原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

新約の旧教では三位一体の三位の3数を重視しますが、成約では家庭的四位基台の四位の4数を重視し、三対象目的の目的の3数を重視します

三位一体の聖霊ですが

ドイツ語の名詞の性は、あまり性別に関係ありません。

無視して良いかと思います。

聖霊を表す諸国の言葉の性より、むしろ数のほうが大切なように私には思われます。

さて、新たな三位一体観は必要でしょうか?

 

極言致しますと、われわれ成約聖徒には三位一体の話は必要ありません。

三位一体の原理的解釈はクリスチャンのためにあるのであって、それは家庭的四位基台に導くためであると言って差し支えないことでしょう。

再臨主文鮮明先生は、家庭は天国の雛形とおっしゃいました。

ですから、私たちがフォーカスすべきは家庭的四位基台でしょう。

 

新約の三位一体とは、成約聖徒にとって何を意味することでしょうか?

三位が一体しているというのは、具体的にはどういうことでしょうか?

エス様は地上で結婚することができず、家庭を築くこともできませんでした。

そこで、カトリックは観念的な三位一体という神学的概念にとどまってしまいます。

四位に至りませんでした。

エス様が結婚しなかったので子女がいなかったからです。

そこで神とキリストの父と子、そして聖霊の三位という変則的な形になりました。

 

われわれが求めるのは真の神学的概念ではなく、真の生活、真の家庭生活です。

三位が一体となるには、三対象目的を四位が成就しなければなりません。

「位」というポジションで言えば、3ではなく4が重要だとするのが統一原理です。

また、3数で言えば、三対象目的の3つの目的が重要だというのが統一原理です。

 

神様は三対象目的を非常に重視しました。

時間と空間のある世界である有形実体世界には、正分合作用があらわれます。

正分合作用は、家庭を形成するために無くてはならないものでした。

概念的なことばですが、家庭を築くことを目的としている言葉です。

4者が4つの位置から三対象目的を完成させます。

12対象目的の完成。

三位一体ではなく、三対象目的の成就による四位一体です。

これがカトリックで言う三位一体の、成約的な捉え方です。

重要なことは創造原理にあります。

ここに神の愛が顕現するというのです。

 

では、アダムとエバの誕生を迎えて、有形実体世界で家庭的四位基台を形成する以前の神様はどうなされたというのでしょうか?

時空間でないので肉身による繁殖もなく家庭もありませんでした。

そのような神様でしたが、実体世界の愛の表現を象徴的に無形実体世界において天使長と現そうとされたというのです。

すなわち無形実体世界における神様の三対象目的が三大天使でした。

しかしながら、彼ら天使との人格的交流は、有形実体世界の家庭のような立体的愛の世界ではありませんでした。

平面的愛の世界でした。横的な兄弟愛の世界でした。

そこで文鮮明先生は、神様が兄ならルーシェルは弟だと言いました。

愛の関係性がそうでした。

エス様は結婚して伴侶を持ち、家庭を築いて、それを天国の雛形とされ、地上天国を建設することができませんでした。

悪党どもに殺されてしまったからでした。

十字架に勝利して復活されたイエス様は、やむを得ず地上ではなく天上に霊的に天国を創られました。

そこでキリスト教の愛の世界は、家庭的な立体的愛の世界ではなく、平面的な横的な愛の世界である兄弟愛が基本になってしまいました。

 

それは、神様が地上に三大祝福の理想を見る前に、天使長との人格的な愛の交流を築いた世界で留まってしまいました。

 

三位一体にこだわると、われわれは成約から新約に引っ張られてしまい、

私を中心とする家庭的四位基台からフォーカスがずれていきます。

 

さて、このブログでは隠れキリシタンのことをいくらか取り上げてまいりました。

われわれ成約聖徒がカトリックの誰に意識が向くのが自然でしょうか?

わたしはアウグスチヌスではないかと思います。

彼の相対者は誰で、今どこにいるというのでしょうか?

地上に相対者がいるアウグスチヌスは誰かに協助したいと考えるでしょうか?

考えないことでしょうか?

誰か隠れキリシタンを愛する者に、アウグスチヌスを意識する者がいることでしょうか?

もしいなければ大変もったいなく残念なことでしょう。

 

最後に、四位基台の中心である神様の三対象目的にとって、大変重要なことは、長孫に侍る愛の存在です。

アダムとエバに敬愛される神は、彼らが産んだであろう真の子女、すなわち神様から見て長孫に侍って喜ぶ伝統を立てられる予定でした。

それはお父様が信俊様にそうされてこられたことによって確かに実現しました。

神様も祖父母も尊敬された立場から、へりくだって、孫に仕え侍ることによって、真の愛を完結されます。

家庭は神に始まり、神に侍られ、愛の円環運動をするようになるというのです。

 

 


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