原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

対象性エバ文化を創る日本聖殿

われわれの父が教えてくださった文化は主人意識であった。従人意識ではなかった。

従人意識文化を創った家庭連合の信徒は自分では常に事象を判断することができなくなり、ただ上を見上げてお上の顔色をうかがって判断するようになっていた。

世の人々はこのような有様を思考停止と呼んでいた。

頭の中では理解しているように思えることも、実際の行動を見てみれば理解していたはずとは異なる行動様式を取ることがある。

昔の人は知行合一と言ったが、知ることと行動することは一致してこそ本物だった。

 

韓国聖殿の佐藤という人が信徒に毎日御言葉を選んで配信していると聞くと、では我が日本聖殿でもはじめなければという人が一人、二人と現れやがて会長も始めることになった。このようなおんぶにだっこの至れり尽くせりは女性的な教育方法である。

幼年期にはかような教育は結構なことだが、主人意識を立て家庭教会の長となり、三次の結婚を経た王と王妃の位相を許された我々に続けるなら、かえって御心を阻害する悪習になってしまう。

 

父親なら、

お前が必要な御言葉はお前にしかわからない。自分で探しなさい。

おおよそどのような御言葉を望んでいるかがわかるなら、どのあたりの御言葉を当たるといいだろうとは助言してあげよう。

しかし、どのような御言葉も自分が信仰生活の実践の中で復帰しない限り、

その御言葉は依然としてお父様の御言葉でしかなく、

お前の御言葉ではない。だから、

「復帰する御言葉は教えてあげることができない」

というのだと教えるべきである。

 

主人意識とは、人頼りの心とは相反する。

自責か他責か。

会長様、教会長様。お腰につけた御言葉団子、一つ私にくださいな。

あげましょう、あげましょう。これからサタンの征伐について来るならあげましょう。

よろしく犬や雉や猿じゃあるまいし、子分になるために王冠をかぶっているのか?

不思議な話である。

 

上げ膳据え膳で育つということは、主体性を骨抜きにする。

サタンが喜ぶ伝統をわざわざ立てることもあるまい。

アダムが天を代表し、エバは地を代表する。

エバがどうやって天を代表できるというのか?

そのようには創られてはいない。

それを韓鶴子が転倒し倒錯した秩序を打ち立てている。

 

一所懸命に支えれば支えるほど父をのけて母を支えてきたので、意図せざる地獄を創る結果となってしまう。こんなはずじゃなかったのにと霊界で泣き叫ぶだろう。

 

では日本聖殿はどうだというのだろうか?

 

忠孝烈の文化を同じくする韓国の時代劇を見れば「父子の関係」がメインテーマだとわかる。息子ばかりか娘たちも父子関係ばかりが表現されて、母子関係はほとんど出てこない。

父子関係は血統関係であり、心情関係だからである。

父の心情を息子も娘も相続しているから父の姓を名乗るのだろう。

お父様は宇宙の究極の真理だと語ったのが神と人の父子関係であった。

 

母子関係教団に変えてしまったのが韓鶴子だった。

だから韓国は天に呪われている。

天の祝福は韓国から北に条件が整えば移ろうとしている。

 

聖書の下僕とは何か?

奴隷のことである。

自由のない存在。

主人の意のままに生きる。

 

日本聖殿も第二の韓鶴子教団になるのだろうか?

くわばら、くわばら。

 

何故お父様は「家庭連合」と名付けたのか?

祝福家庭がそれぞれ父につながるフラットな連合だからだ。

これを放棄する奴があるか!

天の父母様聖会???

日本聖殿も同じ道をゆくのか。

 

何故、中央集権がこうも好きなのだろう?

30年もかけて旧教の中央集権支配に抵抗して勝ち得た信教の自由を自ら放棄するとは当時の人々が見たら想像し得ない奇々怪々な現象と映ることだろう。