原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対思考 原因と条件を意識して考える生活習慣 ②

先回お話ししたのは、私という主体は生きていく中で人や環境という対象に関わりを持つ。この時人や環境という対象を条件の集まりととらえてみよう、既にある諸条件の中で何か課題があり、私という主体が理想や目的に適った状態に変化させたいと思うとき、主体である私が主動、すなわち先に動き、ではどのように動くかと言えば、対象に対して、既にある諸条件を活用して新しい諸条件に整備する。このことが人や環境を変化させる仕事であり働きであると語った。

ところが何でも、言うは易しで行うは難しであり、そのためにはある有効な視点や切り口を得るために直感を磨かなければならず、結局のところ対象に対する主体性、つまり主管性を発揮する前に自らの対象性を確立せねばならず、私心を捨て無になり、或いは敬天心を養生し、霊的な直感に気づきやすい私を準備しなければならないとした。

仏教においては仏陀が縁起を説かれたが、この縁起は諸条件によって存在はなるとされてきたのである。ところが大乗仏教が起こってきて因縁という言葉も使われるようになってきたのである。

サンスクリット語のhetu-pratyayaから訳されたものだそうで、元来は前半のhetuも後半のpratyayaも同じく原因を指す言葉であったようだが、前半は内的直接な原因を、また後半は外的間接的な原因、すなわち条件を指すように至っている。原因+条件=縁起 とみてよいかと思う。実際に多くの仏教関係の本でもそのように解説されていたと思う。

原因に主体、条件に対象を対応させてみたときに、仏教で言う輪廻転生の主体の不変性や如来像と呼ばれるいわゆる仏性の問題を連想させる。本覚思想というものがある。既に衆生には悟りが備わっているのであるが、差し障りがあってそれが現れ出ないが、この障害を取り除けば万民は悟りの恩恵に浴するというのである。

縁起は諸条件によって成るとしないと、本来の建前である、変わらざるもの無しの法に触れるのである。一体何が言いたいのかと言えば、神の摂理、人類救済の摂理から見れば、縁起は原因と条件という定義に進展して、主体と対象の相互作用という事になることに意味があったと考える。主体が現れる事によって、人間は輪廻転生によって変化していくけれど、継続して輪廻転生を続けていく主体は不変であると言うところに行き着く。

悟りの形式的表現が空であり、融我連体である。さて悟りの内容表現はと言えば品性を表す如来蔵であり、仏性である。仏性というのは万民に備わっている不変の性質である。

不変の仏性を肯定したり、仏性が既に万民に備わっているとする立場は、素直に初期の仏陀の縁起に照らし合わせてみるならば、相容れない性質のものである。本覚思想批判は仏陀を敬愛すればごく自然に発生してくる態度なのである。

仏教では梵天勧請という有名なお話がある。仏陀が悟りを開かれ独り味わっておられ、想像を絶する修行の果てにやっと手に入れた悟りは、やすやすと誰にも分かる性質のものではなく、むしろ誰も理解できまいと思って説法(布教)をされなかった。そんな仏陀を梵天(ブラフマン)が見て、じれったく思って仏陀に催促されたという物語である。悟りは自分にとって本当の実績という利益であるから自利といい、布教は他者にとって本当の実績という利益をもたらすから利他と言うのである。

統一原理では極大ざっぱに言って、神に対する絶対的信仰の確立を信仰基台と呼び、この神と人との縦的な信仰基台を築いた者が、それと同じ関係性を人と人との横的な信頼関係に発展させ確立したものを実体基台という。

仏教で言う自利と利他とは統一原理の言う信仰基台と実体基台に対応しているのである。神という主体と私という対象が主客統一することが信仰基台であるように、仏という主体と私という対象が主客統一することが悟りである。ウパニシャッドではブラフマン(主体)とアートマン(対象)の合一である。また信仰者という主体と非信仰者という対象が神や仏を中心に主客統一することが実体基台であり、仏教では布教でありキリスト教では伝道となるのである。悟りや布教も信仰基台と実体基台も共に救いがその目的である。神や仏の立場から見れば救済となる。また悟りとは前者に始まり後者で完成するものであることが分かるのである。

統一原理では信仰基台と実体基台が完成して整えば、メシア(真の父母)を迎える基台ができあがると言う。華厳経に限らず花びらという性器の上に結跏趺坐して悟られる仏の姿は、神(仏)の愛(慈悲)による絶対性を確立せよとの啓示であり、神や仏が祝福し得る聖なる結婚に進み、理想家庭を築けよ!とのことである。地の立場ではなく天の立場で見れば、相対者(伴侶)のいない善の天使が起こしてきたのが宗教(子女宗教)であり、その使命は主に自他の個人の救いであった。これに対して男女の救いや家庭の救いを導く運動(父母宗教)がやがて起こらざるを得なかったのである。

それが真の父母様による世界平和家庭連合の運動であり、その中心的行事が神の祝福による合同結婚式である。宗教の救いとは性形の救いであり、家庭の救いを教える父母宗教あるいは家庭教とでも言うべきものが陽陰の救いであり、心と体の救いに男女の救いをあわせて人間存在の救いとなるのである。そしてこの堕落家庭が理想家庭に転換する為の核心が絶対の性である絶対性であり、これは人間の心情転換の結実である。

宗教は神の祝福を得た真の父母様の家庭運動の中に吸収され、最終的目的を成就するようになるであろう。