Injin nim 9- 7-2014 【日本語字幕】 - YouTube
奇妙なことに、分派活動をしている信徒には、
お母様が失敗したので→お父様も失敗して→子女様が代わって蕩減復帰していく
というような論理形式をとって判断している印象を受ける。
ところで、お母様が失敗されたというのであれば、一体誰がお母様に代わって、その使命を完遂させると主張できるのであろうか?
そんな女性を想像することができる信徒がいるのであろうか?
子女様の相対者を考えてのことなのであろうか?
極めて観念的な考えである。
神様にたいする名称は「天の父母様」ではなく、「天のお父様」が正しいので、前者のように呼ぶことは問題であるとしているようである。
お母様に対する反発まるだしといったところである。
原理講義であるとか原理テストにおいて、神の定義にかんするところのみが注目されるので、その辺にも誤解を生んだ帰来がある。
そこにはどのように書かれていたことであろう。
第一章 創造原理 第一節 (1)神の二性性相
被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。コリントⅠ 11章7節に、「男は神のかたちであり栄光である」と記録されている聖句は、まさに、このような原理を立証しているのである。このように、神は性相的な男ある。性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その挌位を表示するのである。
ここでよく読まなければならないのが「被造世界が創造される前には」である。
さて以上の文章に引き続いて
上述した内容を要約すれば、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。
つまり「本性相と本形状の二性性相の中和的主体」では心と体を持つ言行一致の人格神として存在され、「本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体」では父母なる神であることが示され、神自体を見れば中和的主体と表現されている。
中和的というのは、時空を超越した存在の神は、性形も陽陰の円和融一しておられるが、時空間に生きる我々は構造的表現で捉えるとそのようになるのである。
中和的の後に続く主体とは大ざっぱに言うと、自存(自ら存在する)とか原存(原因となって存在する)というような意味と捉えればよいかと考える。
自らが原因となって存在するから、主体的であり、主体である。
この主体性、すなわち心情の性格ゆえに完全無欠の神が創造をなされることになるのである。
さて、被造世界との関係を除いて、神自体に視点を向けると、人格を備えた男性と女性の合性体が神であるというわけである。
ただこれだけでは、あなたの言わんとするところは分かるが、単なる個人的見解ではないかと疑い深い方は言われるかも知れない。
三色刷の原理講論はある目的があって、その目的に適った効果を期待して、そのような形になっているのである。
それはそれで善ではあるが、その事によって思考の活動が規制を受けやすいこともあり、別の目的を持って原理講論を読む時にはかえって妨げになるという、意図せざる結果をもたらしかねないのである。
そこで原理講論は立体的に読むべきであると語ってきたのである。
かって私が若い頃に原理講座の決定を霊の親ではなく、別に専門の推進者を設けた方がよいと提案し、決定率が上がり、原研からも見学が来たりしたことがある。
現在では当たり前の光景である。
しかしこのことにより霊の親としての自覚や、受講後に厳しくとも最後まで自分が責任をもって疑問に答えるという姿勢が薄らいで行く結果をもたらしてもいるのである。
年を重ねると、苦労して得てこなかったものは、実に身に付かず失われやすいということである。
原理講論の別の箇所にはどのような記述があるのであろうか?
第一章 創造原理 第二節万有原力と授受作用および四位基台
(4) 四位基台の存在様相
また、人間は天宙の和動の中心として創造されたので、すべての被造物の二性性相の実体的な中心体であるところのアダムとエバが、完成されて夫婦になってから、彼等がお互いに和動して一体となったときに、はじめて二性性相として創造された全天宙と和動することができるのである。このように、アダムとエバが完成された夫婦として一体となったその位置が、まさに、愛の主体であられる神と、美の対象である人間とが一体化して、創造目的を完成した善の中心となる位置なのである。ここにおいて、はじめて父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息されるようになるのである。
祝福の中心家庭である我々が、中心軸をぶれないようにするためには、天宙和動の中心たる真の父母様にアライメントしなければならないのである。個人にアライメントするのでは決してない。
最後の文には
「ここにおいて、はじめて父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息されるようになるのである。」
「父母なる神」という記述があるのである。
天聖教ではなく原理講論の話である。
文章はつづいてこのように記されている。
このときこの中心は、神の永遠なる愛の対象であるために、これによって、神は永遠に刺激的な喜びを感ずるようになる。また、ここにおいてはじめて、神のみ言葉が実体として完成するので、これがまさに真理の中心となり、すべての人間をして創造目的を指向するように導いてくれる本心の中心ともなるのである。それ故に、被造世界は、このように人間が完成されて、神を中心として夫婦となることによってつくられる四位基台を中心に、合目的な球形運動をするようになる。
したがって、
「父母なる神」は真の父母に臨在され「真理の中心」なのである。
本日のニュースでは御嶽山の噴火で飛んできた岩で無残にも20名が亡くなられたという。胸が痛い。
神山講演の偽りの言葉と誤ったキリスト観という「岩」の犠牲者が増えないことを祈る。ユダの行く末がどのような結末かを思うと、どなたか彼に近い方が彼を早く悔い改めることができるよう努力していただきたい。
混乱の末の美しいエンディングのために・・・
まだまだ、お母様をお支えして活躍されることを神は願っておられることであろう。
最後の文は以下のようになっている。
「それ故に、被造世界は、このように人間が完成されて、神を中心として夫婦となることによってつくられる四位基台を中心に、合目的な球形運動をするようになる。」
仁進様が神山問題を語った動画で「四位基台」を強調しておられたのは、ひとつにはこういうことなのである。
ぜひ、今一度御覧くだされ!
旧約時代のメシア観も
新約時代のメシア観も
悲しいかな個人であった。
成約時代に明らかにされた、一体一如の夫婦こそが真実のメシア観なのである。
成約時代にやっと真の父母様が勝利されて
アダムとエバに託された神の悲願が成就されたのである。
滝沢克己は、聖書の核心が「インマヌエル」にあるという。
すなわち、「神われらと共にいます」である。
では、われわれはこのように言おうではないか。
「天の父母様 真の父母様にいまし 真の父母様 われらと共にいます!」
アージュ!