原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 絶対思考 本質を考える生活習慣

4Kという高画質のテレビが少し前から話題になっているようである。絵画史においての自然主義はこのような現在のディスプレイに表出される映像のように、実際我々が生活の中で、眼によって見ている、ありのままの姿を基準としている。

画質の向上は、単に画質が鮮明になったことに終わるどころか、3Dの立体テレビのように、進化と共に奥行きなどの立体感をさらに実感させる結果となっている。

目に見える、測ることができ、手で触れることができる現実の描写の為には空間的・身体的・物質的な映像と解剖学的な正確さによる描写法を自然主義は発見したのである。

それが、前回お話しした、自然描写の6つの要素ー空間性・身体性・材質性・描形・解剖性・対象色と、美術形式の6つの要素ー色筆・線・表面・量・色彩・構図である。

ある時代のある画家が描くある作品群によって、その描写法の構成要素のいくつかが、厳格なものから緩やかなものへ、また消失に至る結果を我々は見るのである。

絵画の潮流の道筋は直線的ではなく、代表的な絵画の流れを変える画家達によって、右へ左へと蛇行しながらも、その発展にはある種の傾向があり、ベクトルを持っているかのようである。

つまり現実の生活世界に見える、まさにそのとおり、ありのままに描くための自然主義的要素の希薄化であり放棄である。

絵画の大きな潮流、本流とはこのような傾向のことである。

そこで前回の基準で考えるということを振り返ってみると、自然主義的要素という基準で絵画の歴史を見てきたわけではあるが、自然主義的要素の希薄化という傾向は、性相と形状の二性性相からすると、形状的理解ということになろう。別の言い方では、HOWであり、如何にして今日の抽象画に至ったかの説明であった。では何故という理由、WHYに関しての説明や如何に?ということになると、これが本日のテーマである、本質を考えるということになるのである。

その前に神の創作である無形実体世界である霊界ー天と、有形実体世界である宇宙ー宙の、天宙の創造であるが、神が人格的存在であるが故に、なんでもかんでも吾が思いの如く造られたというのではなく、授受作用、すなわち僕である天使達とのコミュニケーションを重視して意見を取り入れて、共働作業でしたことであろう。

人格神であるということは共感的であり、共働的であるはずである。

統一原理では、天地創造、無形実体世界と有形実体世界の創造の完結は、神の目から見て、神の責任分担の95%と、人間の責任分担の5%の合わせて100%で成るとし、この5%は神から見ては5%であるが、人間にとっては実質100%の責任を表している。

またこの5%の核心とは、人間が神の似姿になる自己創造のことであり、それによって造られた被造物から抜け出て、創造主としての位置に参席することになり、動植物などの被造物とは一線を画する特権を得るのである。万物の主管者である。

万物の霊長とはこんなことをも含む内容なのである。

また自由について、完全な自由は自由意志と自由行動を一括して表現したものであるとして、統一原理は3つの原則を示している。

1,原理を離れた自由はない。

2,責任のない自由はない。

3,実績のない自由はない。

以上のような点と先ほどの人間の責任分担の5%を考慮すると、神が創造された被造世界のそっくりそのままでは、人間が誕生して以降の神が求められる喜びが変化してきたことと予想されるのである。

神自らが創造されたもの、そのままではなく、人間がその責任と本然の完全な自由において、創造したものが加えられることによって、さらなる刺激と喜びを神が享受されるようになるということである。

科学は人間が住む安楽な環境圏を築くことを目的として発展してきたのであり、経済は人体の中の血流が酸素や栄養素を行き渡らせる如く、人間社会の隅々に必要な物資やサービスを提供してきたのであり、政治は宗教の求める絶対的価値と経済の合理性を調和させるべく機能することを期待されているのである。

目に見える形で地上天国が建設されるように、各々責任を課せられ、自由意志と自由行動によって責任を全うした証としての実績を神の前に捧げて、神の創造後、バトンを渡された人間が造った被造世界が天国として表現された姿を、神がご覧になり、喜ばれることが本意であったのである。

その中でも特別な位置にあると思われる分野が、芸術とスポーツである。

どんな製品であれ技術の完成度が高まり、その円熟期になるようになると、消費者はデザインや色彩など芸術性に要求の比重を増すのが常である。たとえばそれは、軽自動車であろうと数千万はするであろう高級車であろうと変わらないことである。

かってイタリアピニンファリーナ社でデザインディレクターを経験し、フェラーリなどのデザインの責任者であったことのある人物、奥山清行がドキュメンタリーの番組の中で、部下を指導していたことを思い出す。

本人の説明が分かりにくいものであったが、若い独創的なデザインを考える部下に対して、デザインとしては面白いが、そのデザインが成立している前提条件である、自動車のメカニズムの各パーツの配置や、その必然性などを充分考慮した上で、作図されていないということのように受け取られた。

科学技術上の合理性や必然性から導かれた構造と配置に、調和するような条件で、独創的なデザインを考えろという指示であったかと思うのである。

さて、創造本然の世界では、科学技術の発展による安楽な環境の整備された社会で、人々の芸術活動や人体を用いた技術と芸術の調和を求めるスポーツが各個人にとって重要な使命分野となってくることであろう。

絵画の歴史も、人間の本性(ほんせい)が復帰されていく現象に伴い、創造本然の価値を求めて、遡って行かなければならないのである。

人間存在が霊と肉とによって成り立つ二重存在であるということは、現実には地上世界に肉身を持って生活しながら、一方では未完成ながらも霊人体は霊界の入り口の手前に存在しているのである。肉身生活を土台にして霊人体を成長完成させて、心情や心情的感受性を完成させて、もはや必要がなくなり、時空間に拘束されている肉身を脱ぎ去って、本質的世界である霊界に旅立って行くのである。

そこで芸術は神が創造された世界を参考にすることは結構なのではあるが、神がなされなかったものを開拓していく責任があるのである。

また、我々の地上生活での人生の目的が、後の世界である霊界で自由自在に生きられるための準備であることを思えば、芸術の成長もまたこの原理に従わなければならないことなのである。

さあ、仏教徒が言葉では表わすことができない悟りを求め、詩人は言葉に表せないものを書くことを求める。画家はこの世に存在しないもの、霊的な表現を求めて彷徨うのである。

1920年 再臨主であられる 文鮮明 恵師が御生誕する、その時を中心に、全霊界が激しく地上に協力や助けを差し伸べて、様々な芸術の様式や運動が展開したのである。

その後は大きな絵画の流れを変えるものを見出し得ないでいる。小粒な作品の百花繚乱の様相を表すに留めるのみなのである。

何故であろうか?

それはイエス様が初臨の際に、神のご心情の理想世界を建設するために、子羊の婚礼を成し遂げることができず、従って、神様の愛の本質が顕現する基盤である家庭を失い、神(祖父母)→父母→子女の三代の、神の愛の運行と顕現を不可能に至らしめられたからである。

これを元返して文鮮明韓鶴子のお二人が、神の祝福の下御聖婚され、同様に多くの信徒を祝福し合同結婚式を挙行することとなり、初めて人類は描く資格のある立場と描かれることのできる立場をかろうじて条件的に復帰して、本然の芸術のスタートラインに立つことを許されたのである。

それ故、神に代わってなされる再臨主の祝福を得ること無しには創造本然の絵画に向かう道を見出すことは究めて困難なことになるのである。

父が牧師であったゴッホは、自分の天職も牧師になることであると考えるようになる。ところが自分にはアカデミックな神学研究には不向きであると気づき、素人の説教師になろうとすれば、説教の才能がないことに気づく。福音書の如く生きんと欲すれど、あまりに厳格忠実に守ろうとしたため、人々から疎まれることになる。それならせめて農夫たちに絵を通して自らの信仰告白をしようと画家の道を歩んだのである。

画家達を呼び寄せイエス様を中心とする12弟子達をイメージして、12脚のイスを用意して、画家達の共同体を夢見たのであるが、やってきたのはゴーギャンだけだったのである。

ゴッホが描いた農夫の手の描写は解剖学的に正しいものではなかったり、シスレイが前景に暖色、後景に寒色という色彩遠近法を無視したように、求心的遠近法を無視したりしたのである。ゴーギャンにおいては日本の浮世絵や版画の平行遠近法を取り入れる試みをしているようである。

日本の浮世絵などの影響で、西洋の画家が次第に意識してきたであろうと推測されるのは、画家たるものは本来のカンバスの如く、三次元の立体ではなく、二次元の平面的手法によって勝負すべしという命題ではなかろうか?

その後、現代のコンピューターグラフィクスや映画の発展に、その融合などの経緯を鑑みれば、窮めて的を射た観点であると言えよう。

日本のドラマや映画は言葉で情況を説明するシーンが多い。これは映像にしかできない映像表現という手段を使う芸術という基本が理解されていないためであろうか?

演劇に代わることができるのならば、映画としての存在意義が疑われるところであろう。

同様に立体であるにせよ平面にしか表現できないものを画家は探求すべきであるというのが、その流れであろう。

画家は二次元で勝負すべきなのである。

それを啓発したのが日本の浮世絵や版画であるかも知れないということは、我々の先祖はたいしたものである。

このように画家は自然主義技法をどんどん放棄してきたのであるが、それは人間が霊肉の二重存在であるからである。

そこで技術者の発明も画家の作品もこの世ではなくあの世に向かって開かれているのである。

両者の作品の発展にインスピレーションが重要な意味を持つ理由もここにあるのである。

結論として、霊界の本質である、心情を体得せずしては創造本然の芸術の開花はなく、その出発点は、勿論神の心情を人類史上初めて体得された、文鮮明 恵師を学ぶ以外に道がないのである。勿論実践の中で学ぶということである。

現在フランスで天才画家は誰と思うかとフランス人に質問すれば、多くの人が日本人画家の松井守男画伯を指すそうである。

彼の代表作である「遺言」などを美術館で見てきたことがあった。

「遺言」はネット上の写真で見ていたので、左上から差し込めてくるような光の表現を見て、西欧の宗教画に何か共通するものが感じられるのではと、勝手に期待して家内と行ったのである。

宗教画に見られるような聖なるものの畏敬の光とは違っていたようであった。

よく分からない絵である。

一見して絨毯みたいな黄土色の絵である。

苦しい絵であった。

家内と見たとても小さな他の絵の題に天国という字がある絵があった。

「これが天国か、こんなところには断じて行きたくない。」そう思った。家内も同様に感じて驚き呆れたようであった。

バチカンからも何枚も絵を描いてほしいと要請される天才画家に何を素人がと言われて然るべきであろう。

ところで、ここではあまり話すつもりがなかったのであるが、私が学生時代に所属していた教会では俗に言う霊現象がよく見られたのである。

ある時フランシスコ・ザビエルだと言う霊がある信徒に降りたのである。私がその場にいなかったので聞いた話である。

私が覚えているのは、ある信徒がザビエルに質問した部分、

「ザビエルさん。天国というのはどんなところですか?」

この質問に対してザビエルは、

「残念ながら私は天国にはいない。私がいる霊界は薄暗い夕方のような霊界である。」

また、何故この信徒の信仰的成長に協力したり助けたりすることができるのか、その理由を、

「私が日本に来た際に多くの日本人と会ったが、本当に心情を分かち合うことができたのは、二人だけだった。この者はそのうちの一人の何々の子孫だからである。」

そんな風に話したというのである。

本人が本当にザビエルかどうかは分からないが、天国を考えるのに暗示的内容となっているように思うのである。

ここではただ持論である、霊界というのは自分の心情の反映であるとだけ申しておくことにする。

ザビエルが多くの苦労を天父のために捧げてこられたことを思うと、日本人の一人としてただただ感謝する次第である。

松井画伯は聞くところには殉教した日本人クリスチャンで日本最初の司祭ペトロ岐部に感心があるようである。

そこから神の心情世界を尋ね求められ再臨時における画家の天命が果たせるよう祈念するものである。

最後にパッションというイエス様の映画があった。

イエス様の十字架を肉体の十字架と見たようである。

隠れキリシタンがイエス様のむち打たれた40回の倍の80回打たれたらどうであろうか?ヨガの行者がイエス様が40日ならこちらは50日したと言ったらどうであろうか?私は獄中生活はイエス様よりずっとあるというクリスチャンがいたらどうであろうか?

価値が違うのである。イエス様がなされたのは絶対的価値の基準でなされたのである。

我々堕落人間が40日断食しようと50日しようと、イエス様がなされる一日断食、いや一食抜く断食にさえも及ばないと心得るべきなのである。神をも感動で胸締めつけるほどの心情を捧げられた、永遠にして絶対の基準で、捧げ物として、天地が公認する基準で備えられたのである。我々とは、天地の差があるというのが真実である。

見える物から見えない物を見なければならない。

そうでなければ本質を知ることができないのである。

紫外線と赤外線の間の可視光線のみを見れば、全てであるというようなことのないように、我々は心したいものである。

 

(12の絶対思考 参照)

 

1,神の立場で考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/15/040754

2,中心が何かを考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/16/030345

3,究極が何かを考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/18/043604

 

4,心情を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/19/042111

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/22/065846

5,動機を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/24/092013

6,価値を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/26/044825

 

7,原理を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/29/063145

8,原則を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/02/053949

9,基準を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/03/062741

 

10、本質を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/05/055401

11、目的を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/08/064458

12、定義を考える生活習慣

 http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/09/054011