原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

堕落論 神の統一性から見た 愛の力と原理の力

 

人類始祖の堕落がもしなかったとしたら、このように愛の力だの原理の力だのと説明する必要があったであろうか?

私のここが愛であるとか、私のここが原理であるとか、そのように構造的に分けて考えて理解するようなものであったであろうか?

決してそんなことはあるまい。

我々は堕落世界に生きているので、堕落世界から見る癖ができている。

我々は目に見える人間世界に住んでいるので、人間世界から見る癖ができている。

そこで、これらを横に置いて、

堕落世界からではなく創造本然の世界から見る習慣が求められている。

人間の視点からではなく神の視点から見る習慣が願われている。

李想憲先生は統一思想において、原相から考えよと説いておられるのである。

堕落論 第三節 愛の力と原理の力および信仰のための戒め には

 創造原理によれば、神の愛とは三対象の愛によって、三対象目的を完成した、四位基台の主体的な愛をいう。

と書かれている。

神の一心である心情が、人間世界の家庭の中の上下左右前後といった、内的な位置関係、情的位置関係によって生じた経路を流れるときに、違った様相で現れる様を表現したものである。

儒教ではこの心情を仁として、情的位置関係の経路を流れる際に様相が変化することから、孝であるとか、忠であるとか烈であるとか表現したものと思われる。

しかし、根本は一つなのである。

また、この原理を旧約の神の律法と見立て、愛を新約のイエス様が説かれた神の愛と見れば、それぞれ別のものであるような印象を持つのであるが、律法の完成者として来られたイエス様の内においては二つではなく一つの分かつことができない統一であった。

堕落以前のアダムとエバにおいては、愛と原理とは、分離こそはしていないが成長期にあり、未統一であった。

これを神との関係で見ると、心情が未だ不一致であったということになる。

では反対に心情が一致していることを何というかというと、

「神は原理によって創造された人間を、愛によって主管しなければならない」

愛による主管のことである。

これを通常のキリスト教の用語で表すと「臨在」となる。

神によって主管されるというのは、神が臨在されるということと同義である。

自分と別存在であった神様が「我と汝」の境界を解かして、円和統一した姿である。

そこで、超越神を崇める段階から内在する神を崇めよということで、

聖書のコリント人への第一の手紙3章16節~17節を見ると

16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。

17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。

 

 超越神も内在神も二つ存在しているのではない。

一つの神様が外を見れば超越神として見え、内を見れば内在神として見える。

本来この二つは意識する必要がないくらい、問題のない事であった。

旧約では超越神を見ることに努め、新約では内在神を見ることを努めてきた。

御霊、すなわち Spirit of God が内在されると神性が人々にもたらされるというのである。

神が人類を救済する摂理に仏教圏も吸収されるために、仏教においても神の導きの中で、仏法から仏性(如来蔵)を中心に求める転換が要請されて、大乗仏教が起こってくるのである。

悟りという自力の仏教から、阿弥陀如来による他力救済の仏教が日本では、法然をして現れてきたのである。

 

神様の心情と人間の心情が成長期にあっては未統一であったために、

必要となったのが戒めであった。

神様はご自身とご自身が治める世界を、愛こそが最も尊いものとお考えであられたので、原理よりも愛によって主管する世界を思い描かれたのであった。

 

ところで人間が誕生する以前の世界では、天使長ルーシェルが神の愛を独占する位置にあった。これが人間の誕生と共に自分以上に愛される、神の実子が生まれてくると、以前とまったく同じように神様から愛されているにもかかわらず、人間であるアダムとエバたちと、自分に注がれる神様の愛情とを比較分析すれば、彼ら人間に対する愛の方がずっと大きなものであることを知って、あたかも以前から神様によって注がれてきた自分に対する愛が減少したかのような錯覚を起こしたのであった。愛の減少感である。

その結果、天使世界における愛の基としての位置を人間世界に対しても保ちたいと、過分なる欲望をもって、神様の掲げられている創造目的とは相反する悪の目的を持つ事になってしまい、天使長の愛は非原理的な愛に堕落失墜してしまったのであった。

この思春期にもっとも愛の試練を受けやすく、また天使長が堕落しエバを誘惑する可能性があったため、信仰のための戒めは原理の中で、特に注意することを促すための直接的な御言葉であった。

「アダムとエバが神の戒めに従い、天使を相手とせず、神とのみ相対基準を造成して授受作用をしていたならば、その非原理的な力は作用することができず、彼らは決して堕落することはなかった」

というわけである。

 

人間は神に与えられた責任分担である神の似姿を目指した自己創造を、御言葉を信じて完遂することにより、神の創造性に似るようになり、それは、人間が神の形象的個性真理体であることから、当然神の象徴的個性真理体である万物に対する主管性をもつことになるのである。

 

信仰のために戒めが必要な期間は、最も愛の試練を受けやすい思春期の未完成期間のみのことであった。

「愛を中心としてみるとき、神の第二祝福完成は、アダムとエバが、神の愛を中心として夫婦となり、その子女が生み殖えることによって(創1・28)、神の愛による直接的な主管を受けることをいうのである。」

ということで、当然一時的な期間における戒めである。

 

愛の力は原理の力よりも強いので、アダムとエバが完成し、神を中心として夫婦となることにより、その絶対的な愛の力によって、神の直接的な主管を受けるようになれば、いかなるものも、またいかなる力もこの絶対的な夫婦の愛を断ちきることができないから、彼らは決して堕落するはずはなかった。まして、人間よりも低級な天使長の愛の力ぐらいでは、到底神を中心とした、彼ら夫婦の愛を断ちきることはできなかったはずである。

 

エバはアダムのあばら骨から造られた

エバはアダムの心情の骨の骨である

そこで真のお母様がおられるところ

常に真のお父様がおられるのである。

 

次回は侍義の変容について少し語りたい。