伝えられていることには、佳約式では聖婚問答のような事が韓鶴子オモニにあったそうである。
だが、肝心の聖酒式には振れられていなかったようである。
佳約式に聖婚問答の他に聖酒式があれば、アダムによって生まれたことになるはずである。
レアの胎中すなわち崔元福先生の胎中を用いて韓鶴子オモニは生まれ変わったことになるのではないだろうか?
そうなれば、アダムから生まれたエバが同じ天父の血統であったように、
韓鶴子オモニもアダムであるお父様によって生まれ再創造され、
お父様と同じ血統で生まれたことになる。
説明がスッキリするだろう。
われわれとは違う三日行事もあったかもしれない。
われわれの場合から推測するしかない。
我々の場合はおおよそこんなところか。
原罪と堕落性はふたつのものというより
ひとつのものの表裏であるようだ。
1,信仰基台(象徴的)
聖酒式 ➡ 本然のアダムとエバの血統に血統転換=原罪の精算
聖婚問答 ➡ 失われたみ言葉と契約の復帰
2,実体基台(実体的)
三日行事 ➡ 本然のアダムとエバに復帰(堕落性を脱ぐ為の蕩減条件)
七年路程 ➡ 残された完成期を完成
語る必要もないかと思っていたが、念のため佳約式という聞きなれない言葉が伝えられているが、すこし心配になった。
これはおそらくハングルがわかる方にはなんでもない言葉なのではないだろうか?
「百年佳約」という言葉が韓国にはあるという。
「百年」とは生涯のことで、「佳約」の「佳」は良いとか素晴らしいという意味である。
「約」は契約、契ということだそうだ。
一生変わらぬ愛の誓い、契約のことで実におめでたい言葉だという。
以下のような小説もある。
生きた男には生きた娘を!死んだ男には死んだ娘を!人の世はよくよくつがいを求めるものだ。
九州は肥前、渡来陶工の里をゆるがす結婚騒動に、文化と人間の命脈を描く傑作長篇小説。
慶長の役により朝鮮から連行された陶工たちが、九州の皿山に窯をひらいて半世紀。龍窯の母・百婆は死んで神となり、山上の墓から一族を見守る。折しも下界では息子・十蔵がその子供たちの嫁取り婿取りをめぐり、日々思案を重ねていた。これまで通り仲間内で絆を固めるか、日本人と結婚して渡来の未来をひろげるか。可愛い子孫の「百年佳約」=結婚成就のため、百婆の活躍が始まった!
百年佳約 paeng-nyŏn-ga-yak、ペンニョンガヤク
さて、どんなことであれ、信仰上の新しい言葉に出会ったら、
統一原理に即してこれはどういうことかと吟味することが大切である。
7年路程を韓鶴子オモニが始めるスタート時にこのような佳約式があったそうである。
7年路程とは、韓鶴子オモニの実質的な血統転換である。
堕落性から脱却する道である。
言い方を変えると、この7年間にあらゆる困難な状況に置かれても、お父様を信じ一体化することができれば、堕落と関係のない状態に復帰したことになる。
それはアダムによるエバの再創造であり、再教育のことである。
今後原罪や堕落性と各種儀式との関連性が劉先生によって正式に解かれることを
望みたい。
個人的には、本体論は創造原理ばかりではなく、
男女の復帰原理を血統転換によって説明されるべきではないかと考えている。
また、レア格の女性をラケル格の女性として自然屈服することができれば、妾のような立場から正妻の立ち位置にラケルは立つことが出来る。
そこで韓鶴子オモニが勝利した以降は、もはや崔元福先生は「お母様」とは呼ばれなくなり、韓鶴子オモニが真の母として「お母様」と呼ばれるようになったのである。
お父様自体も、その後は食口が崔元福先生を「お母様」と呼ぶことを禁じられた。
韓鶴子オモニが正妻の位置を人類史上初めて復帰するという偉大な勝利をされた。
あくまで妾の立場でラケルのように出発したので、厳密にはラケルだけの「御聖婚」とは呼ぶことができないかもしれない。
ラケルとレアが一体化していてこそ、御聖婚と呼ばれる価値が生ずるはずである。
ここで佳約式とは、我々でいうマッチングであり、約婚である。
エバが「取って食べたら死ぬ」と言われた神の戒めを破って、天使長ルーシェルとの不倫結婚を為したので、そのような儀式を経て、ここに永遠の誓いを立てる必要が生じてくる。
韓国で言う約婚、日本で言う婚約である。
そこで何かしらの「聖婚問答」のような儀式があったのだろうと思われる。
レアとラケルとは、それぞれ非原理的エバと創造本然のエバを意味する。
ヤコブを中心にして、お互いが葛藤し愛の闘争をして嫉妬し憎み合う状態から、
お互いを自分のように愛して一つになることができれば、そこには堕落性は無いということになる。
善の表示体である原理的エバ、創造本然のエバのラケルが
悪の表示体である非原理的エバ、堕落エバのレアを自然屈服して、
堕落と関係のない状態に復帰され、創造本然のエバから真の母が現れる。
真の父と真の母が現れれば、神が現れる。
神の日が制定される。
誤解を恐れず言うならば原罪とはキリスト教的表現である。
原理的には条件によってアダムやエバが、神の所有(支配)になるか、サタンの所有(支配)になるか決定する。
父子関係が成立する。
人類始祖の堕落は、如何なる結婚を何時、誰と、どのような動機で、どのような経路でなされたかという条件に関わってくる。
反対に、堕落と関係のない状態に復帰するためには、堕落の時と逆の経路でなされると教えられてきた。
タマルや血統転換の基本的な内容を押さえていれば、
佳約問答(仮称)だけの「佳約式」では、原罪の精算式でないことは明らかである。
結婚と言うよりは婚約ということで当たらずしも遠からずではないかと思われる。
韓鶴子オモニに聖酒式があったかどうかは実に重要である。
確かに無原罪独生女神学にとどめを刺すことにもなろう。
韓鶴子オモニがお父様と誰かの子であるという説も自然消滅することだろう。
反対に聖酒式がなかったとしたら、何らかの別の説明が必要になる。
第一次的には以下のようであることが望ましいが、
それが難しい場合には聖酒式は重要になってくると思われる。
『イエスはアダムの代わりですね。アダムにかたどって創造したのがエバであるので、イエスにかたどったエバを創造しなければなりません。イエスが生まれたならば、エバも創造原理通りに復帰し、再創造しなければなりません。(中略)それ故、洗礼ヨハネの妹や親戚関係の八親等内に娘がいたならば、洗礼ヨハネの母とマリア、そして姉がいたならば、その姉と三人が一つとなって、イエスより年が若いその親戚の娘と因縁を結ばなければなりませんでした。イエスと共に一人の女性を再創造しなければならなかったのです。(中略)イエスの相対は他のところから取ることができません。自分の直系の従兄弟の妹、従兄弟の姉妹からしかありません。血統が異なっていてはいけないのです。このように従姉妹を通して事が良く運んでいたならば、どのようになっていたでしょうか。(中略)もっと詳細に話をしてあげたいのですが、時間がありません。「原理」にはそういう内容がないですね。「原理」はイエス様まで説明しているために、イエス以後、先生に関することを皆さんは知りません。それ故に、皆さんはこれから本当の勉強が残っているのです。まだ私が教えてあげていないのです。』
(根本復帰 1971年1月10日韓国・江陵教会(聖日礼拝))
何れにせよ、神は時を見てわれわれにひつような知識なら与えてくださることだろう。
佳約式の問答も重要だが、無原罪独生女神学の誤謬を指摘するには、
聖酒式の有り無しの方が重要だと思われる。
もしかして、聖酒式もされたことを私が聞き逃がしていたとすれば
私の落ち度なので謝罪しお許し願いたい。
いずれこの件ははっきりすることだろう。
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