統一思想の認識論には存在形式と思惟形式にそれぞれ10ずつの範疇がかかげられている。これを学生時代に思考活動に旨く組み込めないかと、あれこれ試してみたが、とうてい私の手に負える代物ではなかったのである。
以下に実際に挙げてみよう。
存在形式 思惟形式
1,自存在と原力 1,存在と原力
2,性相と形状 2,性相と形状
3,陽性と陰性 3,陽性と陰性
4,主体性と対象性 4,主体と対象
5,位置性と定立性 5,位置と定立
6,関係性と因縁性 6,関係と因縁
7,作用性と繁殖性 7,作用と繁殖
8,時間制と空間性 8,時間と空間
9,数理性と原則性 9,数理と原則
10、無限性と有限性 10、無限と有限
そこで、普通の信徒である私は、学問の厳密性に拘束される必要よりも、実際の生活で自由自在に使える功利性に心が惹かれていたのであるから、単に対概念で、利用しやすく、頻繁に使われやすいものに、関心が注がれるようになったのである。
高校時代の国語の授業で、止揚の意味が分かる者は説明しなさいと言われ、クラスメートが答えたのだが、先生はその生徒を褒められていたが、私には到底納得のいくものではなかった。
多分、止揚について彼はこう言ったのであった。止揚とは二つの矛盾対立し相反する内容が高次の姿に解決されることであると。
私はこう思ったのである。確かに一見したところ、また最初に見たときは、矛盾して見えたり、対立して見えたり、相反して見えたりしても、それは、たまたまある視点から見た際にそう見えただけであって、別の視点が現れた際には、今まで見えなかった共通性と統一性が見え始めただけではないかと。例えて言うならば、真横から見たら三角形に見えていたが、真上から見たら円に見えた、また別の視点から見たら実際は三角錐であったと言った具合である。「もともと」ここが肝心である。
つまり最初から矛盾していたり対立していたり相反していたりしていたというのではないというのである。最初は見えなかっただけなのである。哲学的な言葉であるというより芸術的な香りのする言葉として存在した方がよいのではないかと考えるのである。
後にこの止揚という言葉が弁証法の発想の要になる言葉だということを知るに至ったのであった。
もう一つ、そのころに、認識というものについて自分なりの考えを持っていた。それは体験からもたらされたものであった。
高校時代、郵便局でバイトをした経験があった。そこで面白いものを私は見たのであった。私が飼っていた伝書鳩の鳩舎にある棚の如く、郵便局にもそっくりの格子状の棚があったのである。その棚は手紙やはがきの郵便物を区分けするものであった。向島なら向島の一丁目の郵便物がどっさり来ていて、それを配達しやすいように、最上段左隅の格子枠から1番地の1~5,次が6~8,次が9~10・・・というように、左から右へ。その下の段の左から右へ、というように区分けして、番地通りに配達しやすいようになっていた。
この格子状の棚に、先ほどのどっさり届いた郵便物を振り分ける作業を、集配課ではしていたのであった。
これを見て、高校生は思ったのであった。ユリイカ!なるほど、認識とはこういうことか!
親友の義兄の画家と話す中で、「それで、その先は?」とせかされたが、哲学の基本的な素養さえ持ち合わせていなかった自分には、彼が何を要求していたのかが皆目見当がつかなかったのである。
後にこんな風にとりあえず話せばよかったのかも知れないと考えた。
私という認識の主体者の中に予め先天的に、外界の対象となる事象に対応した、認識の枠組みが既にあって、知覚を経た個別の観念や概念が、その枠組みの中にきちんと置かれ納められること、言い換えれば照合することが認識の本質である。その枠組みは人間を自らに似せた神により受け継ぎ、人間は形象的に、万物は象徴的に似せて創造された経緯から、その照合は相似を基本としている。
おそらくはイギリス経験論や大陸合理論、また実在論や主観的観念論などとの比較や、さらにはカントやマルクスなどの理論との共通性や異質性を述べて、自分の立場を明確にする必要があったのであろう。
しかし、残念ながら私にはそのような哲学の認識における基本的な問題や論争の事情を知る情況には遙かに遠かったと言わねばならないのである。
本題にはいるが、当初、四位基台思考のようなイメージで、信徒であれば誰もが知っている、授受法の時間的側面の正分合作用と相まって、左のページには授受法の四位基台の図が必ずあり、右のページにはキーワードと解説といった感じで
思考法の要点が書かれた小冊子があり、丁度手帳に挟むことができ、必要なときに取り出せたら、自分にとって都合がいいと考えはじめた次第である。
正分合作用から三つの、大げさであるが、思考原理に分類しているのである。
正:絶対思考
分:相対思考
合:統一思考
正分合 とは四位基台に対応して
正:中心(神の心情・創造目的)
分:主体と対象
合:合成体
ここで私が言う絶対思考の絶対とは、中心という意味でほぼ使われていることをお断りしておきたい。
この中心を巡るキーワードを強く意識して考える習慣を定着させることが目的であり、その結果やがて無意識に使えるようになり、かえって意識せずに、何か考えていることに関係ありそうな、キーワードが頭に浮かんでくるようになる。
言い方を変えると、考える方針のような感じである。
相対思考についても各種キーワードがあり、同様な目的で無意識に定着させるわけである。
最後に統一思考であるが、これは相対思考から統一思考に進むのではあるが、実感的には時間的には逆になるのである。
神の世界・本然の世界から見下ろしていくといった感じである。堕落世界の分裂ではなく、円一円和の実相から、問題の諸相を見ると言うことである。
仏教の無分別智がこれに当たるが、仏教は神や霊界の存在を無記として語らないのであるから、そこがはっきり違うのである。このあたりは悟りと関係するので、いつかイエス様の悟りと仏陀あるいは仏教の悟りといった説明が必要になろうかと考えている。ブログも分けた方がいいのかも知れぬ。
その他、4つ目に基礎思考として、広く知られ実践されている思考方法群を考えている。
さて、繰り返しになるのだが、授受法など統一原理の核心の要約を挙げて考えるということを吟味してきたのであるが、所詮わたしがやっていることは、統一原理を無理矢理えぐり出し、現実に適用するよう、ねじ曲げて、道具として活用しようとするものであり、厳密な統一原理の教義に基づい思考法の解釈というレベルにはほど遠いものである。
したがって、くれぐれも信仰と統一原理の理解に支障がないことを、心から願う次第である。
あくまでも功利的観点から、深遠な御言葉を、えいやっと、ばっさり見切ってとりあえず纏めた、一つの考える意匠であることに過ぎないことを、強く告白するものである。
次回からは絶対思考に関する内容を吟味していきたいと思うのである。