは実に精緻で見事な仕事をされるものだと感嘆した。フロイトマーラーへの影響などや人生の三段階など他にも面白い話題があるので、関心のある方は読まれては如何であろうか。

さて、統一智に関してはこの辺で終わり、原理講論を読み進めることが止まってしまっているので、進めたいと思うが、その前に次回は授受法や四位基台と問題解決の視点についてという形で、今までの絶対思考(中心思考)・相対思考・統一思考のまとめを少ししてみようと思う。