原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

サタンは先ず中村氏に入り、次にクルト氏に入り、最後に澤田氏に入った。 2,お父様の御言葉を使って自分の思想を語るクルト氏にサタンが入り疑似教団を作った

サタンは先ず中村氏に入り、次にクルト氏に入り、最後に澤田氏に入った。

 

永田氏は中村氏の同時性の間違いを感じた。

「クルトさんがあんなに言っているのだから・・・」そう言っていた。

クルトさんはどこがどう間違っているのかわからないが、なんだか強く胸騒ぎがするとでもいうように騒いでいた。

クルト氏の本もひどいものだった。

例えて言えば、倉原講師が作った自己実現成功哲学?の講座のようだ。

倉原氏の成功哲学が原理講論のパクリそのものだったように、お父様のある御言葉をもとに、それを解説するのではなく自分が考え出したんだと言うようなものだった。

特に統一思想の本に書かれていることをあたかも自分が発見した如く書かれていた。

元になっていると思われる「統一思想要綱」を読む方がよっぽどよく分かる。

兄弟も兄弟でまともに統一思想を学んだことがないので、クルトさんが語るとクルトさんが解明されたのだと勘違いして感動してしまう。

統一原理+統一思想+勝共理論=統一理論

統一思想や勝共理論を学んでいない聖殿信徒は基本書を読むべきである。

クルト教団と呼ばれても仕方がない面があるのだ。

まともなジャーナリストは客観的事実と主観的判断を区別し読者にはっきりわかるようにする。

同様にクルトさんもお父様が公認している李相軒先生の言葉(客観的事実)なのか、

それとも自分の主観的判断(意見)なのか峻別して語らなければならない。

 

「霊界システム」という言葉を重要視するのはいいとしても、

エス様の思想は地上で解かれるものは天でも解かれるというものだった。

 

 よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。 

マタイ18:18

 

また、統一原理も先ず地上に天国ができ、

後に天上に天国ができるということであり誰もが知るところだ。

 

クルトさんの霊界システムは真逆に働くという主張だ。

霊界システム ⇒ 地上システム

 

クルトさんは三位一体を重視するが、統一原理はそうではない。

キリスト教神学の重要な概念であるので原理的にはどういうことか説明する必要があるので一章設けているが、お父様の御言葉にはキリスト教との関連以外で三位一体がでることはないと思う。お父様の思想の核心ではないのだ。

 

わたしはこう思う。

キリスト教(聖書)から統一原理を見てもわからない。

そうではなく、統一原理からキリスト教(聖書)を見なければならない。

反対であってはならない。

 

「 真の父と真の母がそれぞれ完成すれば、生心に夜の神様が臨在される真のお父様は昼の神様の実体となると同時に、夜の神様の実体となって完成するのです。神様と子と聖霊の三位一体の真のお父様になり、一人でも真の父母になるのです。それと同時に真のお母様は、昼の神様の実体になるのです。」(クルトさんの本より)

 

1,「真の父と真の母がそれぞれ完成すれば、生心に夜の神様が臨在される真のお父様は昼の神様の実体となる」は間違い。

 

実体とはならない。

アダムとエバが成長して完成する以前に堕落したので、神様は夜明けを迎えることができなくなり、夜の神として留まらざるを得なかった。

エバが堕落したので「夜昼のお方」(神様)が引き裂かれ、「夜の神」と「昼の神」に分裂してしまった。本来は一なる「夜昼のお方」である。

昼の神にはお父様自身の完成だけではなれない。

 

2,「同時に、夜の神様の実体となって完成するのです。」も間違い。

「夜の神様に属する」お父様は初めから夜の神様の実体である。

 

本当は、未来の実体の神様の現れを目標としてアダムを造った。だからアダムは実体をもった神様である。この世界を造った、創造したすべての、その主管というものは、完全に知らなければできない。完全主管をなすには、その創造したる神以外に完全主管はできない。完全に知らないというと完全主管はできないから、完全に知っている神以外にない。だから神以外は完全主管はできない。アダムは被造物である。被造物自体が創造の全般をつかさどって、それを完全主管するということは不可能である。だから、そのようなアダムを前に立たせて、そのアダムの中に神直接臨在して、アダムという肉体を、神の共鳴体と同じような立場に立たせて、神直接この大宇宙を主管しようとした。 

(祝福家庭と理想天国Ⅱ 血統的転換 P64 1970年10月13日)

 

 

そうであるからこそ原理原本にはいキリストの霊人体が我々とは違うと書かれている。

 

 6−2 イエスは第二アダム
アダムに注入しておいた神様の霊、つまり、生心を中心とした霊人体の中で、神様から与えられた生霊体は、罪を犯したアダムの体にいることができないため、神様が取り上げられた。その霊は、神様の右側にあって、その後、第二アダム格に送られたのであるが、それを受け取った方が、独生子(独り子)イエスであった。ここで、独生子という名詞が明らかになるのである。
こうして、イエスは、第二アダムとして、完全に成熟した姿で人々の前に現れ、福音を伝え始めたのである。その目的は、人々を神様の前に復帰し、堕落前の神様の子女とするためであった。(テオン訳 原理原本)

 

「夜昼のお方」がアダムとエバの成長と完成によって「夜昼の神」となるのであって、

「夜の神」の完成や「昼の神」の完成は意味がない。

 

3,「神様と子と聖霊の三位一体の真のお父様になり、一人でも真の父母になるのです。」も間違い。初めから真の父母である。

 

アダムとは真の父母です。そのお方があなたがたの血統を転換することができます。メシヤは人類を復帰することのできる力をもち、復帰されたアダムとして来られます。」

1980 年 12 月 31 日 ワールドミッションセンター 聖酒式前のみことば 

御言選集 1978~81 

 

 

神様と子と聖霊の三位一体の真のお父様になり」などとは少なくとも原理講論には書かれていない。

ここまで言うともう異端の教義だね。

エス様は独身路程で終わった。

それ故家庭的四位基台を表現できなかった。

父と子という表現しかできなかった。

神様とキリストを二つの人格と見てはならない。

別の言い方をすれば、神様はキリストの人格に自ら規定される。

上記のクルトさんの言葉は通常の理解なら

「神様を中心として心と体が一体の真のお父様になり」となる。

聖霊を無理やり入れ込んで、お父様はイエス様の三位一体を第一段階で通過しなければならず、それによって初めて「一人でも真の父母になるのです。」とは大変おかしな考えである。

キリスト教神学に悪い影響を受けた結果としか言いようがない。

クルトさんの神観には母性神が強く現れる事が多い。

 

4,「それと同時に真のお母様は、昼の神様の実体になるのです。」も間違い。

 

お母様は神様の形状の実体になるのであって、昼の神様の実体にはならない。

エバは堕落によって昼の神に居座っている。

だが、本来なら夜昼の神の実体はアダムである。

エバは実体の神であるアダムの妻である。

 

「第二に夫婦が一つになったとすれば、見えない神様の形状と性相が一つになったと同じように、実体的に引き出して、男は性相の実体、女は形状の実体として、見えない神様の実体圏が見える実体圏となるのです。それはプラス・マイナスであり、例えば心と体と同じように、神様の見えない実体と神様の見える実体の、性相・形状一体圏は良心と同じです。分かりましたか? (はい)。」
(1993年12月19日 韓国・済州研修院)

 

クルトさんの問題は神の愛を女性的な愛としてしか捉えてこなかったことだ。

母性の話ばかりだ。

韓国の時代劇を見れば父子の関係が強烈に強い。

娘も父子の関係を描かれることが殆どで、母子の関係はメインではない。

日本人のように死ぬときに「お母さ〜ん」と言って死ぬ民族は母性神に惹かれやすい。

父の愛とは何かを掴まないといけない。

マリア観音を拝んではいけない。

実はクルトさんの考えはある意味で韓鶴子の教義に似ている。

 

「本然世界に展開する真の父母様本体論」にある「神の絶対孤独」とは菅井さんの孤独を投影して捏造した神観ではないか?

 

菅井さんに対して心配することは、ブログで延々と続く「私はずっと批判されてきた」というネガティブな感情である。

ときに過去を振り返り人に批判されてきたことを思い出して書くことは誰にもあるかもしれないが、菅井さんの場合には繰り返し繰り返しエンドレスなのかとばかりに出てくる。ブログの本文でもコメントに答えて返事を書く時もだ。

本当に大丈夫か?と言いたくなる。

 

エス様は迫害する者のために祈れと言われた。

お父様は自分を窮地に追い詰めようとしたフレイザーやその家族のために祈りなさいと言われた。

まるで左翼に洗脳された韓国人が日本に対して延々と被害者意識を伝えて来る様子にどこか似ていはしまいか。

 

恨みが潜在意識にたっぷり残っているので、みんなに批判されてきたと言うのではないか?

 

クルトさんに対する疑問は、ブログの記事に聖霊聖霊とたくさん書くが、それについて書かれている聖書の記述にはほとんど関心がないかのようで取り上げない。

また、福音書の話の中からピックアップしてそこから恵みを得たというような話もない。

エス様の教えの核心は譬え話にあるかと思うが、

まったく関心を示さない。まるで読んでも印象に残ったものがないとでもいうようだ。

 

プロテスタントの信徒の中で大いに学ばされたという話もない。

それなのに聖霊の話で満ちている。

一体どんな聖霊なのだろうか?

 

原理本体論に挑戦する人がでてくることは大いに結構である。

劉教会長や李先生がどれほど蕩減条件を立てて天界の秘儀に触れたのかもっと切実に感じてほしい。

条件がなくてどうしてお父様が教えてくださるだろうか?

エス様が独生子として誕生した原理とお父様が独生子として誕生した原理が違うことも知らない我々ごときに、どうして天界が開かれるだろうか?

 

しかりしてくれ!日本聖殿!

おっと、日本聖殿だけではなかった独立系もおかしい者が現れた。