神と真の父母様の心情の対象となるために 祝福に満ちた言葉「蕩減」を拝受する
このたび清心平和ワールドセンターで行われた、新氏族的メシヤ使命勝利のための世界連合礼拝にて、真のお母様は以下のように語られたのである。
私たちは真の父母様に似た真の子女であり、氏族的メシヤの使命を果たすようになる時、私たちはまた先祖の立場に立つようになるのです。その責任を果たすために私たちは立ち上げなければなりません。
6000年ぶりに初めて訪れた天の驚くべき恩恵も受けられず悲惨に流去っていく私たちの兄弟がいるということを考えるとき、私たちは両腕をまくって力強く立ち上がらなければなりません。
名差しこそなけれど、今回の神山問題とその犠牲が如何に真のお母様の心情を蹂躙したかが分かるお言葉である。胸を詰まらせながらおっしゃられたのである。
神山氏は草創期の統一協会を支えた人物である。
その時々に天が願われる摂理に応えたり、またその中でもより公的な位置で御旨に貢献すれば、これは天に宝を積むことになる。
我々が天に召されるときに、この功労と共に携えていくのが心情である。
本来は両方を抱えて霊界に旅立つことが望ましいのではあるが、
おそらくはどちらかに傾いていることが多いのではないかと思われる。
すなわち、功労を多く積むタイプの信徒と、心情を深く復帰するタイプの信徒である。
神山氏は功労は多く残した。しかし心情復帰は疑問の残るところである。
肝腎なときに弟子たちが主から離れ去ったように、聖和された真のお父様を天に見送った、真のお母様の御側を離れるばかりか、非難したのである。
イエス様の弟子でもしなかった失態であった。
では、何故このような経緯に至ってしまったのであろうか?
それは、長年実行してきた信仰が人間信仰であったからである。
極めて横的、人間的、信仰であると見ている。
推測するに、ある権威におもねる信仰である。真のお父様という権威に阿(おもね)る信仰である。この阿るというのは、ある権威に、認められたい、愛されたい、褒められたいという、3たい信仰のことである。
この3たい信仰の動機は自分にあるということである。
そこで自分のために、真のお父様という権威が天に旅立たれた後は、自分のために別の権威を捜すようになるのである。それが真のお母様であればまだましであるが、お母様に資格無しとして、顕進様を擁立しようとしたのである。
神山氏にお母様を侮辱されてまでも退位してほしいと、顕進様が考えていると、神山氏は思っているのであろうか?幼稚な忠誠である。
私も含め過ちは誰でも避けがたいものである。ただ孔子が言うように心したいのが
「過ちて改めざる、これを過ちという」
忠誠に二つあり。
ひとつに、四十七士の如き私情によるものあり。
宮廷での作法をわきまえず叱責を受けたことに逆切れして刀を振りかざし流血事件を引き起こした君主は、吉良の家臣に仇討ちされて然るべきである。
万一するのであれば切腹を命じた公儀にするのが筋であろう。
しかし、斬首ではなく切腹なのであるから温情も施された。憤ることもあるまい。
身から出た錆である。
このように、私情による偽なる忠誠と同様な、私情による偽なる信仰が神山氏の命取りとなったのである。
さて、もうひとつに、「樅の木は残った」原田甲斐の忠誠がある。
自分がたとえ極悪人として扱われようとも主君のお家安泰のために捧げ尽くす道である。
お父様の御家系にも、親戚中の金品を盗んで国家のために献上し、親戚中から罪人扱いされて、野に果てた国士がいる。文潤國牧師その人である!
信仰においても以上のような二通りがあると見ることができる。
原田甲斐の忠誠は、
神山氏が批判した「丹心歌」に流れる心情に通じるものがあるのである。
悲しいかな、外的にしか解釈できないので、内的な心情を取りこぼしてしまうのである。
井口兄弟の四〇日断食の証しに、お父様のダンバリー収監に際して、梶栗元会長が四〇日を一緒にしようと持ちかけたという。聖和の後を追うように梶栗元会長が天に逝かれたのは決して偶然のことではない。お父様の忠臣として日本を代表してお仕えすべく旅だってくださったのである。大先輩の堂々たる旅立ちであった。
以前にも話したが、私が若いときに出会った、大工は天理教の信者で神殿建設の際に、「ひのきしん」(奉仕)で建築のお手伝いをされたという。
神殿ができあがり、感謝の印として神職から、神殿にあなたの名前をどうぞ刻んでくださいと言われたのである。だが「自分の名前を刻めば、このひのきしんが自分のためにしたことになりますので、お言葉だけ頂戴してご遠慮申し上げます。」と語られたというのである。
刻んでも良いが、刻まないものは幸いである。
彼の子孫は無傷の神殿を拝し先祖を誇るであろう。
真のお父様は「神様を感動で胸締めつけるようにしなさい。」
とおっしゃるのである。
われわれでもこの辺りからなら、その世界に入っていけるのである。
獄中で真のお父様に侍って頂いた靴をお父様の博物館に献上することがあれば、
獄中でお父様に仕えた栄光と、出監してお母様に仕えた栄光を併せ持って、天使のラッパが高らかに鳴り響く中、天に召される日を迎えていたことであろう。
千載一遇の機会損失であった。
われわれが、さしたる体験がなく、堕落性を脱ぐための蕩減条件を意識する統一信徒に支えられて、なんとか役職を果たしてきたことを、勘違いすると、この世の熱心な仏教徒やイスラム教信者などに簡単に見透かされてしまうのである。
すると、真の父母様まで誤解される軽く見られることになるのである。
組織に対する不平不満の渦巻く信徒を見ると、
霊界におられるお父様は現在全てを掌握されていることを強調して語りたい。
バイアスのかかった報告で判断されていた地上のお父様ではない。
日本に初めて宣教に来られた方も、高い次元でお悩みになられたことを思い出す。
この大変立派な先生はご自分が伝道したことにより広がった信徒が、どこまでも、不条理な限界情況の道を歩まなければならない姿を御覧になり、責任心情から苦しまれ悩まれたのである。こんなはずではなかったと・・・
素晴らしい御方である。
個人が厳しい道を行くのは耐えられるが、それは後から来る者に少しでも安楽な道を与えるために先駆けた道である。だが、後身にさらに加重されていく十字架の道を見ることは耐えがたい、何故なら彼らに祝福された人生をもたらすために私は歩んだのであるから、と思われたことは充分に理解できる。
しかし、イエス様に御言葉を与えられた経験のなかったパウロは、どのような道を行ったのであったか。思い出してみたい。
コリントⅡ 11章23節~28節
23 彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。
24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一度夜、海の上を漂ったこともある。
26 幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、偽兄弟の難に会い、
27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。
28 なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。
見えるところに依ればパウロは試練に強いられたと見ることもできる。しかし、
人は誰しも強制される必要のない自由を持っているのである。
パウロは決してこれらの試練を他者に強いられたと言うのではなく、「見えざる神」のために、自らこの試練を完全に拝受し甘受した道であった。
我々はこの手本を忘れることができない。
マタイによる福音書6章3節~4節
3 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
4 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、密かに隠れて見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
下線はの部分は聖書では「隠れた事を見ておられる」と訳されているが英文では、
and your Father who sees in secret となっている。
続く文章などから
「隠れた場所で」「密かに」見ておられる「見えざる神」がおられるとイエス様は強調される。
お父様は言う。
「行かなければならない自分より、行かせなければならない神の事情と心情を先に考えた。」
原理講論の再臨論には、<神の心情の対象>という美しい文章がある。
神のみ旨を代表としてサタン世界とたたかう個人と家庭と民族とは、常に血と汗と涙の道を免れることがなかったのである。悲しまれる父母の心情の対象となって、忠孝の道を歩んでいく子女が、どうして安逸な立場でその道を歩むことができるであろうか。それ故、メシヤを迎えうる民族は、神の心情の対象として立つ孝子、孝女でなくてはならないので、当然血と汗と涙の路程を歩まなければならないのである。
草創期の韓国の打ち立てた伝統を継承して日本は現在も、この誇り高い道に同参させて頂いているのである。
サタンの仕業に良心を振り回され、人情に流されるそれなりの人格に留まるよりも、神の導きに本心を立て天情に感ずる神格を求め体得する試練の道を、誰に強いられることなくわれらは自ら選びたいものである。
わたしが好きな御言葉に<祝福に満ちた言葉「蕩減」>がある。
人は、自分の子供のために最も大事なものを与えます。あなた方を自分の子供のように考え、最も貴い、最も正しいものを与えようとする父母の心があり、天の心があるからです。その最良のものがなんであるかというと「蕩減」ということです。これは悲しみの言葉ではなく、ひじょうに祝福に満ちた言葉なのです。もし私が、悲惨な状態になって倒れた日には、神様は両手を取って息絶えた私に人工呼吸をして、再び生き返らせてくださるでしょう。もしあなた方が、神の言葉を実行して倒れるならば、神は必ずあなた方を助けあげるに違いありません。
そのようなお父様の生命を、あえて我らが生命として生かすべく、捧げて行かれたことを深く胸に刻んで天を仰ぎたい。