縦的真の父母
神様の性別について考えてみましょう。
創造原理には、
一) 神の二性性相
無形にいます神の神性を、我々はいかにして知ることができるだろうか。それは、被造世界を観察することによって、知ることができる。そこで、パウロは、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ロマ一・20)と記録している。あたかもすべての作品は、その作者の見えない性稟の実体的展開であるように、被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、その実体対象として展開されたものなのである。それゆえ、作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この被造万物を見ることによって神の神性を知ることができるのである。
神の本質を知るためには、現象(世界)を調べれば良いという。
四位基台の中心に位置するのが神であった。
イエス様は、神を「天の父」と呼ばれた。
復帰摂理に選ばれた中心人物たちは、すべて男性であった。
摂理に女性が出てくる時には、神の血統を死んでも守ろうとする女性であった。
絶対的中心人物であったアダムもイエス様も再臨主文鮮明先生もみな男性だった。
相対的中心人物であったノアもアブラハムもモーセもみな男性だった。
文鮮明先生はご自分一人を指して真の父母と言われることも多かった。
何故現象として現れた復帰摂理歴史上で、女性が中心の位置にいなかったのか?
それは、原因である神様自体の本質は男性が位置しているからだと考えられる。
神の血統、神の男性の染色体はアダムが持つ、
女性の染色体は、神の染色体の繁殖のためにエバが持つ。
縦的というのは、時空を超越したという意味である。
時空間では、上下左右前後というように区別ができるが、時空を超越している世界ではこのような区別はなく渾然一体化している。
「縦的真の父母」というのも、正分合の分にあたる父母のようには分化されてはいない「父母」ということになる。
ある意味では「親」という言葉に近いのかもしれない。
では厳密にはどのように一体化していているかというと、
性相的男性格主体として統一されているのが神だというのである。
そこで「縦的真の父母」というのは、母性ではなく父性の方が圧倒的なのである。
原理講論では、「被造世界に対して」性相的男性格主体となってはいるが、
では、どうしてそのようになるかといえば、
「被造世界に対する以前にも」(創造以前の神にも)
大本の神自体にそのように被造物が現れる要因があり、
様相があるからだと言うことができる。
そこで、結論的には神自体内においても同じことが言えるというわけである。
神様と実体の神様であるアダムの性禀は、性相的男性格主体なのである。
実体の神様の妻であるエバの性禀は、形状的女性格対象なのである。
性相的 : 形状的
男性的 : 女性的
天上的 : 地上的
創造以前の神は、正分合作用の正であるから、
未分化の神様である。
つまり性的に未分化の父母様である。
それを性相的男性格主体の神という。
そこでこれは、三大主体思想を予想する。
アダムは実体の神様であった。
アダムは神と一体でなければならない。
性相的(精神的) ⇒ 真の師
男性的(父性的) ⇒ 真の父母
主体的(主管的) ⇒ 真の主人
エバは実体の神様の妻であった。
エバは神と一体のアダムと一体でなければならない。
よってエバすなわち実体の神様の妻も、
師と一体の妻は師であり、
父と一体の妻は父母であり、
主人と一体の妻は主人である。
韓鶴子オモニはこれを爆破してしまわれた。
木っ端微塵に破壊してしまわれた。
夜の神様、すなわち創造以前の神様とは
性相的男性格主体の神様であり、
夜の神様に属するアダムも然りである。
夜の神様は天の父母様とも呼ばれることがあった。
創造が完成された時、
すなわち実体の神様であるアダムと実体の神様の妻であるエバが一体化された時、
肉身の無かった天上にいた神様は、
肉身を持った地上のアダムとエバに臨在され成長され、
天地人真の父母様になられる。
この時、性相的男性格主体の夜の神様は形状的女性格対象の昼の神様と
蘇生・長成・完成の三次の祝福結婚をなされて永遠に安息される。
神様について、
創造以前を強調する時には夜の神様であり、
親である父性を強調する時には天の父母様であり、
創造以降の神様の成長と完成に必要な神様の妻を強調する時は昼の神様であり、
夜の神様と昼の神様が また
天の父母様を代表するアダムと地の父母様というべきエバが
結婚し成長し完成完結完了して天地人真の父母様になって
神の創造目的は成就される。
独生子や独生女という言葉も、無原罪で生まれたかどうかということも重要ではあるには違いないが、上述したような内容において、天の御心の成就において重要な名称なのであろう。
お父様のみ言葉を詳細に研究することは大切なことではある。
だが、われわれは律法学者が陥った陥穽に陥ってはならないことだろう。
お父様が語られているみ言葉の普遍性と個別性、あるいは一般性と特殊性を意識しなければならないことだろう。
残念ながらわれわれがみ言葉を全体観をもって理解するためには、
原理講論やその他の統一理論によってしかなされる方法はないように思われる。
メンバーの方からご意見を聞いたので、
思いつくままに私見を殴り書いてみたが、
いかがであろうか?
若いころは何故「中和体」ではなく「中和的主体」なのかがよくわからなかった。
恥ずかしい話だが、ようやく腑に落ちるようになった。
神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。
原理講論 創造原理
神の母性を強調したり探求すると、お一人の神様を見失う可能性があると考えている。
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