原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 授受法 統一思考 (関係を見る)

興進様が地上の信徒たちの永遠の命の蘇生のために霊界からやって来られたときに、謎のような言葉を語られた。以来私はその事が気になってしょうがなかったのである。

興進様が天に召された際に、霊界の探検をなされたという。

そして一番高い霊界にあるキリスト教の篤信者がいる霊界を訪れ、さあ引き返そうかと思ったら、まだ先に何かありそうなので行ってみられたという。そこには何と仏教徒の霊界があったというのである。

この事実をどの様に捉えたらよいのか本当に困ったものである。

原理講論を読んでもなかなかその答えを得ることができない。

全人類を救うために神が中心勢力として、イスラエルを選民として立て、イエス様が亡くなられて以後はキリスト教徒が第2イスラエルとして、その使命を継承したとされていて、仏教については特に記述がないからである。

私が推測したのは、興進様の言う「仏教徒」というのは、私のように東洋に生まれ、仏教の情報に恵まれた日本で生活する立場と、興進様のようにアメリカで生活することの永かった方の立場では、ヨガの行者のように瞑想して神の存在に悟ったような、仏教徒と言うよりはウパニシャッドの梵我一如のような思想に身を置く行者も含めて、おそらく「仏教徒」と呼んでおられるのではないかということであった。

統一原理からすれば、どう考えても、逆立ちしたって神の存在を認めずには、神の存在を認め信仰するキリスト教と以上に高い霊界に住むことはできないはずだからである。

ところが、「若いキリスト」である興進様ははっきりとおっしゃっていたのである。

ということは、創造神であるとか、仏教の世界でそれに近いと思われる、例えば大日如来であるとか、阿弥陀如来であるとかを信仰の対象として敬虔な信仰を貫いた「仏教徒」が、本来予定されたキリスト教徒の篤信者よりも、神の似姿に近づいていたと推測されるのである。

このお話は私にとってとても有り難い貴重な話となって現在の私に働くこととなった。

以前にイエス様が語られた、放蕩息子の譬えについていささか書いてきたが、そこで外的放蕩息子として弟を、また内的放蕩息子として兄を表していると見ることができる旨を語ってきた。

同様に、我々はうかうかしていると豊富な恵の中に生きながら、恵の外にいて天や仏性を求めて至誠を尽くす仏教徒に、遙かに後れをとることが、往々にして起こってくる可能性があるということを物語っていると受けとめられるのである。

褒むべきかな、褒むべきかな。我らの神は実に平等な御方である。

それ以来,私は統一原理をさらに理解される糸口が仏教にあるはずだと考え、多くの示唆を与えられている。

その中で、仏教の「無分別智」は、あるときイエス様の譬え話が連想され、いくつかの譬え話がこれによってすらすらと解けると気づかされたのである。

同様に、文鮮明 恵父が統一原理でいう「統一」という意味がさらに深く味わい深いものとして理解されるに至ったのである。

そこで、イエス様や文鮮明 恵父においては「統一智」というふうに表現させていただくことにあいなったのである。

統一智というのは神の心情から現れ出た知恵のことである。

正分合作用でみるように、正は神の世界であり、全てが円和統一されて存在している実相を表している。

ところが一旦時空間の現象世界に人間を中心とした被造世界として創造展開されると、一見様々な事象は区別され独立して存在しているかのように見受けられ、「あれ」と「それ」、自他というように境界が存在しているかのようである。人間に置いては個性の名の下に区別はおろか混乱を来している。それは人間が人類始祖の時より堕落し堕落性をもって見るからである。

そこで神のように、また理想相対を見出し子羊の婚姻を経て人類の真の父母となるべきであった、イエス様のように、さらにイエス様の無念の思いを晴らすために真の父母として降臨された文鮮明韓鶴子 天地人真の父母様のように、堕落のない本然の統一世界を求めた統一智、すなわち統一思考を体得すべきであると考えるに至ったのである。

これは頭で理解する種類のものではなく、体得して後、言語で幾分説明するような類のものである。

無謀ではあるが、イエス様や真の父母様や御子女様の教えてくださった内容をもとに、いくらかの材料をもって考察してきたのが以下のブログの文章である。

 

統一思考(統一智)

 

 1,イエス様の葡萄園の労働者の譬えとタラントの譬え話に学ぶ

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2014/03/30/014853

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2014/04/02/060907

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2014/04/03/043017

2,イエス様の良きサマリア人の譬えに学ぶ

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2014/04/11/060910

3,渋沢栄一に学ぶ

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2014/04/23/012414

4,笹井芳樹博士と山中伸弥博士の細胞研究に学ぶ

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2014/04/29/065418

5,韓国ドラマ「ホジュン」とイエス様の放蕩息子の譬えに学ぶ

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2014/05/07/154649

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2014/05/09/062309

6,渋沢栄一の「側面観(部分)から全体観へ」と哲学者フェヒナーの「統一的世界観の視座」に学ぶ

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2014/05/13/052620

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2014/05/16/092831

 

関係を見るについて書く前に 

授受法の図を今一度以下に記す。

 

正分合作用      四位基台 

正           中心・・・・・・・・・・神ー心情

                         ー創造目的

↓                         ー構想理想

             →

分      主体   授受作用    対象    (挌位)

             ←

 

合           統一体(統一原理や統一思想では合成体)

 

神を中心として主体と対象が相対基準を造成して円満な授受作用をする際の授受関係の内容は奉仕である。

私見では奉献性としている。

奉献の奉は奉仕を意味し、献は献ずるで捧げる献身するを意味する。

「仕え身を捧げる」ということである。

これが天宙の最も重要な法則である。

そこで、イエス様は「仕える者になれ」と十字架に向かう前に、弟子たちに洗足の儀式をされたのである。

バプテスマのヨハネはイエス様に全身の洗礼をしたが、イエス様は洗足であった。今後の歩みを聖別するため足を洗礼し、また弟子の足を洗い、自ら僕の僕として仕えることを見本として弟子たちに見せたのである。

何故弟子たちが足を引っ込めるかといえば、イエス様の価値が分からないときには、イエス様はこのように彼らに僕の僕として仕え尽くして来られ、弟子たちも利用するままにしてきたので、それを思い出すのでいやだったのである。

そこで奉仕関係が重要である。

授受作用の語順で分かるように

①先授後授 (先に与えて後で受ける)

②無条件に与える 乃至 授大受小(大きく与えて小さく受け取る)

目に見えないミクロの世界から、人間世界を超え天宙に至るまで

全ての存在は授受作用という相互作用をなし、それは奉仕であり献身である。この身で仕え、この身をより高い価値の追求と実現のために捧げ奉じていくことが存在のあるべき姿である。

肉身生活をする有形実体世界(地上)では何かを得ると満たされるのであるが、霊人体で住む無形実体世界(霊界)では反対に、何かを与えると満たされるのである。

ところが、地上生活で霊人体の指向する真美善の絶対価値を求めて生活してこないと、次の愛の世界で十分に生活を満喫することができる、霊人体に愛の感性が成長していないので、同じ霊界にいながら天国の愛を感応し堪能することができなくなるのである。

脅かしかと思っていた霊界の存在も、今日ノーベル賞を受賞した物理学者など、数え切れない学者が研究対象とする現在となっているのである。