原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

統一原理から見た 西田幾多郎と鈴木大拙 2        竹村牧男著 <宗教>の核心 西田幾多郎と鈴木大拙に学ぶ を参考にして


統一原理講座 第3講 「創造原理2 万有原力と授受作用および四位基台」 - YouTube

 

少し前に、ネパールの国営放送で来年から週一回、統一原理の講義が放送される事が決定した報告があった。

かねてより気にかかっていた事に、霊界での仏陀の報告において、仏陀が今一番関心があり、なしたいことが、神様について語りたいという内容であったという事がある。

地上におられた際には仏陀は神や霊魂・霊界などの問題にたいして無記という立場を貫き、語ることはなく、神と人、霊と肉、霊界と地上世界の関係性に重要な本質が隠されているとはお考えにはならなかったようである。

 

このたびネパールにおいて、兄弟達が尽力を注いでくれたその背後に、仏陀が並々ならぬ決意で伝道の最前線に立たれて精誠を尽くされていることが感じられる。

 

普通に仏陀の説かれた教えをできるだけその通りに知りたいと思うなら、初期に編纂された経典を中心として仏陀像を求めていくことになることであろう。上座部仏教は出家と戒律を重んじ現在はタイやミャンマーに息づいていて、南伝仏教と言われることもある。これに対して日本は龍樹の流れを継承する大乗仏教が主流であり、北伝仏教とも呼ばれることがある。前者を基準に考えるとこれは異端のような、そうではなくても本来の仏教とは異質のものであるということになる。

原初的な仏陀を求めれば当然、前者を仏教徒はもとめていくのではないであろうか?

さて、仏教仏陀が入滅されて以後長い歴史をかけて発展してきたという話もよく聞くところである。この辺がなかなかわかりにくいところである。

仏陀が語られたと思われるところにフォーカスして道を求めるのは問題ないが、発展したという内容を信奉することは果たして仏陀の御心に適っているや否やである。

仏陀を尊敬すればするほど、後に発展したということは不謹慎極まりないことに感じられ、仏陀を侮辱していると受け取る者も出てこよう。

意見の分かれるところであろう。

統一原理では、創造→堕落→復帰という三過程を中心に神の御心を説いているのであるが、思考の推移もこれに応じてやはり、創造→堕落→復帰という形をとるようになっている。

別のいい方をすると仏教にはない明確な歴史観を持っている。すなわち歴史は一つの目的に向かって進んでいると見るのである。即ち神の立てられた創造目的である。

霊界李想憲先生が語るところに依れば、仏陀は今や霊界で統一原理を他の四大聖人とともに学ばれて、多くの仏教徒をさらに救いの高みへと導くべく責任を果たされているということである。

その驚愕すべき事柄が事実であれば、仏教の本流は大きく回天して、仏教における神の表現としての絶対仏を趨向する宗派が、仏陀に大きく用いられ、かえって主流となって仏教の再臨主たる弥勒仏の顕現としての、真の父母様に合流して行かざるを得ないであろう。

すなわち、「日本大乗仏教の霊性」こそが、現代の仏陀の御心に最も相対する運動の旗手となるのである。その先駆的役割を果たした者に、法然があり、親鸞が出て、岡潔の崇敬する山崎弁栄と続く。また鈴木大拙へ、或いは清沢満之がいて西田、さらに京都学派と呼ばれる人々に継承されてきたようである。

実は、わたしは西田にはほとんど関心がなかった。関心があったのは、何年も前に西田の流れの方で、花岡永子であった。彼女の本である「絶対無の哲学」「自己と世界」の問題 目次をwebで知り、心に引っ掛かっていたところ、最近NHKの西田を扱った番組があり、まだ未読であるが二冊を手にしたところである。

それにしても、竹村牧男先生がこの二人の人物の思想の凝縮されている核心を、大変なご努力で集めてくださったことに、心から感謝申し上げたい。

誠に一読する価値のある本である。

以後書かれていた順に、いくらかのモチーフを選んで、勢いに任せて思うところを述べて参りたい。

 

大拙「日本的霊性」という本の中で、日本的霊性が知的に展開し現れたものが禅であり、情的に展開し現れたものが浄土教真宗であるとしている。

一つの日本的霊性の二つの表現であるということである。

金剛般若経には即非の論理」が書かれているという。

見かけは、ちょうどイエス様が

ルカによる福音書9章60節

「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは出て行って神の国を告げひろめなさい」

またヨハネの黙示録3章1節には

「あなたがたは生きているというのは名ばかりで実は死んでいる。」

と連想するような表現がある。

 

「世界(本質)は即ち世界(現象)に非ず、これを世界(本質)と名づく」とか

如来(本質)は即ち如来(現象)に非ず、これを如来(本質)と名づく」

 これは、( )内に私が加え記したように本質と現象を区別して語ったものということであると考えられる。

ところが大拙はこれを悟りという点から解釈していると、竹村先生は語っている。

その部分は

「非」とは根本の矛盾をいう。・・・「非」とはこの絶対に相容れぬものが、そのままに同一性という場面に働いているとの義である。同一性というものー「即」ーが別にあって、それで相容れぬものー「非」を包むというのでない。「非」がそのままに「即」、すなわち絶対に相「非」すること、それが直ちに「即」なのである。「即」と「非」とはそのままで同一なのである。一方から他方へ移ることがないのだ。

大拙全集 13巻 274-75頁

竹村先生は「不断煩悩得涅槃」「煩悩即涅槃」また「生死即涅槃」という大乗の世界と大拙の「即非の論理」照合すると見ておられる。

他にも似たような表現が出てくるが、ここに来て、以上のような典型的な論理展開が、前回に私が西田が迷いの中で苦悩していると感じた要因の一つではなかろうかと気づいた。

統一原理では、創造→堕落→復帰という元返していく道筋が基本にあり、それに沿った形で思考の展開が起きることになる。

したがって、

天(創造本然の世界)→地(堕落世界) となる。下降思考

ところが仏教では

地(煩悩世界)→天(浄土、また極楽世界) となる。上昇思考

これが表現を難解にしているのである。

例えるならば、マイナス表示の電子を初めからプラス表示の約束にしてあれば単純なものをとでも言っておこうか。実際はともかく・・・

つまり両者は互いに異なる転倒した発想、あるいは思考の推移なのである。

そこで、地から発想する仏教では、先ず堕落世界の「矛盾」からは入り、「非」がそれだというのである。互いに相反して矛盾するものが、一方から他方に移りゆき包み込むのではなくて、「同一性」の中にあるというのである。

これを掴むことが即非の論理」すなわち悟りということであろう。

これは弁証法的論理展開と似ている。

新左翼の連中の中に何故か親鸞が好きな者があるのもこのような、地から天への視点の移動と関係があるのかも知れない。

原理講論総序

「初代教会の愛が消え、資本主義の罪欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、、飢餓に苦しむ数多くの庶民達が貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった。これがすなわち共産主義である。」

また、北森嘉蔵の「神の痛みの神学」も時折、弁証法的発想が鼻につくことがあった。弁証法を避けて通ることができない影響力を持った時代があったのであろう。

 さて授受法を空間展開したものを四位基台といい、時間展開したものを正分合作用という。授受法の空間的表現と時間的表現である。

 

 

正           中心・・・・・・・・・・神ー心情

                         ー創造目的

↓                         ー構想理想

             →

分      主体   授受作用    対象    (挌位)

             ←

 

合           統一体(統一原理や統一思想では合性体)

 

 

 この図を念頭にすると、統一原理の中心(神)を欠いて、トライアングルになる。

大拙の言葉は

非(主体)→即(対象)→同一(合性体)止揚とは少し違って、よく見れば一つか。 

弁証法では、

正(主体)→反(対象)→合(合性体) と言うように止揚される。 

北森の場合はうる覚えであるが

正が全き善の神(主体)→反が許され得ぬ罪人(対象)→合が 愛の許しと神の痛み

神の天地創造は、アリストテレスの形相と質料のように、二元論ではなく、神がご自身とは別の材料を用いて創造したのではない、

神ご自身の内にあるものからの創造した。唯一論である。

これはある意味で神ご自身が生み出された世界であるということができる。

そこで時空間に展開された被造世界は、一見分離独立して存在するように見えても、本質的統一性を神の世界から携えてきているのである

そこで原理講論創造原理 (三)正分合作用による三対象目的を完成させた四位基台 (4)四位基台の存在様相 に

物質から形成された人間の生理的機能が、心の知情意に完全に共鳴するのは、物質もやはり、知情意に共鳴できる要素を持っているという事実を立証するものに他ならない。このような要素が物質の性相を形成しているために、森羅万象は、各々その程度の差こそあれ、すべてが知情意の感応体となっている。我々が自然界の美に陶酔して、これらと渾然一体の神秘境を体験できるのは、人間は、このように、被造世界の中心として創造されたために、神と人間が合性一体化した位置がまさしく、天宙の中心位置なのである。

 

物質から形成された人間の生理的機能が、心の知情意に完全に共鳴するのは、物質もやはり、知情意に共鳴できる要素を持っているという事実を立証するものに他ならない。」とは

神の本質の統一性が被造世界に現象化したということである。

滝沢克己が聖書の核心を「インマヌエル」すなわち「神我らと共にいます。」と語ったが、神が我々に臨在されれば万物世界全てにもまた、神が臨在されることが完結するようになるのである。被造物が神の子の出現を待ち望む理由である。

話が長くなったが、

この統一性から考える。統一智とそれを生じさせた心情から見る。

さて、大拙即非の論理」「無分別の分別」と言いかえるときがあるという。

この重要な言葉も、地(堕落世界)→天(本然の世界)

という視点の移動に伴い、煩悩世界の分離区別独立の様相から脱却した無分別という表現に落ち着かざるを得ないのである。

これは本来「統一」とすれば、誰でも非常に分かりやすい表現となるのである。

矛盾があって、それを脱却する苦悩があるので、あたかも迷いの中にいるが如くの印象を、西田も真宗に育ち真宗に還る道筋の、初穂たる「善の研究」の文章に感じたのかも知れない。

この二人はまるで双子の兄弟のようである。

当初「日本的霊性」には、即非の論理がでてくる「金剛般若経」について書かれていた「金剛経の禅」が付録として付けられていたそうである。

これには、即非の論理がわかれば経典はすべて分かるといったようなことが述べられているという。

それに呼応して言えば、イエス様の譬え話の多くは「統一智」によって理解できると言えるのではなかろうか?

機会があれば、良きサマリア人の譬えなど統一智によって解釈してみたい。

何故このようなことをいうかと言えば、せっかくイエス様が誰にも分かるように、譬え話が語られたにも拘わらず、様々な資料を駆使してしか真意がくみ取れないようでは、その意図が失われ残念で仕方がない。「統一」さえ分かれば理解できるのであれば、それにこしたことはなかろうと思うのである。

さて、キリスト教仏教はお互いが歩み寄り相互に理解しようと多くの努力を重ねてきた。それはお互いの信仰姿勢に感銘を受けることはあっても、残念ながら知れば知るほど違った世界であるという認識を持つに至ってきたのである。

しかし、人類の真の父母たる文鮮明 恵師によって天倫の秘密が明らかにされ、神の本質である心情と、そこから出る知恵である「統一智」が「統一原理」として明らかにされ、仏教の無分別智との相似性が証明され、これによって両者の本質的邂逅の時を迎えることができたのである。

仏陀が壮絶極まる修行の果てに、「悟りを開くまでは瞑想を止めじ」との覚悟で到達した円和融一の融通無碍の世界は、今日統一原理によってその真価が開示される時がきたのである。

仏陀が神のみ旨の最前線に立たれたというのは、大拙がこの世の矛盾から出発したことを、神の創造本然の世界から統一として説かれるということなのである。

 仏教の悟りを理解するには統一原理の連体からアプローチするのが良いと思われる。

大拙は弟子である秋月龍珉の「先生の本の中で最も気に入っているものは?」の質問にたいする答えの本である「禅の思想」の中で

 

個と超個とは矛盾するように出来ている。この矛盾は脱却せられぬもの、解消さられぬものである。矛盾を矛盾としてそのまま受け入れることが脱却であり、解消である。般若の論理はそれを即非という。

大拙全集 第13巻 100頁

 

この個は個でしかも超個である。超個でしかも個である。これは般若の即非弁証法論理である。

大拙全集 第13巻 119-120頁

 

さて、神は人間が幸福になるべく環境世界愛と誠で準備されたが、人間と被造世界は如何なる目的で存在しているのであろうか?

 

創造原理 第三節創造目的 (一)被造世界を創造された目的

 それ故に、人間を中心とする被造世界が存在する目的は、神を喜ばせることであった。また、すべての存在は二重目的を持つ連体である。既に述べたように、すべての存在の中心には、性相的なものと、形状的なものとの二つがあるので、その中心が指向する目的にも、性相的なものと形状的なものとの二つがあって、それらの関係と同じである。そして、性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係を持っている。それ故に、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保証しない全体的な目的もあるはずがない。従って、森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連帯し合っている一つの広大な有機体なのである。

ここで、「統一」の次に仏教を理解するための補助線「連体」である。

連体とはホロンのように全個体と表示して、全体目的と個体目的を統一的に併せ持つ存在の様相であるわけであるが、ホロンとの違いは存在物が階層性の中にあるので、上位の存在に対しては対象として立ち、下位の存在に対しては主体に立つようになる。そういう中で全体目的と個体目的を同時に持つので、全個体ではなく連体とする方が的を射ているからである。

私見では連体には心情的連体空間的連体、及び時間的連体があるように思われる。

時間的連体については後に述べることにする。

仏教の悟り、特に禅に現れる悟りは、この連体に関係していると見ることが出来る。

森羅万象と私の連体性や私と人の連体性を体感して、悟後これを我がものとして体得すべく働きかけるという事になるかと思う。

この働きや行為を禅者は「無作の作」とか「空輪無しゃく」と言うそうである。

ここでも矛盾とか即非という言葉から説明がなされ、凡人の我々には理解しにくい様相を呈しているのである。

これに通じるものに、真空妙有→真空妙用があるという。

金剛般若経の有名な文句が紹介されている。

一説に、誰かが金剛般若経を読んでいる聞いたとき悟りを開いた第六祖慧能が聞いた部分がそこではないかというところである。

 応無住而生其心(まさに住するところ無くして、しかも、の心を生ずべし)」 

 

前後の文章を知らないが、これは統一原理でいう霊肉二重存在としての人間に関するところが思い起こされる。

人間は見えない霊人体と見える肉身二つの体を持っていて、

霊人体には霊的な心として生心(言うなれば昇価奉献心)があり、真美善の絶対価値を追求し、実現に働きかけていて神の臨在されるところである。霊的な体としては霊体を持っている。

また、肉身肉的な心である肉心(言うなれば自己保存心)と肉体から成っている。

そこで

「時空間の有限な肉心に住することなく、時空を超越した生心によって心(の作用)を生ぜよ」といいうことになろう。

統一原理では生心(主体)と肉心(対象)の授受作用によって心が生じ、それがさらに対象との授受作用によって、心の作用が生じるとみている。この心の作用を心として仏教は扱う事が多いようである。生心と肉心の詳しい説明は省略する。

この生心と肉心の関係性は西田の「自覚」の理解に役立つと考えている。先にて検討することとしたい。

また、徳山が旅の途中で茶店に立ち寄り、点心をを頼むとそこのお婆さんに、

「あんたは金剛経の大家だそうだけどこのお経には過去心不可・現在心不可・未来心不可と、三世の心はいずれも不可得だと書いてあるけど、この茶菓子を一体どの心に点じるおつもりなのかね。」

と聞かれて狼狽するという話である。

これも禅の回答は知らないが、「心の本体は時空を超越した生心にある。」だが、点心は衣食住性に関係する肉心によるので、「(三世の)無心で食べる」ではいかがであろうか?ご愛敬。もとより解説する禅など存在しないであろう。

いやはや最後まで行くつもりが長引いた。中途半端であるが続きは次回にしよう。

今日は6,000双の祝福結婚記念日である。

統一原理には悟りという言葉は特にない。しかし、せっかくであるから三世不可得心から連想する、統一原理的悟りを強いていえば、生心による三世可得心となる

玉城康四郎は、見性体験仏教における輪廻転生の業塾体としての「私」を悟った。

統一原理は現象を見れば輪廻転生だが、本質は再臨協助であるとしている。

ここでは再臨協助の説明は省く。

また、歴史的連体としての「私」についても以下のように説かれている。

生心による三世可得心を持つ復帰摂理歴史の結実体である。

原理講論の緒論(三)復帰摂理史と「私」(注:時間的連体)

 「私」という個性体はどこまでも復帰摂理歴史の所産である。従って、「私」はこの歴史が要求する目的を成就しなければならない「私」なのである。それ故に「私」は歴史の目的の中に立たなければならないし、また、そのようになるためには、復帰摂理歴史が長い期間を通じて、縦的に要求してきた蕩減条件を、「私」自身を中心として、横的に立てなければならない。そうすることによって、はじめて「私」は復帰摂理が望む結実体として立つことができるのである。従って、我々は今までの歴史路程において、復帰摂理の目的のために立てられた預言者や義人達が達成することのできなかった時代的使命を、今この「私」を中心として、一代において横的に蕩減復帰しなければならないのである。そうでなければ、復帰摂理の目的を完成した個体として立ちことはできない。我々がこのような歴史的勝利者となるためには、預言者・義人達に対して来られた神の心情と、彼等を召命された神の根本的な目的、そして彼等に負わされた摂理的使命が、果たしてどのようなものであったかということを詳細に知らなければならないのである。しかし、堕落人間においては、自分ひとりでこのような立場に立ち得る人間は一人もいない。それ故に、我々は、復帰摂理の完成者として来られる再臨主を通して、それらのことに関するすべてを知り、また彼を信じ、彼に侍り奉り、彼とひとつになることによって、彼と共に、復帰摂理史の縦的な蕩減条件を横的に立て得た立場に立たなければならないのである。

 再臨主こそは文鮮明 恵師 その人である!