外的規範と内的規範 形ある法と形なき良心について
創世記では神様がアダムとエバに戒めを与えたり、
そこで、一般に我々の理解では、人は外的規範を示されてそれを自分のものに体恤して神の似姿に近づいていくものと思ってきたかと思います。
それはそうなのかもしれないけれども、
そうだとすれば、法が人間の主人なのでしょうか?
江戸時代や明治の頃に日本に来た外国人たちは、神が存在しない日本では、
人が見ていない時に、どうしてごまかすことなく一般の人生きていけるのか?
大変不思議だったようです。
つまり、外的な規範だけでは一人だけの時に正しくあることは難しく、
西欧のようにキリスト教の神を信じる社会でさえも大変なことだからでした。
日本人の内的な規範というのはどのようになっているのでしょうか?
以前にも何回か書きましたが、高校1年生のときでしょうか?
郵便局の集配課のバイトをして、郵便局にははがきや手紙に記載されている宛先に対応した格子の棚があって、四丁目の1番地の1〜5までのように、仕切られた棚の場所には、記入がしていてあります。
やってきた集配物を宛先を見ながら、格子の棚の対応する住所のところに置いていきます。
このような体験があるので、後に高校のクラスメートと認識について話していた時に、
この例を持ち出して、外界のものを認識するためにはそれ以前に既に外界のものと照合するものが人間の中になければならないはずだと言いました。
「わかる」ということは、そういうことなのだと。
では、誰が人間が外界のものを知る前に人間の内側にそのような認識の枠組みを人知れずつくたのでしょうか?
しかし、大枠ではそのような仕組みであるとしても、実際には我々は鳩なら鳩を鳩だと教えられて初めて理解するようになるのに、どうしてはじめから認識の枠組があるといえるのでしょうか?
その先の疑問についてはほったらかしにして生きていきました。
浪人時代に伝道され、信仰を持つようになり、統一思想の二冊の解説を読むようになると、認識論が出てまいります。
ロックだとかバークリーだとかヒュームだとかの話が出てきます。
それを読んで、彼らは間違いだと思ったものです。
ロックだけ一部「統一思想要綱」から抜き出してみましょうか。
ロック
経験論を体系づけたのはロック(J.Locke,1632-1704)であり、主著『人間悟性論』において、その主張を詳細に展開した。彼は先ず、認識における生得観念を退けた。生得観念とは、人間が生まれつきもっている、認識に必要な観念のことをいうのである。彼は、人間の心は本来、白紙 (タブラ・ラサ、tabula rasa) のようなものであり、白紙に文字や絵を書けばそのまま残るように、心に入った観念は心の白紙にそのまま書かれる(認識される)といった。つまり彼は、認識は外部から心に入ってくる観念によってなされると見たのである。
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『統一思想要綱』P526
わたしはロックが否定した生得観念を肯定する立場です。
はじめの話では、善悪の判断あるいは認識という話でしたが、いつの間にか外界の事象の認識にすり替わって話が進んでいます。
もう一度、善悪の方に戻す前に、もう一つの事柄について引用したいと思います。
ペンシルベニアのフィラデルフィアで生まれたチョムスキーです。
チョムスキーはすべての人間の原語には普遍的な共通要素があると見たわけですが、
ある言語をまた別の原語が理解できるのはそのような共通の根幹があるからだと考えたのでしょう。
チョムスキーの提唱する生成文法とは、全ての人間の言語に「普遍的な特性がある」という仮説を基にした言語学の一派である。その普遍的特性は人間が持って生まれた、すなわち生得的な、そして生物学的な特徴であるとする言語生得説を唱え、言語を人間の生物学的な器官と捉えた。初期の理論である変形生成文法に用いた演繹的な方法論により、チョムスキー以前の言語学に比べて飛躍的に言語研究の質と精密さを高めた。
外界の事象の認識には、人間の内側に認識の枠組みが生得的に備わっていなければならないというのは、人間が幼児の時に言語を習得していく様に似ていると思います。
チョムスキーの示したドグマ・ドクトリンとしては、脳の言語野に損傷を持たない人間は幼児期に触れる言語が何であるかにかかわらず驚くほどの短期間に言語獲得に成功するが、これは言語の初期状態である普遍文法(英: universal grammar, UG)を生得的に備えているためであると考える。
統一原理では、人間と被造世界が共に神の性質から展開されたと説明しています。
人間はそれを形象的に相続し、被造世界は象徴的に相続しています。
このことが、普遍的な生得観念の存在を予想し、照合され得る根拠となるかと思います。
(二) 神と被造世界との関係
以上の論述によって、被造物はすべて、無形の主体としていまし給う神の二性性相に似た実体に分立された、神の実体対象であることが分かった。このような実体対象を、我々は個性真理体と称する。人間は神の形象的な実体対象であるので、形象的個性真理体といい、人間以外の被造物は、象徴的な実体対象であるために、それらを象徴的個性真理体という。
個性真理体は、このように神の二性性相に似た実体として分立されたものであるがゆえに、それらは、神の本性相的男性に似た陽性の実体と、その本形状的女性に似た陰性の実体とに分立される。さらに、このように分立された個性真理体は、すべて神の実体対象ともなるので、それらは各自、神の本性相と本形状に似て、それ自体の内に性相と形状の二性性相を備えるようになり、それにつれて、陽性と陰性の二性性相を、共に備えるようになる。
ここにおいて、二性性相を中心として見た神と被造世界との関係を要約すれば、被造世界は、無形の主体としていまし給う神の二性性相が、創造原理によって、象徴的または形象的な実体として分立された、個性真理体から構成されている神の実体対象である。すなわち、万物は神の二性性相が象徴的な実体として分立された実体対象であり、人間はそれが形象的な実体として分立された実体対象である。それゆえ、神と被造世界とは、性相と形状との関係と同じく、内外、原因と結果、主体と対象、縦と横など、二性性相の相対的な関係をもっているのである。創造原理
とは言え、ロックが言うのも無理がないといえばそうかもしれません。
生得的観念とやらは我々が自覚的に持っているわけではないからです。
むしろ、学習のあとに得られているかのようです。
私自身は枠組みが人間の内にあることを依然として疑いはしないのですが、すっきりしないところもあります。
ところが、再臨主文鮮明先生が三大主体思想の根本に良心があることを御言で語っているところを読んで、なるほど良心かと手のひらを拳で打つような気持ちになりました。
律法学者は、神が自分の外側に与えてくださった律法を自分の中に作ろうとしました。
だが、それは本当に神の御心だったのでしょうか?
わたしはそうは思いません。
律法は一つの手段にすぎません。その目的は良心の完成です。
イエス様は何故行為よりも動機を重んじ、われわれにそのことを語りかけてくるのでしょうか?
わたしたちは法律家のように民法をすべて知っているどころか、殆ど知らないのではないでしょうか?
それにもかかわらず、何不自由なく暮らしています。
何かことが起きれば法律はどうなっているのか確認することもあるでしょう。
だが、一般には法に対して確たる自覚が常にあるわけではありません。
つまり、内的規範とは外的規範のように見える形で人間の内側にあるのではないということです。
人間の認識は唯物論的なあるいは機械論的にみればいろんな不都合が出てきます。
神が霊であり、その神によって子女として創られた人間も霊です。
多くの人々はわれわれのように統一原理的な人間観を持ちません。
人間は霊人体と肉身からなる二重体だということを知りません。
認識は霊でなされています。
ですから、内的規範は無形なのだと思います。
それは良心だと言っても差し支えないでしょう。
外的律法は「〜せねばならない」と強いられます。
またこれは頭を使って体を動かすことになります。
しかし、良心の求めるままに「〜したい」と生活するのがイエス様の姿であり、
新約が切り開いた世界だと思います。
だから、完璧な協約を求めても、
完璧な信徒信条を求めても、
それらが主人でありわれわれが従属する間は、
真の自由は存在しないでしょう。
枝葉の問題です。
妙好人の生き方が最近わかるような気がします。
人にいきなり後ろから蹴られて、また蹴られて、
何事もなかったかに生きるその妙好人の心がわかるような気がします。
統一原理から見た 西田幾多郎と鈴木大拙 3 竹村牧男著 <宗教>の核心 西田幾多郎と鈴木大拙に学ぶ を参考にして - 原理講論を読む
わしにあたったなむあみだぶつ
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あなたわたしのこころにあたる
こころにあたる弥陀の名号、なむあみだぶつ
わしのこころにあたってみせて
あさましのこころにあたるなむあみだぶつ
万巻の書物に通じた実践の律法学者より、
良心の赴くままに自由に生きたい。
「生素」というじゃありませんか。
生素は神の言葉ですか?
神の愛です。
愛は直短距離、最直短です。
何故?
生霊要素や生力要素のように、霊界や地上界を通さずにやって来るからです。
無形実体世界の霊的授受作用や有形実体世界の肉的授受作用ではなく、
神と直接授受するなかで得る愛です。
神は霊界にも地上にも実体ではおられないからです。
イスラエル民族がモーセの言葉を尊重せず、十二支派七十長老たちが全部自分勝手にやったので十戒を下すようになったのです。この十戒がイスラエルを滅ぼすようにしたのです。それを知らなければなりません。そのために滅びたのです。そのためにイスラエルは滅びたというのです。その法を立てたので、直接指導できないのです。直接指導から離れたというのです。何のことか分かりますか? 十戒を立てたので、直接それを行えない人は神様が対することができなくなったというのです。ですからイスラエル民族は大きな被害を被ったということを知らなければなりません。神様が十戒の後ろに立つようになったというのです。十戒が垣根になったということです。垣根になったというのです。
牧会者の道 第2章 牧会者の役割 ニ、教会組織 6 お父様が支持したとおりにせよ
今日、おもむろに若い人が私に聞いてきた。
「〇〇さんは、どうしていつもにこにこしているの?」
意外な質問に一瞬息を呑んで答えた。
「しあわせだからだね」
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