原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

神とその似姿である人間と牧会の基礎について①

神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。

 

この見ることのできない神様の似姿をもって、実子として見ることのできる人として創造されたのが、アダムとエバであった。

 

:7)主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
 :20)人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

 :21)そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。

 :22)主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。 

 :23)そのとき、人は言った。

 

「これこそ、ついにわたしの骨の骨、

わたしの肉の肉。男から取ったものだから、

これを女と名づけよう」。 

           

 :24)それで人はその父と母を離れて妻と結び合い一体となるのである。  

創世記2章

 

原理講論の神の定義に関する箇所と、創世記の神による人類始祖アダムとエバの創造の記述である。

 

神の姿が始めにあり、それに似せて人間の姿が決まった。

そこで、牧会も

1,神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体 から

心と体の統一問題を対象とする、いわゆる個性完成(人格完成)に関して

牧会する分野があると考えられる。

これは神の人間に対する三大祝福の第一祝福領域である。

ここで注意するべき点は、人間を霊肉の二重存在として我々が捉えているので、

唯物進化論的人間観と人間を誕生させた唯物的世界観を背景としたカウンセリングや各種療法などはそのまま使うことができず、注意して用いなければならないということである。

この世にも神智学や人智学のような人間の霊性に注意目した学問体系も存在している。

これについても、参考になる部分とそうでない部分の仕分けが必要であろう。

また、神の創造本性と堕落性の狭間にある善悪の二重存在であり、神とサタンの中間位置にある人間には、聖堕の観点から、適切な善の条件を立てる指導が、我々には求められるであろう。

一般にカウンセリングではこのような二つの視点が曖昧である。

我々が求める牧会は、以上のような点を深く鑑み構築していかなければならないだろう。

 

2,本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体 から

男性性稟と女性性稟の統一問題を対象とする、いわゆる祝福・結婚・夫婦に関して牧会する分野があると考えられる。

これは神の人間に対する三大祝福の第二祝福領域である。

ここで注意すべき点は、男性自身と女性自身の内側にもそれぞれ男性性稟と女性性稟の要素を共に備えているということである。

神(正)→ 男性と女性(分)→一体と子女繁殖(合)

が通常の理解だが、厳密には男性は、内なる男性性稟を主体とし、内なる女性性稟を対象にして融合一体化した存在である

反対に女性は、内なる女性性稟を主体とし、内なる男性性稟を対象にして融合一体化した存在である

ユングは男性にも女性にもこのような内なる異性が存在することを語ったが、男性の中に存在する女性性稟をアニマ、女性の中にある男性性稟をアニムスと呼んでいて、これらは我々の心の中で無意識に働いている

 

(二) 神の喜びのための善の対象 

神の創造目的に関する問題を詳細に知るためには、我々がどんな状態にいるときに、喜びが生ずるかという問題を先に知らなければならない。喜びは独自的に生ずるものではない。無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである。一つの例を挙げれば、作家の喜びは、彼がもっている構想自体が対象となるか、あるいはその構想が、絵画とか彫刻などの作品として実体化して対象となったとき、その対象からくる刺激によって、自己の性相と形状とを相対的に感じて初めて生ずるようになる。ここで、構想自体が対象として立つときには、それからくる刺激は実体的なものではないために、それによる喜びも実体的なものとなることはできない。人間のこのような性稟は、みな神に似たものである。ゆえに、神もその実体対象からくる刺激によって、それ(神)自体の本性相と本形状を相対的に感ずるとき、初めて喜びに満たされるということを知ることができる

原理講論

 

ところで、この性相と形状は各々、陽性と陰性を属性として持っている。

言葉を換えると、性相は陽性や陰性を帯びて存在し、形状もまた陽性や陰性を帯びて存在している。

そこで、実際には心と体の統一に関する牧会もこの点を留意しなければならず、それを踏まえて始めて別個として存在する男性と女性の統一、つまり神に祝福された夫婦の一体化が促進されるものと思われる。

 

男性自分の内なる女性投影して、実際の女性を見ている。

女性自分の内なる男性投影して、実際の男性を見ている。

 

自分の喜びのために自分を祝福してアニマやアニムスの理想像を追い求め、

相手のありのままの姿を奪い、自分の内にある異性の理想像を得ようと求めるのが恋。

 

祝福は次第にこの内なる異性の拘束から解き放たれて、そのかわりに相手の異性を受け入れて、地上に抜け殻のようにアニマとアニムスを脱ぎ去って、神の似姿となって霊界に行く道なのであろう。

 

愛する人のありのままの姿を奪う愛に生きるか。

愛する人のために内なる異性を捨て去る、与える愛に生きるか。

人生の選択である。

しかしながら、内なる異性のバランスを保って男性や女性として生活しているわけである。原則的には上記のようなことであるが、相手の願う自分になりたいと思う心は、自己を偽らず自由と喜びに満ちていれば、美しいものである。

要はお互いが歩み寄り、自由と喜びの中で愛し合うことができることを神は望まれ、それ故祝福してくださったということである。

 

このような内容の詳細を祝福に際して確認するばかりか、思春期において既に知っておいた方がよいことであろうかと思われる。

内なる異性については別の機会にもう少し書けたらと思う。

 

NHKスペシャル 人体ミクロの大冒険 第2回によれば

ドミニカ共和国のサリーナス村では200人ぐらいの人が自然に性転換しているという

10才から14才くらいの思春期に、筋肉質であった男子が乳房が大きくなり性器も完全に女性のものに変化する。心も女性化する。

性相と形状が共に変化するのである。

また、逆に女子が男子に変身する場合もある。

ここではそのメカニズムについては書かない。

http://www.miomio.tv/watch/cc62532/

 

同性愛について亨進様が語られている。

同性愛は何らかの原因で、この内なる異性のバランスが崩壊した人たちなのであろう。

サリーナスの人は性相と形状が共に自然に変化したもので違和感がないが、

同性愛者は、仮に心の男性化や女性化を認めたとしても、体が自然に変わるわけではない。

サリーナスの人々の例はアダムからエバがつくられたことを連想するが、同性愛とは全く違ったケースである。

生物学的にせよ、心理的にせよ、霊的にせよ。同性愛が内なる異性のバランスの崩壊によって引き起こされた現象であり、本来の通常の男女の関係が成立できない代替えとして為されてきたように思われる。

男同士が愛し合うにせよ、女同士が愛し合うにせよ、

結局のところどちらかが男役になり、どちらかが女役であることには変わりがない。

本来の男女関係が円滑にいかないので、変わりに生じた影のような関係でしかないだろう。

 

3,被造世界に対しては、性相的な男性格主体 から

万物との統一性、すなわち天賦の個性を現し主管性を開発して社会貢献していく分野がある。

これは1とも関係があるが、通常コーチングがこの分野に用いられている。

このあたりは、神の三大祝福の第三祝福領域である万物主管のところである。

 

コーチング・メンタリング・ファシリエイト・モチベーション・カウンセリング・リーダーシップ・フォロワーシップ・・・様々なスキルがどこに関係するものなのか、神の定義と神の似姿としての人間、また神が人間に与えてくださった三大祝福を念頭にして、それらの位置づけをして、統一原理による牧会を我々は模索して行くことが神によって期待されていることであろう。

カウンセラーの信徒の方には奮闘して頂きたいところである。

 

何かを発言すると、きまって神は「では、おまえはどう考えるのだ」と迫ってこられる。そこでとりあえず、牧会について何かを書くこととなった。

 

皆さんに、神のいっそうの祝福がありますことを!

アージュ