何故目的を先に考えなければならないのであろうか?
では反対に目的を考えないとしたら、何を普通は考えるのであろうか?そう自問すれば、目的と対に語られることの多い方法である。すると、方法を先に考えず、目的を考えよということになる。そして目的という定性的でふわふわしたものを、しっかりと腰を落ち着かせるものが、定量的な目標である。
おおざっぱに言えば、(定性的な)目的と(定量的な)目標は、性相と形状の関係にあると言えよう。二つで一つである。
我々が実際の生活で方法を思い浮かべるのは、何か課題や問題に出会ったときである。その時こんな問題があるとか、さらにこの問題をよくよく調べて問題の本質を浮き彫りにしようとかいったことになるかも知れぬ。そこでその課題や問題を解決する方法や如何にという流れに行き着くのである。
別段おかしなところもなく、普通のことである。
しかしながら、そのようなことも大切ではあるかも知れぬが、課題や問題の解決のためという目的の達成の為の方法というスタンスを取るのではなく、自分が目的だと思っていることが、一段高い視点から見てみると、課題や問題の解決とその方法とは本当の目的の追求と目標の実現の為の下で生じてきた事象であり、もしかしたら本来の目的や目標に最適な達成方法ではないかも知れないと言うことである。
ややこしい表現で恐縮であるが、この目的と方法とを、戦争や企業の競争に使われる戦略と戦術に置き換えるのであれば、戦略(目的・目標)を戦術(方法)と取り違えてはならぬということに相当すると思われる。目的が主体で方法が対象である。戦略が主役で戦術が脇役である。方法や脇役は代わっても差し支えないが、目的や主役は容易には代わることができないのである。
言い換えると、方法を主役として目的を選んではいけないということである。ところで、我々は技術革新が日進月歩の発展を遂げている21世紀の世界に住んでいる。新しい技術が現れることは頻繁に起こってきている。
すると、目的は後付になるではないか?という疑問が生じて来るであろう。確かにそう言うことも多くあろうかと思うのではあるが、その際には技術開発に関与していない人がブレイクスルーになるであろう。つまり技術関係以外の分野に関心が多く注がれ、また外部情報の豊富な分野に通じている方が、遙かに技術関係の志向する目的よりも、上位の目的に遭遇しやすいと思われるからである。技術畑という制約によって発見される目的が限られてくることを回避すると言うことである。
先日ある番組を見ていたら文化庁長官がでていて、偶然にも私が好きなデザイナーの名前がその発言に出てきたのである。懐かしく感じて今はどのような活動をされているのであろうかと気になりもした。私が彼に惹かれたのは随分昔のことではあるが確か「一枚の布」というテーマで洋服を造っていたことが原因であった。一枚の布地を最大限有効に活用してデザインするというものであったことと思う。
さて、三宅一生がいらなくなったペットボトルから繊維を造って洋服を造っていることを文化庁長官が語っていたのである。
通常で言えばリサイクルである。ところが三宅一生はアップサイクルという概念をもって制作しているというのである。
リサイクルでは元返すだけで、以前と以後では価値が変わらないが、彼の考えているアップサイクルとは、ネガティブな意味ではなく窮めてポジティブで、以前より以後の方が魅力的になる、つまり付加価値が高められるような、リサイクルを指すようである。
前述した技術畑の発想の目的がリサイクルに相当し、それ以外の畑からの発想の目的の賦与がアップサイクルに当たると言うわけである。
少し話が変わるが、昔チュナーがアナログからデジタルに移行した頃、念願のデジタルチュナーに変えてFMのクラシックの放送を良く聞くことがあった。
その時確かデジタルで旨く拾えない時があった気がするのである。旨く手加減して手動でチューニングすれば簡単であったのに妙に心に引っかかったことがある。
デジタルというのは非連続的情報ということであろうか。
アナログというのは連続的情報ということであろうか。
デジタルの非連続というのはアナログの連続的情報に比べて、情報に欠損があるという意味であろうか?
素朴に考えるとそんなに見えるのである。
仮にこれが正しくアナログ情報の方が情報量は多いとすれば、
デシタルとアナログは、例えば音や映像情報を再現する方法と見なすことができる。
もし音や映像の情報をできる限り多く忠実に再現したいとすれば、その目的に適うと思われるのは、むしろアナログとなる。
高音質と高解像の映像を目的とするアナログでの技術開発という方向性になるであろう。
窮めて単純化したお話であるが、この内容が正しい、正しくないをここでは問題にしているのではなく、問題から一旦離れて目的から考えるというイメージがこんな感じであるということを伝えたいと思うのである。
最後に、目的というものは主体が立てるものと相場が決まっている。主体の意志で希望や理想を表したものが目的である。
したがって、我々の主体性の問題に強く関わっている。
対象である環境、具体的には問題という制約条件に則して開発することが改善であり、制約条件に縛られずに、主体の積極的な意志によって立てられた目的によって開発することが革新、すなわちイノベーションではなかろうかと思うのである。
先日お話しして画家達が美を求めて形式を破っていくことの先には、単なる形式からの自由と言うことではなく、堕落によって始まった人類史が復帰摂理によって本郷の地へと帰っていく中で、必然的に起こってくる完全な自由を求める自由復帰現象である。その芸術は心情芸術と呼ばれるであろう。
それは神に対する絶対対象という位置から出発しなければならない、何故なら、神ご自身が先駆けて一番最下層から歩まれたからである。
(12の絶対思考 参照)
1,神の立場で考える生活習慣
http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/15/040754
2,中心が何かを考える生活習慣
http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/16/030345
3,究極が何かを考える生活習慣
http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/18/043604
4,心情を考える生活習慣
http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/19/042111
http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/22/065846
5,動機を考える生活習慣
http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/24/092013
6,価値を考える生活習慣
http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/26/044825
7,原理を考える生活習慣
http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/29/063145
8,原則を考える生活習慣
http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/02/053949
9,基準を考える生活習慣
http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/03/062741
10、本質を考える生活習慣
http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/05/055401
11、目的を考える生活習慣
http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/08/064458
12、定義を考える生活習慣
http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/09/054011