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創造原理 被造世界の創造過程とその成長期間② 祝福二世に稲垣久和の「進化論を斬る」を推薦する

 


統一原理講座 第5講「創造原理4 被造世界の創造過程とその成長期間」 - YouTube

創造か進化かを問うときには、少なくとも進化論関係でも数十冊心脳問題においても数十冊は目を通さなければならなくなる。

しかし、こんな事に時間を割くことは価値ある事には思えない。

そこで

李想憲先生の「進化論から新創造論へ」

大谷明史の「ダーウィニズムを超えて」

同著者の「心脳問題と統一思想」

を必読本として学ばれることが良いが、光言社の怠慢で李想憲先生の本以外は、このような良書が再販未定として何年も放置状態である。

売れる本が良書であるとは限らない。残念なことである。

すべての二世はこの程度のことは学んでおくべきであろう。

いのちのことば社も光言社と同じで良書をほったらかしにしている。

不思議なことに信徒がこの本について書いた文章を見たことがない。

稲垣久和が1981年に書いた「進化論を斬る」当時税込みで1650円の本である。191頁の本だが、アマゾンで古本で2000円以上で手にはいる。4~5000円という値段が付けられることもある。

だが、非常に素晴らしい本である。

中学2,3年生でも意識があれば読めると思うが、高校生には是非読んで欲しい本である。

稲垣久和は現在東京基督教大学で神学部教授をしておられる。

1975年から1978年まで、国際理論物理学研究所(トリエステ)、欧州共同原子核研究所(ジュネーブ)で研究員として理論物理学の研究に従事した経歴を持つ。

この本の副題はー科学とキリスト教

となっている。

稲垣は

「実験や観察が成し遂げられる以前に、科学者たちは実際にある理論的枠組みを持っていてそこから研究をスタートしている。いやもっと積極的に,その枠組みを前提にしなければ具体的な実験も理論的な計算もできないのです。このように、ある時代に科学者集団にとって前提となっている理論的な枠組みのことを、パラダイムと名づけます。」

 

と説明し、トマス・クーンがパラダイムに沿って営まれる科学のことを通常科学、パラダイムが変更されるような大きな出来事を科学革命と呼んでいるとし、その典型的例として、プトレオマイオスの天動説からコペルニクスの地動説への転換を挙げている。

注目すべきクーンの言葉として以下の言葉を引用している。

「研究者は通常科学に従事している限り、パズルを解く人ではあっても、パラダイムを検証する人間ではない。特定のパズルの解答を見つけようとしている間は、彼は多数のいろいろな方法を試み、うまくいかないものは捨てていくが、決して「パラダイム」をテストしているのではない。・・・ゲームのルールをあれこれするものではない。」

 

パラダイムからパラダイムへと説を変えることは、改宗の問題であって、外から強制されるものではない。」

 

 この本は1981年に書かれているので、進化論も現在ではずっと進化し発展しているという意見もあることであろう。

この本には残念ながら量子力学に関する話は書かれていない。

しかしながら、進化論が現れてきた生い立ちを知ることは、その本質を理解するには大変有効であると、私は考えている。

進化論は生物学に使われるだけではなく、人間社会の競争を「適者生存」や「優勝劣敗」というように単純に公式化した「社会ダーウィン主義」という哲学・思想乃至社会学や経済学に応用されたものがあると稲垣は言う。

さらに、生物学者E・G・コンクリン(1863~1952)、プリンストン大学教授の言葉を引用し、

「生物の進化の概念は生物学者によって大変高く評価されている。多くの生物学者にとってそれは真に宗教的傾倒の対象である。なぜならば、彼らはそれを最高の統一原理とみなしているためである。進化論の推論に、生物学以外の分野で使われている厳密な方法論的批判が何故加えられてこなかったかの理由は、おそらくこのことであろう。」

 

稲垣「このように進化論は、検証されるべき科学上の一仮説というよりも、むしろ科学研究をスタートする以前の暗黙の前提(パラダイム)となっています。」と語っている。

素朴に考えても進化論というのは不思議な発想である。

最近空飛ぶ自動車がスロバキアの会社から発売になるというニュースがあった。水素と酸素を化学変化させて走る燃料電池車の話題もにぎわっている。スマートフォンも随分普及してきた。

こうした精密な機械が何の目的もなく、設計されず、作者もなく偶然現れたというようなことは誰も想像だにしない。ところがこれらを初めとする数々の創造的な機械を造った、機械以上に高性能な人間に対しては、偶然に気の遠くなる年月を経て進化したという話が無批判に受け入れられているのである。

おとぎ話のような世界である。

稲垣は科学の方法論は実際我々が住んでいる世界をそっくりそのまま扱っているのではなく、世界のある局面を無理矢理えぐり取ってモデル化し公式化しようというものであり、したがって惑星の運動に対してはニュートン力学によって解されるも雷によって山火事が起きた際の熱や温度に関係している現象には熱力学によらなければならないという風に、また電気に関係する現象なら電磁気学という具合になり、自然界でニュートン力学に厳密に従うシステムを見つけることはかえって難しいくらいだという。

科学者は自然界の色々な局面に、それぞれの局面に応じて法則を発見し定式化してきたと語っている。

これは非常に有意義な科学の説明であると言える。

かれは進化論がこれらのバラバラな説明の統一理論として機能し手来たことに対して警鐘を鳴らしている。

この本には面白い切り口がいくつも載っているが、わたしが最も学ばされたのが境界条件の話であった。

その前に稲垣がベーコンやアリストテレスの話をしている部分を取り上げることにする。

「近代科学の方法論的な地固めとでもいえることをしたのがフランシス・ベーコンです。当時の錬金術師のように、少数の炉による実験のみから空想的な哲学をつくりあげるようなことではなく、実験の方向づけ、組織化することをベーコンは強調しました。実験の成果から原因と一般的命題をひき出し、そしてこんどはこの原因と一般的命題から新しい成果と実験をひき出す。このようなやり方を提出しました。こういう研究の方法はよく帰納法という名で呼ばれます。それに対してアリストテレスの三段論法を中心とした論理の運び方を演繹法と呼んでいます。」

 

「ベーコンは自然科学という部門つまり今でいう自然科学は、アリストテレスの四つの原因のうちの質料因と作用因とを取り扱い、残りの形相因と目的因を扱うのは形而上学という部門である、と述べています。これを分かりやすくいえば、自然科学は質料(物質などの素材)をもとにして、それを支配する自然法則がどのようにして(how)存在しているのかを明らかにし、一方その自然法則がなぜ(why)またはどのような目的で存在しているのかという問いは、形而上学ないしは哲学に属するということになるでしょう。」

 

以上のことを念頭に稲垣がニュートン力学について語ることを見ていこう。

ニュートン力学は、適用された系(システム)について、その後の時間的な発展を完全に決定します。これはニュートン運動方程式が時間についてと位置についての微分方程式になっているため、その方程式を解けばシステムが時間とともにどう移り変わるかが分かるからです。そういう意味で未来への予言能力があるといえるでしょう。これはちょうど、ある生産会社が過去の実績をもとにして将来の製品の生産高を予想するのに似ています。ただそれをもっと厳密に、方程式を立ててその方程式の解をもって将来のすべての問いに対する答えとするのです。」

 

ニュートン力学は、それを適用するシステムの外側からある条件(境界条件)を与えなければ実は何も決定する能力はない、ということです。」

 

ニュートン力学に限らず、ある微分方程式ニュートン力学であればニュートン運動方程式)で記述されるシステムを考えましょう。この方程式を解いてその解のふるまいを調べるためには、初期条件や境界条件が必要です。これらの条件をシステムの外から与えた後にシステムの解のふるまいを完全に決定することができ、したがって現象を予言することができるのです。これら境界条件は現象を記述している法則、すなわち微分方程式の中には含まれていません。システムの法則から自動的に出てくるといったものではなく、方程式を解く人が外から与えなければいけないのです。これら境界条件の与え方に応じて解のふるまいはがらっと変わってきますが、このことは大変重要な意味をもっています。」

 

稲垣はコンピューターを例にとって、プログラムをインプットすることが境界条件を与えることに対応すると説明している。

私は若い頃に理論物理学を学んでいるという大学院生と創造か進化かということで話をしたことがあるが、わたしは文学を大学時代専攻していたので、物理や数学は得意ではない。

そこでコロンボ警部よろしく、稲垣の主張をを参考に、質問をした。

「宇宙という閉じた系(システム)には、ある法則や秩序が存在していますが、物理学でも用いられる初期条件であるとか境界条件というものが、その系の外側から設定されて初めて成り立つと聞いていますが、この宇宙の外側にあって宇宙の初期条件や境界条件を与えているものを神と呼んではどうでしょうか?」

この時大学院生は開いた口が塞がらないというほど驚いてしばらく何も話すことができないようであった。

アリストテレスの4つの原因を、二つに分類した、如何にして(how)の何故の説明をしてきたのが科学であり、そのような公式が得られたとしても、そのような公式であって別の公式ではなかった理由としての何故(why)という疑問は依然として残る。これは哲学や宗教が扱ってきた領域である。

そこで科学が導き得た公式が系の説明を充分にしているとは言えず、その系の外側から初期設定や境界条件をある目的や理由をもってなされたと推測することが可能となる。

統一原理ではこのような宇宙の外側から宇宙に初期設定や境界条件が与えられているとすれば、それは神の創造目的であると見るわけである。

苫米地英人というとても頭の良い方がいる。

この方は最先端の物理学や数学によって神は否定されたと主張している。我々のように高度な物理学や高等数学を理解し得ない人間がこうした専門知識を持つ方に神の存在を否定されたときにはどうすればよいであろうか?先ず、苫米地氏の主張を「お釈迦様の脳科学」から引用する。

 1980年代以降、科学の世界では大きなパラダイム転換を迎えます。不完全性定理は、クルト・ゲーデルによって1931年に発表された定理ですが、簡単に説明すると、不完全性定理とは「ひとつの系が完全であることを、その系において証明することはできない」ということです。これが数学全般に渡って証明されたのは、1980年代に入ってからです。

 また、同じ時期に物理学の世界でも、「すべての物理現象に不確実性がある」という量子論が証明されました。神を「それだけで完全なもの」もしくは「すべてを決定するもの」と定義するなら、神は1980年代に科学によって完全に否定されたのです。

 世界の知のトップレベルでは、「この世に完全性はない」ことは、当たり前です。今、唯一絶対の神を信じる科学者がいるとすれば、数学や物理学を知らないということになります。

稲垣の説明は実は決定論に対する批判として境界条件が出てくるのであるが、不完全生原理は境界条件と関係があるのかも知れない。

さて、ここで我々がコロンボ警部のように質問すべきは何であろうか?

それは

「神が存在しないといいますが、それは神が何処に存在しないということですか?」

である。

苫米地が「この世に」と言っていることや彼が霊界や霊を否定していることから、宇宙に神は存在していないという主張であることが分かる。

ところが、宇宙に神が存在しないというのは我々統一原理の主張と何ら変わるところがない。

宇宙は神の創造物であり、神とは同一の存在ではないばかりか、そこに神はおられないというのが我々統一原理の基本的主張である。

つまり、統一原理の基本に立って物事を考えることが第一であると言うことである。

ところでゲーデルは1970年2月10日に神の存在論的証明を書いている。残念ながら今日までこの評価は定まっていないそうである。いずれにせよ、彼は唯物論は偽であるとし、霊界の存在を確信していたことは事実である

さて、「進化論を斬る」は祝福二世の皆さんには是非読んで頂きたい本である。また、これとセットで読んで欲しい本がある。

その本は生命をテーマに創造か進化かを考える優れた良書である。次回紹介したい。

 今日「蘇る愛と生命」という本が光言社から発売されていることを知った。私が捜している、文先生が進化論批判している、核と周辺について主体と対象、あるいは原因と条件のようなモチーフで論破している文章が掲載されていることを祈っている。

文先生の思考を学ぶ非常に良い例だと思うからである。

https://book.kogensha.jp/ps/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=1423&categories_id=