NHKの西田についての番組に出演した、上田閑照が「経験」→「自覚」→「場所」というように、西田の哲学は発展してきたと語っていた。
竹村先生の本の他に西田哲学のキーワードから西田を説明しているものがないかと捜してみた。上田閑照の「西田哲学への導き 経験と自覚」を先ず見てみたが、どうもしっくり来なかった。その後で小坂国継の「西田幾多郎の思想」という本を見つけた。
これは主要な西田哲学のキーワードを拾って説明しているので、この本も竹村先生の本と一緒に参考にして、統一原理を学んできた立場から、一体統一原理で言うと、どの辺りを考察したものなのか考えてみることにした。
先ず、人間が霊と肉からなる二重存在であることの確認から始めたい。
原理講論の 第六節 人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界 では以下の記述がある。
(3) 生心と肉心との関係から見た人間の心
生心と肉心との関係は、性相と形状との関係と同じく、それらが神を中心として授受作用をして合性一体化すれば、霊人体と肉身を合性一体化させて、創造目的を指向させる一つの作用体をつくる。これが正に人間の心である。人間は堕落し、神を知ることができなくなるに従って、善の絶対的な基準も分からなくなったが、上述のように、創造された本性により、人間の心は、常に自分が善であると考えるものを指向する。このような心を良心という。しかし、堕落人間は善の絶対的な基準を知らず、良心の絶対的な基準をも立てることができないので、善の基準を異にするに従って、良心の基準も異なるものとなり、良心を主張する人たちの間にも、しばしば闘争が起こるようになる。善を指向する心の性相的な
部分を本心といい、その形状的な部分を良心という。
それゆえに、人間がその無知によって、創造本然のものと基準を異にする善を立てるようになるときにも、良心はその善を指向するが、本心はこれに反発して、良心をその本心が指向する方へと引き戻す作用をする。サタンの拘束を受けている生心と肉心が授受作用をして合性一体化すれば、人間をして悪を指向させるまた一つの作用体をつくるが、これを我々は邪心という。人間の本心や良心は、この邪心に反発し、人間をしてサタンを分立させ、神と相対することによって、悪を退け善を指向するようにさせるのである。
(1) 霊肉の二重存在としての人間
生 心+霊 体=霊人体
↓ + ↑ → 人間
肉 心+肉 体=肉 身
人間には心と体があるように
目に見えない霊人体と目に見える肉身の二重の体を持っている。
詳しくは、霊人体は見えない生心という心と見えない霊体という体 から成る。
また、肉身も 肉の心としての肉心と肉の 体としての肉体を持つ。
二つの音叉が響き合い共鳴するように
神と人間の生心も相対基準を造成することによって
響き合い共鳴するようになる。
こうして神の心情が我々人間の生心に臨在されるようになるのである。
(2)神が臨在される、神と父子の関係にある人間
神 様
↓ ↑ →一体化→神が臨在(父が子にあり子が父にある)
生 心
(3)人間の心の二重性と二段階性
生 心(自己超越心)
肉 心(自己保存心)
注:( )内は私の説明であり、原理講論に準拠していない)
以上の三つの図を念頭に話を進めていきたい。
心から生じる心の作用というものには、知情意の3つ作用が含まれているが、ここでは主に知的作用、すなわち「考えるということ」についてと、「信仰」について取り扱っていきたい。
竹村先生が引用している、1944年12月22日付けの務台理作宛の手紙で田辺元に対する批判がある。
田辺のような立場からは信によって救われるということが出て来ない。つまり回心ということの世界だ。これが宗教的世界か。罪悪深重の凡夫が仏の呼声を聞き信に入る。そこに転換の立場がなければならない。これまで独りで煩悶していたが、実は仏のほどころにあった、仏の光の圏内に入って仏に手を引かれていることになる。そこにはどうしても包まれるというとかがなければならない。場所論理において対応ということはいつも逆対応ということでなければならない。
(2)の図を見て頂きたい。
西田の言う「対応」は「作用」に、また「逆対応」は「反作用」という言葉に置き換えてもほぼ問題ないと思われる。
現代人にはその方がわかりやすい。
すると凡夫から救いを求めて働きかけるのが「対応」で
それに応じて阿弥陀仏が働きかけるのが「逆対応」ということで、
相互作用の場 これが西田の言っている場所とか場所の論理であろう。
これを凡夫から見て「受け取る」ということを「逆」と表現したのであろう。
この相互作用が徹底され両者が統一される場を語っているものであろう。
神(絶対者)と私の授受作用の場ということである。
そこで、徹底した関係を持つ場所ということである。
竹村先生に由れば、西田の1945年1月6日の務台宛の手紙に、宗教を論じた論文が「禅」と「浄土真宗」と「キリスト教」を統合する視点で書いているという。
西田の「世界的霊性」というわけである。
上記の原理講論では
「人間は堕落し、神を知ることができなくなるに従って、善の絶対的な基準も分からなくなったが、上述のように、創造された本性により、人間の心は、常に自分が善であると考えるものを指向する。」
とあり、西田が善の研究を極めていこうとすればこの問題に向かわざるを得ないのである。
私自身の信仰の感覚では、自身が気づかぬうちに、先ず神からの働きかけ「作用」があり、自分が「反作用」を起こすようになるというものであるが、西田の場合は逆のようである。
西田は「ひとえに親鸞一人がためなり」ということを父子の関係性に見ている。
同じく愛を主とした他力宗であっても、猶太教から出た基督教は尚、正義の観念が強く、いくらか罪を責むるという趣があるが、真宗はこれと違い絶対的愛、絶対的他力の宗教である。例の放蕩息子を迎えた父のように、いかなる愚人、いかなる罪人に対しても弥陀はただ汝の為に我は粉骨砕身せりといって、これを迎えられるのが真宗の本旨である。歎異抄の中に上人が「阿弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなりけり」といわれたのがその極意を示したものであろう。
西田全集 第1巻 408頁
ところが一方で、「善の研究」において、西田の神観は汎神論であることを認めている。
超越的神があって外から世界を支配するという如き考えはただに我々の理性と衝突するばかりではなく、かかる宗教の最深なるものとはいわれないように思う。我々が神意として知るべきものは自然の理法あるのみである、この他に天啓というべきものはない。・・・我々の神とは天地これによりて位し万物これによりて育する宇宙の内面的統一力でなければならぬ。この外に神というべきものはない。もし神が人格的であるというならば、かくの如き実在の根本においてただちに人格的意義を認めるとの意味でなくてはならぬ。
善の研究 第2章 宗教の本質
西田が言う神はやはり仏教とか禅に立脚した色彩が強いため、「自然の理法」や「宇宙の内面的統一力」としての神という理解になっている。
これでも随分省いて書いているが、解説書ではないのでキーワードについて駆け足で進むことにする。
直感というのは、主客の未だ分かれない、知るものと知られるものと一つである、現実そのままな、不断進行の意識である。反省というのは、この進行の外に立って、翻って之を見た意識である。・・・余は我々にこの二つのものの内面的関係を明らかにするものはわれわれの自覚であると思う。自覚においては、自己が自己の作用を対象として、之を 反省するとともに、かく反省するということが直ちに自己発展の作用である、かくして無限に進むのである。反省ということは、自覚の意識においては、外より加えられた偶然の出来事ではなく、実に意識そのものの必然的性質であるのである。
自覚に於ける直感と反省
西田がいう「自覚における直感と反省」とは何か?あるいは統一原理のどの辺りを考察していると思われるか。これを考えるに、
「宇宙の内面的力統一」としての神が、統一原理でいう生心によって肉心に働きかけて来たとき感受するものが「直感」であり、人間が霊と肉の二重存在であるが故に、肉心も生心同様に重要であり、この肉心によって為されることが「反省」である。
生心と肉心。直感と反省の授受作用、言いかえれば相互作用が、「宇宙の内面的統一力」によって調和し統一したものが「自覚」である。絶対の統一である。
生心には無分別智(統一智)が関わり、肉心には分別智(分析比較智)が関わっている。
そこで
(3)人間の心の二重性と二段階性 の図を見て頂くと
ノエシス(考える主体)とノエマ(考えられる対象)というフッサールの言葉は、分別智、わかりやすくいえば言えば、理性の働きのなかでの、考える主体と考えられる対象であったが、西田はこの言葉を契機として別の意味を与えるのに苦労しているように見える。
(3)人間の心の二重性と二段階性 の図を見て頂きたい。
これは、フッサールのほうが、心の二段階性の後半である、分別智の働きに於ける、いわば横的なノエシスとノエマであるのに対して、西田が問題としているのは、前半のほうで生心の知的側面の無分別智を主体として、肉心の知的側面の分別智を対象とする、縦的なノエシスとノエマであると思われる。
フッサールのノエマは具体的なイヌやネコのような観念や抽象的で複雑な概念などを指すのであろうが、西田の方はノエマの方も主体性を持った対象としての心であり智であると私は考えている。
私見ではその点で西田は、フッサールを一歩進んだのではなかろうか。
勿論、この点を本人がハッキリ自覚していたとは言えないのかも知れない。
しかし、その領域に進んでいたことは確かであろう。
人生は不思議なものである。
もし、西田が大拙のように見性体験の実感があったとしたら、西田哲学は表現は違っても大拙のようなスタンスで禅や浄土系思想の案内をするような形になったのではなかろうか?
西田はかえってそうではなかったので、大拙より遙かに無分別智と分別智を往来することができたのであろう。それによって、二人は互いによき影響を与え合いながらも、それぞれの個性を現すことができたのであろう。
神が道を求めて精誠を尽くす西田に与えたプレゼントであったことだろう。
一般の方々の理解のために原理講論の
第六節 人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界 の
(3) 生心と肉心との関係から見た人間の心 の前の文章も参考のため記しておくことにした。
(一) 無形実体世界と有形実体世界
被造世界は、神の二性性相に似た人間を標本として創造されたので、あらゆる存在は、心と体からなる人間の基本形に似ないものは一つもない(本章第一節(二)参照)。したがって、被造世界には、人間の体のような有形実体世界ばかりでなく、その主体たる人間の心のような無形実体世界もまたあるのである。これを無形実体世界というのは、我々の生理的な五官では、それを感覚することができず、霊的五官だけでしか感覚することができないからである。霊的体験によれば、この無形世界は、霊的な五官により、有形世界と全く同じく感覚できる実在世界なので、この有形、無形の二つの実体世界を総合したものを、我々は天宙と呼ぶ。
心との関係がなくては、体の行動があり得ないように、神との関係がなくては創造本然の人間の行動もあり得ない。したがって、無形世界との関係がなくては、有形世界が創造本然の価値を表すことはできないのである。ゆえに、心を知らずには、その人格が分からないように、神を知らなくては、人生の根本意義を知ることはできない。また、無形世界がいかなるものであるかを知らなくては、有形世界がいかなるものであるかを完全に知ることはできないのである。それゆえに、無形世界は主体の世界であり、有形世界は対象の世界であって、後者は前者の影のようなものである(ヘブル八・5)。有形世界で生活した人間が肉身を脱げば、その霊人体は直ちに、無形世界に行って永住するようになる。
(二) 被造世界における人間の位置
第一に、神は人間を被造世界の主管者として創造された(創一・28)。ところで被造世界は、神に対する内的な感性を備えていない。その結果、神はこの世界を直接主管なさらずに、この世界に対する感性を備えた人間を創造され、彼をして被造世界を直接主管するようになされたのである。したがって、人間を創造されるに当たって、有形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ要素である水と土と空気で肉身を創造された。無形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ霊的要素で、霊人体を創造された。変貌山上でのイエスの前に、既に一六〇〇余年前に亡くなったモーセと、九〇〇余年前に亡くなったエリヤが顕現したとあるが(マタイ一七・3)、これらはみな、彼らの霊人体であった。このように、有形世界を主管できる肉身と、無形世界を主管できる霊人体とから構成された人間は、有形世界と無形世界をみな主管することができるのである。
第二に、神は人間を被造世界の媒介体として、また和動の中心体として創造された。人間の肉身と霊人体が授受作用により合性一体化して、神の実体対象となるとき、有形、無形の二つの世界もまた、その人間を中心として授受作用を起こし合性一体化して、神の対象世界となる。そうすることによって、人間は二つの世界の媒介体となり、あるいは和動の中心体となる。人間は、ちょうど二つの音叉を共鳴させるときの空気のようなものである。人間はこのように、無形世界(霊界)と通ずるように創造されたので、あたかも、ラジオやテレビのように、霊界の事実をそのまま反映するようになっている。
第三に、神は人間を、天宙を総合した実体相として創造された。神はのちに創造なさる人間の性相と形状の実体的な展開として、先に被造世界を創造されたのである。したがって、霊人体の性相と形状の実体的な展開として、無形世界を創造されたので、霊人体は無形世界を総合した実体相である。また肉身の性相と形状の実体的な展開として有形世界を創造されたので、肉身は有形世界を総合した実体相となるのである。ゆえに、人間は天宙を総合した実体相となるので、しばしば人間を小宇宙という理由は、ここにあるのである。
ところが、人間が堕落し、被造世界が自己を主管してくれる主人を失ったので、ロマ書八章19節に、被造物は神の子たち(復帰された創造本然の人間)の出現を待ち望んでいると述べられている。それだけでなく、和動の中心体である人間が堕落して、有形、無形二つの世界の授受作用が切れたので、それらが一体となることができずに分離されたから、ロマ書八章22節には、被造物が嘆息している事実を明らかにしている。
イエスは霊人体と肉身をもつ完全なアダムとして降臨された方である。したがって、彼は天宙を総合した実体相であったのである。それゆえに、万物をキリストの足もとに従わせたと言われた(コリント・一五・27)。イエスは堕落人間が彼を信じ、彼と一体となって、彼と共に完成した人間とならしめるために降臨されたので、救い主であられるのである。
次回は「矛盾」「否定」についていくらかお話しして、
彼らに学ばせて頂いている際に浮かんできたもう一つの日本的霊性の系譜という思いつきについて書いて終わりにしたいが、その後で統一原理から見た十牛図について、日を改めて書く機会を得たいと考えている。
とにかく文鮮明恵父の偉大な思想を原理講論に纏めてくださった劉孝元先生には本当に感謝してならない。凡人の我々がただ同然にこの御言葉の恩恵を受けていることは本当に奇跡というより外にない。
アージュ!