原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

神の霊(the Spirit of God)と聖霊(Holy Spirit) 聖霊の実体が堕落したなら神の霊を求めよ!

神の霊がお父様の聖霊のことで、神霊協会の神霊はthe Spirit of Godのことである。

以前は私はdivine spiritと言って、聖霊のHoly Spiritととは区別したほうがよいとした。

まあ、ヘブライ語ギリシャ語の確認が必要ではあろう。

例えば神にあたるエローヒムは複数形だとか。

神は天使たちとともに創造したということか。

原典に帰ると見えなかったものがわかることがあるようだ。

旧約時代は神は天使の姿で現れている。

 

Genesis 1:1 In the beginning God created the heavens and the earth. 1:2 And the earth was waste and void; and darkness was upon the face of the deep: and the Spirit of God moved upon the face of the waters. 1:3 And God said, Let there be light: and there was light. 1:4 And God saw the light, that it was good: and God divided the light from the darkness. 1:5 And God called the light Day, and the darkness he called Night. And there was evening and there was morning, one day.

 

実際、キリスト教でも何故聖霊が問題視され議論されてきたのか、その本質的な意味をよくわかっていない。

聖霊 - Wikipedia より如何に引用

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前提:共通点と相違点の存在[編集]

キリスト教内の各教派において、聖霊についての捉え方・考え方には、共通する部分と異なる部分がある。

東方教会西方教会の間には、聖霊が「父(なる神)からのみ発出する」とするか、それとも「父(なる神)と子(なる神)から発出する」とするかを相違点とするフィリオクェ問題がある。正教会神学者ウラジーミル・ロースキイは、フィリオクェ問題を東西教会の分裂の根源的かつ唯一の教義上の原因であるとしている[12](なお、20世紀末以降、西方教会側で「フィリオクェ」を削除ないし再考[13]する動きが散見される、詳細後述[14])。

カトリック教会プロテスタントの間においては、聖霊に関する教理16世紀宗教改革において聖書を優先していくプロテスタントの中心にあったとされることがある[15]。当時カトリック教会側においては、枢機卿ロベルト・ベラルミーノから、プロテスタントにおいて聖霊論と関係する教理である救いの確信を、プロテスタントが異端であることの最たるものとする批判があり[15]またカトリック司祭エドマンド・キャンピオンは、聖霊論にプロテスタントカトリック教会との根本的な相違があると捉えていた[15]

このように教派ごとの相違点があり、論者によっては重要な争点と位置付けられる一方で[16]、論者によっては、伝統的な神学では聖霊論は非常に軽視されてきた分野であると評される事もある[17]

本項では各節において、できる限り幅広い教派に共通する内容を先に述べ、次に各教派ごと(東方教会正教会西方教会カトリック教会・聖公会プロテスタントの順)の内容を簡潔に述べる。

神(位格・個位)[編集]

整理された教義(教理・定理)[編集]

 
西方教会でよく使われる『三位一体の盾』の図式。三位一体を図式化するのには様々なバリエーションがある。

正教会[2]非カルケドン派[18]カトリック教会[4]聖公会[19][20]プロテスタント[16][21][22]において、聖霊三位一体の一つの位格(個位、神格、υπόστασις[注釈 3]persona[注釈 4])であると位置付けられる。

第1ニカイア公会議(第一全地公会、325年)の頃から第1コンスタンティノポリス公会議(第二全地公会、381年)の頃にかけて、こうした三位一体論の定式が(論争はこの二つの公会議が終わった後もなお続いていたが)整理されていった[23][24]

「異端」とされた考え[編集]

本節では、いわゆる正統派から否定される諸説を概観する。「三位一体そのものを説明するよりも、三位一体でないもの(異端の教え)を説明し、それを否定する方がより正確」とされることがある[25]

  • 三神論(聖霊は「三つの神のうちの一つ」)
    • いわゆる正統派によれば、聖霊は神であるが、父なる神・子なる神・聖霊は、三つの神ではないとされ、三位格は三神ではないとされる[25][26][27][28](なお、こうした「異端」が歴史上まとまった形で出現したことはないともされるが[29]、幾つかの事例につき「三重の神性」への傾斜として批判的に指摘されることはある[4])。
  • 聖霊は一様式(mode)もしくは「一つの『役』」
    • 「子なる神、聖霊は、時代によって神が自分を表す様式(mode)を変えていったもの」「一つの『役』のようなもの」と主張する考えは、様態論的モナルキア主義英語modalistic monarchianism)と呼ばれ、いわゆる正統派から否定される[25][30][31][32]

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大切なことは、東西教会の決定的な相違点が聖霊論にあるばかりではなく、

カトリックプロテスタントも同様であるということである。

そして、今日統一家においても、この問題が分裂の決定的要件になっている。

歴史は繰り返されるということか。

原理講論のキリスト論における聖霊に関係する箇所を振り返る。

 

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         (一)重生論
(1) 重生の使命から見たイエス聖霊
 エスは、自分を訪ねてきたユダヤ人の官吏ニコデモに、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできないと言われた(ヨハネ三・3)。重生とは二度生まれるという意味である。では、人間はなぜ新たに生まれなければならないのであろうか。我々はここで、堕落人間が重生しなければならない理由について調べてみることにしよう。
 アダムとエバが創造理想を完成して、人類の真の父母となったならば、彼らから生まれた子女たちは原罪がない善の子女となり、地上天国をつくったであろう。しかし、彼らは堕落して人類の悪の父母となったので、悪の子女を生み殖やして、地上地獄をつくることになったのである。したがって、イエスが、ニコデモに言われたみ言どおり、堕落した人間は原罪がない子女として新たに生まれ直さなければ、神の国を見ることができないのである。
 我々を生んでくださるのは、父母でなければならない。それでは、堕落した我々を原罪がない子女として生んで、神の国に入らせてくださる善の父母は、いったいどなたなのであろうか。原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。ゆえに、ペテロ�一章3節に、「イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」というみ言がある。イエスは、アダムによって成し遂げられなかった真の父としての使命を全うするために来られたので、聖書では、彼を後のアダムといい(コリント�一五・45)、永遠の父といったのである(イザヤ九・6)。また、神は、預言者エリヤを再び送り、彼の力で堕落した人間の心を、父母として降臨されるイエスの方へ向けさせることによって、彼らをその子女となさしめると言われた(マラキ四・6)。そして、イエスが再臨されるときも、父の栄光のうちに来られる(マタイ一六・27)と言われたのである。
 ところで、父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ三・5)と言われたのである。
 このように、聖霊は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊は女性神であられるので、聖霊を受けなくては、イエスの前に新婦として立つことができない。また、聖霊は慰労と感動の働きをなさるのであり(コリント�一二・3)、エバが犯した罪を蕩減復帰されるので、罪の悔い改めの業をしなければならないのである。さらに、イエスは男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、業(役事)をなさるのである。

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キリスト教会では聖霊を女性的な人格としてはとらえることがあまりない。

だが、聖霊様と呼んで人格を重んじるところもある。

引き続き統一原理の立場で説明が続く。

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         (2) ロゴスの二性性相から見たイエス聖霊
 ロゴスという言葉はギリシャ語で、み言、あるいは理法という意味をもっている。ヨハネ福音書一章1節以下を見ると、ロゴスは神の対象で、神と授受をなすような関係の位置をとっているという意味のことが書かれている。ところで、ロゴスの主体である神が、二性性相としておられるので、その対象であるロゴスも、やはり二性性相とならざるを得ない。もし、ロゴスが二性性相になっていないならば、ロゴスで創造された被造物(ヨハネ一・3)も、二性性相になっているはずがない。このようなロゴスの二性性相が、神の形象的な実体対象として分立されたのが、アダムとエバであった(前編第一章第一節(一))。
 アダムが創造理想を完成した男性、すなわち生命の木となり、エバが創造理想を完成した女性、すなわち善悪を知る木となって、人類の真の父母となったならば、そのときに、神の三大祝福が完成され、地上天国は成就されたはずであった。しかし、彼らが堕落したので、反対に、地上地獄になってしまった。それゆえ、堕落人間を再び生み直してくださるために、エスは、後のアダム(コリント�一五・45)として、生命の木の使命をもって(黙二二・14)人類の真の父として来られたのである。このように考えてくると、ここに後のエバとして、善悪を知る木の使命をもった人類の真の母が(黙二二・17)、当然いなければならないということになる。これがすなわち、堕落した人間を、再び生んでくださる真の母として来られる聖霊なのである。

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善のみ知るの木となるべきであった韓鶴子

何故呼び捨てるのか?

この道は、復帰摂理は、善悪闘争史である。

曖昧な中間位置は存在しない。

山羊か羊か?

神かサタンか?

家連かサンクチュアリか?

共存はあり得ない。

 

 

さて、問題は次のところである。

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         (3) イエス聖霊による霊的重生
 父母の愛がなくては、新たな命が生まれることはできない。それゆえ、我々がコリントⅠ一二章3節に記録されているみ言のように、聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな命が注入され、新しい霊的自我に重生されるのである。これを霊的重生という。ところが、人間は霊肉共に堕落したので、なお、肉的重生を受けることによって、原罪を清算しなければならないのである。イエスは、人間の肉的重生による肉的救いのため、必然的に、再臨されるようになるのである。

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真の母の感動によって真の父文鮮明先生が救い主として信じるようにならなければならない。

それが聖霊の実体としての真の母たる使命である。

そこには自分が無原罪で誕生した独生女であるという自負が微塵も出るはずもない。

まして自分だけ権能の杖や王冠を用意して基元節に檜舞台に現れるとは倒像することができない暴挙である。

 

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         (二)三位一体論
 創造原理によれば、正分合作用により、三対象目的を達成した四位基台の基盤なくしては、神の創造目的は完成されないことになっている。したがって、その目的を達成するためには、イエス聖霊も、神の二性性相から実体的に分立された対象として立って、お互いに授受作用をして合性一体化することにより、神を中心とする四位基台をつくらなければならない。このとき、イエス聖霊は、神を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである。
 元来、神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった。もし、彼らが堕落しないで完成し、神を中心として、真の父母としての三位一体をつくり、善の子女を生み殖やしたならば、彼らの子孫も、やはり、神を中心とする善の夫婦となって、各々三位一体をなしたはずである。したがって、神の三大祝福完成による地上天国は、そのとき、既に完成されたはずであった。しかし、アダムとエバが堕落して、サタンを中心として四位基台を造成したので、サタンを中心とする三位一体となってしまった。ゆえに彼らの子孫もやはり、サタンを中心として三位一体を形成して、堕落した人間社会をつくってしまったのである。
 それゆえ、神はイエス聖霊を、後のアダムと後のエバとして立て、人類の真の父母として立たしめることにより、堕落人間を重生させて、彼らもまた、神を中心とする三位一体をなすようにしなければならないのである。しかし、エス聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった。したがって、イエス聖霊は霊的重生の使命だけをなさっているので、信徒たちも、やはり、霊的な三位一体としてのみ復帰され、いまだ、霊的子女の立場にとどまっているのである。ゆえに、エスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となることによって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らによって原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである。このようにして、堕落人間が神を中心として創造本然の四位基台を造成すれば、そのとき初めて、神の三大祝福を完成した地上天国が復帰されるのである。

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神を中心として再臨主が相対と一体化して初めて信徒たちは重生するようになる。

では、もし一体化していなかったらどうなるのか?

勿論重生は失敗に終わる。

考えてみて欲しい。

神の種、再臨主の種によって新しく生まれるのである。

ところが相対がこれを拒んでいるとすれば

どのように生み返されるというのであろうか?

種無しの無精卵祝福である。

サタンに騙された祝福である。

 

独生子ではなく独生女の話ばかりする女が聖霊の実体となり得ようか?

再臨主の言葉ではなく自分の言葉ばかり話す女が聖霊の実体たり得ようか?

再臨主の歴史的建造物を次々に売り払い自分の企画する建造物を建て続ける女が

聖霊の実体たり得ようか?

再臨主が誰も手をかけてはならないとした天聖経を改竄した女が

聖霊の実体たり得ようか?

お父様の家紋を使わず自分の家紋を使う女が聖霊の実体たり得ようか?

 

神の創造は、エバの創造である。

実体の神様である再臨主はエバを創造しなければならない。

創造すなわち教育である。

そこでお父様はお母様を教育したと言われてきた。

これを否定すれば天地が完成されない。

夜の神様と昼の神様が分裂してしまう。

韓鶴子は天地の破壊者となった。

 

私がこの場に来るまでは天の保護圏にあったのです。私を教育した人は誰もいません。一人息子、一人娘は同等なのです。一人息子が一人娘を教育したとは言えません。

2014年10月27日 韓鶴子

 

 

三位一体も夢の夢という話である。

韓鶴子オモニは自ら堕落したのである。

韓鶴子はお父様に反逆しているのだ!

バビロンの淫婦よ!

 

オモニを私が育ててきたよ。オモニはいません。
文総裁の妻の位置もありません。
自分勝手にやっている。自分勝手に!
2012年7月16日 文鮮明

 

あなたは独生女につくのか?

独生子につくのか?

永遠の命の分岐路である。

 

私たちの子供の名前は、お父様が下さった漢字の中からと

妻の夢に現れた韓鶴子オモニが下さった「進」に似た漢字の組み合わせによって

名付けた。

オモニは私たちの恩人である。

たとえ偉大な真の母としておられた方でも、

また霊的に施してくださった個人的恩人であっても、

メシアを否定されればアウト!

 

もはや袂を分かつしかない。

バビロンの大淫婦と呼ばざるをえない。

この道は厳しい道である。

 

 

実体的な神様、神様の受肉者は、夜の神様に侍ります。
お母様をその(昼の神様の)位置に立てたので、お母様は私が夜の神様に侍ったように、私に侍らなければなりません。お母様は私の肉身のようなものです。
お母様がその位置に上がったとしても、自分の上に夜の神様がいることを知らなければなりません。お母様は、私を昼の神様の上に立て、夜の神様として私に侍ることが出来なければなりません。それがなされるとき、すべてが完全に終わります。お母様がこれを知らなければ、私はその位置に行きません。
2011年4月12日 文鮮明

 

 み言葉は以下のサイトによる

http://h2fanclub.blogspot.jp/2016/06/blog-post_44.html

 

 

家庭連合の審判の日は近い!