原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 絶対思考 究極を考える生活習慣

既にお話しした如く、一見物事の原因であったり、本質であったりするように見えるものであっても、よくよく考えていけば、まだまだ最後の原因という訳ではなくて、つまりは本質ではなく現象であったといったことがある。

そこで何が何でも究極のなんとかを求めたいものである、という決心覚悟の探求姿勢が重要である。

これは何事にも当てはまることのようである。

TOEICが500点で満足するものは、そこで止まる。600点で満足するものはそこで止まる。700点で満足するものはそこで止まる。800点で満足するものはそこで止まる。900点で満足するものはそこで止まる。990点で満足するものはそこで止まる。

恵果が空海に言うには、貴方は唐語とサンスクリットで書かれた仏教のいずれも違わず、あたかも瓶から瓶に中身を一滴も残さず移す如くであった。我が願い叶えり!

仕事であれ、趣味であれ、スポーツであれ、満足するところが終着駅となるのである。思考もかくの如し。

我々は感覚や知覚や記憶によって外界の物質世界を、意識が脳を動かし内界の精神世界に形成するのであるが、この異質であるはずの物質的事象と意識の中で再生された精神的事象を結びつける鍵は何かに、波動方程式で有名なシュレディンガーはそのことに関心を抱いた。

(脳の発生という特殊な)変化が起こっていなかったとしたら、世界というこの劇は、観客のない空席を前に演じられていたということになるのでしょうか。つまり言ってしまえば、世界は存在していなかったということになるのでしょうか。だがそれは、世界像の破綻ではないかと私は思うのであります。この難局から抜け出す道を見出そうとする衝動に対して、賢明なる合理主義者から冷笑を浴びることを懸念して、これに水を差すようなことがあってはならないと思います。

シュレディンガーは科学者の立場を保ったまま、精神と物質の統一の糸口を求めていたのであるから、大変な物理学者であったと言えよう。彼はスピノザの宇宙の生気という考えについてこう述べている。

スピノザによれば、すべての個物は無限実体、すなわち神の様態的変状であります。神はすべてのものを、その思惟と延長という属性によって表現しているのです。延長と申しますのは神の時空的な広がりであり、思惟は・・・人間や動物の場合・・・その精神性であります。スピノザはまた、すべての無生物も「神の思惟」として、すなわち思惟という属性として存在すると言っております。

 残念ながらスピノザは性相と形状の二性性相を知らなかったし、人間が神に形象的に似せて創造された、形象的個性真理体であり、万物は象徴的に似せて造られた、象徴的個性真理体であることを知らなかった。真理体とは二性性相という真理に対応している実体ということである。

人間を目に見える現象世界の物質的存在として見れば、精神活動もそのことに限定されて理解されるのであるが、人間を霊的な体と肉的な体を持った二重の存在であるととらえれば、また別の考えが浮かんでも来よう。

さて、統一原理では人間は霊人体と肉身からなっていると説明されている。肉身は肉心と肉体からなり、霊人体は生心と霊体からなっている。人間の心の作用は、この生心と肉心の授受作用によって生じているのである。

確かにこの見える世界のみを人間生活の場だと考えることになれば、肉心に関わる知的営みである分析比較知という理性が主役として活躍し、この理性の得意な範囲でその働きを終えることであろう。

しかし、もし人間が見えるからだと見えない体のデュアル構造で成り立ち、その各々の体に対応する心があるとすれば、仏教で言う六識までが肉心に関わり、七識から八識までは生心に関わるのかもしれぬ。

九識論という立場もある。

そこを踏まえて岡潔に至っては十識というものを想定した、しかしそれは知ではないという、真情というものであると説く。「第九識のもう一つ奥に第十識、真情というもののあるのを見落としています。これは初めから、知が大事だと云うような考えで見ていったんでは第十識はとてもわ分からんでしょう。」

さらに岡潔は仏教を肯定した上で、ここまでが仏教の明らかにしたところで、その先には真情があると喝破したのであった。

「仏教は心はかなり見ているんです。ただ、知がもとだと飽く迄も思ってますから、第十識のあるところを見落としたんですね。」

当時西欧の超一流の数学者達が岡の研究を見て到底一人で為し得たものとは思えず、複数の研究者の成果であると思い違いをして、真実を知った時驚愕したとのことである。

そのような世界的評価の高かった数学者である岡潔の真情という発言には実に重い意味があるといわざるを得まい。

この真情とは統一原理で云うところの心情のことであり、すなわち神情のことである。

岡潔が尊崇の念を抱いていた山崎弁栄は日本仏教に現れた心情 、特に法然の至った地点から、さらに前に道なき道を切り開いて行かれた御方であった。

さて、話にかえって、理性という西洋を中心に探求してきた、分別智(顕在意識)での考察の対象は見えるところの有形実体世界である、この地上生活圏を対象とする場合に置いては、それなりの働きをするものと考えられるのではあるが、それは精々大げさに言って世界の半分に有効と云うことである。

したがって、我々は悟性という東洋を中心に探求してきた、無分別智(潜在意識)によって目に見えないところの無形実体世界である、あの天上生活圏である霊界や、さらにはこの二つの世界である天宙を創造された、究極の実在である神の、心情という核心に共鳴して、考察しなければ一切智を得ることは到底できないであろう。

人間の幸不幸に全く関係なく天の宝座に全知全能の神としていましたもう神であられると思われることこそ、神にとっては我慢のならない誤解なのである。

 

(12の絶対思考 参照)

 

1,神の立場で考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/15/040754

2,中心が何かを考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/16/030345

3,究極が何かを考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/18/043604

 

4,心情を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/19/042111

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/22/065846

5,動機を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/24/092013

6,価値を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/26/044825

 

7,原理を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/09/29/063145

8,原則を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/02/053949

9,基準を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/03/062741

 

10、本質を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/05/055401

11、目的を考える生活習慣

http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/08/064458

12、定義を考える生活習慣

 http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2013/10/09/054011