信仰的直感は論理にまさり、前者が目的なら後者は手段である
論理のことを学びますと、時々出てくるのが演繹と帰納という論理の方法のことです。
これが実に妙な理屈です。
わたしはどうもこれらの言葉が出てくる時の説明が嫌いでむず痒くなります。
演繹法とか帰納法とか言うのは、論理に関する話ではありません。
直感と論理に関する話なのです。
ところが、直感の話が出てくることはまずありません。
信仰的直感が主体で、演繹や帰納の論理は対象です。
霊的直感が目的で、そこに達するための手段が演繹や帰納です。
先に無形実体世界の霊的直感があって、後に、これと具体的事象の論理性との整合性を図るのが演繹です。
また、先に具体的事象の論理性があって、信仰的直感によってこれを束ね整合性を図るのが帰納です。
演繹の仮説も、帰納から導き出された一般法則も直感です。
そこには飛躍があるのです。
論理は部分の把握には活躍しますが、全体の把握は苦手なのです。
全体の統一的認識、統一的判断は霊的直感がします。
論理的だなんだと言いますが、詰まるところ、その論理性は何によって証明されうるのかといったら、宗教的直感でしかあり得ません。
高度な数学を駆使する理論物理学者たちは、彼らの努力の果てに何を得ようと言うのでしょうか?
私には、宗教的直感を求めているようにしか見えません。
ある種の直感あるいはイマジネーションから、数式は導かれていくものののように見えます。
動物に聞いたことはありませんが、
動物の判断は物質的本能によるものでしょう。
ですから、人間の判断とは次元が違います。
人間は肉ではなく霊に生きる存在です。
霊的判断と言うと、大変難しいようですが、
私が中学生の頃こんなことを思いました。
大自然の中に立つと「雄大な自然よ」という清々しい気持ちになります。
ところがキリスト教圏の人々にとっては、大自然はただありのままにある天然ではなく、神が造った被造世界という感覚があるというのです。
自然を見れば、その背後に、美しい自然を私たちにもたらしてくれた神の愛や恩寵を感じるといいます。
中学生の私はそのことを大変羨ましく思いました。
私たちの外側にある世界を私たちは日常生活で感じています。
物質的世界の物質を視覚の感覚器官である目で見て、心で感じています。
それは肉心で感じているのでしょうか?
肉心のずっと低レベルの心である動物の本能と同じでしょうか?
物質的世界の刺激 ⇒ 肉的感覚器官 ⇒ 肉心 ⇒ 生心
このようにして地上生活での感受性は形成され蓄積されます。
また反対に
霊的世界の刺激 ⇒ 霊的感覚器官 ⇒ 生心 ⇒ 肉心
生心と肉心が授受作用して、人間の心の作用が生まれてきます。
統一的です。
二つの心は常に和動していて、共鳴しているのです。
ですが、堕落によってこれがわからなくなってしまいました。
物質世界の自然の色彩や造形は、目を通して生心に至り、感動の喜びをもたらします。
物質世界の自然や動植物の様々な音は、耳を通して生心に至り、感動の喜びを与えます。
物質世界の自然の恵みである果実や野菜の味は、口を通して生心に至り、感動の喜びを生みます。
物質世界の自然の草花や果実の香りは、花を通して生心に伝わり、感動の喜びを生みます。
物質世界の風や水の感触、土や木の感触は、手や体を通して生心に伝わり、感動の喜びをもたらします。
人間は霊人体と肉身からなっていますが、前者をモデルに無形実体世界は造られ、後者をモデルに有形実体世界が造られました。これらは対応する関係性を持っています。
対応するとは共鳴するということでもあります。
したがって、われわれは地上生活を通じて、様々な情報を感覚器官を通して刺激として受け取り、バラバラの情報としてではなく、統一的情報として把握しますが、それは単に物質的把握ではありません。有形実体世界の情報を生心で味わうことによって、同時にそれら全てに対応する無形実体世界の情報から得ることのできる刺激を感受しつつ、その感受性の向上のために訓練していると言えましょう。
二重になっています。
われわれ人間の認識活動は、無神論的物質世界の関心で終わることなく、それは次の世界の認識の契機にすぎず、常に有神論的霊的世界に対して完全に開かれていなければなりません。
われわれは肉身のみを持っているのではなく、霊人体も併せ持って生活しています。
「京」とうい名のスーパーコンピューター以上のものがいくら現れ、人間の能力を遥かに超えると言ってはみても、それは物質的世界という側面だけを見ることによって得られる結論でしょう。
人工知能も物質的基礎の上に成り立っている以上、霊肉を持つ創造本然の人間の可能性を凌駕するものではないと思われます。
論理というものは、肉心に属する演算だと表現してみるなら、
それらを統括する判断は信仰的直感以外の何物でもありません。
論は信に従い、信は論を導く。
両者が表裏一体の関係であることを
物語っているのでしょう。
私たちが御言葉を学んでいく時にも、み言葉の論理ばかりを追い回していけば、
同様の落とし穴に落っこちてしまうことになりはしないでしょうか?
あらゆる御言葉をたくさん引用し、並べ立てて解釈を講じられ、これぞお父様の御心、これぞ真正の摂理、これこそ真の後継者とばかりに訴えられます。
だが、理屈の世界から直感の世界に飛躍するために、私たちは思索するのではないでしょうか?
家庭連合の公式見解は単なるみ言葉の羅列にしか感じられず、いくらかしか目を通してはおりませんが、三男派の方たちの御意見も理屈のパレード宜しく颯爽として格好が良いのですが、信仰的直感というものがあまり見受けられないようです。
これは一体どうしてなのでしょうか?
また、四研という方々もいくらか読んでみますと、理屈の世界に住んでいるように感じられます。
また、組織神学的な聖書の理解を本筋に置いておられる方もおられるようです。
何故統一原理を組織神学的に整理しなければならなかったかというのは、クリスチャンがみ言葉の理解の壁を超えることができないことに手を差し伸べるためです。
彼らの慣れ親しんでいる宗教的言語に合わせてあげる必要が、彼らを救うためにはどうしても必要だったからでしょう。
相対基準を造成するためでした。
だが、「タマルがわかれば原理の全てがわかるよ」とお父様はおっしゃいました。
統一神学は、特に旧約聖書の血統転換による再解釈の研究に主軸をおくべきでした。
そうすることによって、第一イスラエルや第二イスラエルの優秀な方々に、お父様がメシアであることを証しすべきでした。
それが、できませんでした。
金栄雲先生以来、既成神学の形態に準拠しての研究に力点を置きすぎてきました。
信仰的直感を疎かにしてきて、理屈の世界に翻弄されてきた結果だと感じるのは、私だけでしょうか?
論理や戦略は自分のための論理や自分のための戦略に留まりやすい性格を持っています。
自己保存心である肉心に属するからでしょう。
天使長は知の天使でした。
彼が持っていた知は自分のための知でした。
肉心に属する論理に重きをおくか
さもなくば、生心に属する直感に重きをおくか
主体対象合わせて統一判断を下せれば、それ以上の幸せはないことでしょう。
われらが天宙和動の中心体ならば。
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