原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

亨進様が語る「天国にも悪が存在する」という意味は、天国にも既存の悪という実体が存在するということではない

(2) 善 と 悪
 主体と対象が愛と美を良く授け、良く受けて合性一体化して神の第三対象となり、四位基台を造成して、神の創造目的を成就する行為とか、その行為の結果を善といい、サタンを中心として四位基台を造成して、神の創造目的に反する目的のための行為をなすこと、または、その行為の結果を悪というのである。
 例を挙げれば、神を中心として心と体が、主体と対象の立場において、愛と美を良く授け良く受けて合性一体化し、個人的な四位基台を造成して、創造目的を完成した個性体となり、神の第一祝福を完成するようになるとき、その個性体、または、そのような個性体をつくるための行為を善という。そして、神を中心としてアダムとエバが、主体と対象の立場において、愛と美を良く授け良く受けて夫婦となり、子女を生み殖やして家庭的な四位基台を造成して、創造目的を完成した家庭をつくり、神の第二祝福を完成するようになるとき、その家庭、または、そのような家庭をつくるための行為を善という。また、個性を完成した人間が、ある事物を第二の自我として、その対象の立場に立たしめ、それと合性一体化して神の第三対象をつくり、主管的な四位基台を造成して神の第三祝福を完成するようになるとき、その事物とか、または、その事物をつくるための行為を善という。サタンを中心として四位基台を造成することによって上記のような神の三大祝福に反対の目的を成し遂げる行為、または、その行為の結果を悪というのである。

原理講論 創造原理

 

善なのか?悪なのか?は初めから実体として存在するのではありません。

亨進様が「天国にも悪が存在する」というようなことを話されたことを受けて、

そうなのか、天国なのに悪も存在するのかと思う人がいるかと思います。

家庭連合の心無い人たちはそのように亨進様の言葉から思うかもしれません。

 

そうではありません。

善悪は実体として初めから存在するものではありません。

原理講論では、善と悪はその目的性が180度違うということを語っています。

目的性が正反対だというのです。

そもそも善か悪かは未決定なのです。

人間には未完成期間があります。

 

だからエバは善悪知る木でした。

エバは善を知ることも悪を知ることもあり得ると言いました。

悪は既存の実体としてではなく、可能性として存在するのだというのです。

「天国にも悪が存在する」とは、人間に5%という責任分担がある限り

善と悪とを決定するのは、人間の責任分担です。

自由と責任とはそういうことです。

 

これを家庭連合が言う批判のように誤って解釈する食口がいると、

その人にそこからサタンが相対基準を造成して引っ張っていこうとするのです。

善神の業、悪神の業とは、信仰生活のそのことを言っています。

サタンはみ言葉を使い巧妙に心理戦で我々を揺さぶり自分の主張に同意させて所有権を主張します。

騙されてはなりません。

 

お父様が罪の影さえもない世界をつくると言われているのは、この5%を死守する伝統の世界です。

つまりすべての人が神の祝福を受けても、創世記のときほどではないが、堕落する可能性は存在するということです。

 

亨進様や国進様のみ言葉で、我々ははっきりと理解することが出来るようになりました。

 

 :33)シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。 :34)するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が泣くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。 :35)そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。 :36)そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。 :37)あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。 :38)弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。 :39)イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。 :40)いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。 :41)そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、 :42)「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。 :43)そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。 :44)イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。 :45)祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって :46)言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。 :47)イエスがまだそう言っておられるうちに、そこに群衆が現れ、十二弟子のひとりでユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようとして近づいてきた。 :48)そこでイエスは言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。 :49)イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、「主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか」と言って、 :50)そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。 :51)イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった。

ルカによる福音書 22章

 

弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。

 

不当な理由で危害を加えようとする者たちから身を守るために、剣を持つことは生命維持の観点から正しいということですが、

 

「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった。

 

エス様が制止されたのは、その時点では地上天国を建設するみ旨はイスラエルが受け入れなかったので流れ去り、十字架の道がただ残されていたからです。

 

 :49)彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。 :50)しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々は進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。 :51)すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。 :52)そこで、エスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。 :53)それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。 :54)しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。 :55)そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。 :56)しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。 

マタイによる福音書 26章

 

エスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。

 

悪なる目的で剣をとる者はみな、剣で滅びるという意味でした。

 

しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。

 

み旨が十字架に変更になった以上、イエス様を刀で守ることは逆にみ旨に逆らうことになってしまいます。

そこでイエス様は剣を収めさせました。

 

剣や銃の所有は、禁酒法時代の酒を連想させます。

禁酒法時代のアメリカでは、悪党たちが酒を密造したり密輸したりして利権を握りました。それで稼いだお金は悪の王国を作る軍資金になりました。

国民から平和のためという名目で武器を取り上げた結果、独裁者が誕生しました。

 

自由と責任による主管をすることが出来る人が天一国主人です。

猛獣がいようがサソリがいようがワニがいようが主管できなければなりません。

同様に、銃があろうが麻薬があろうがタバコがあろうが酒があろうが主管できなければなりません。

麻薬は医療現場で麻酔につかわれています。

 

オーナーシップとは平たく言えば自立のことです。

独立といったほうがふさわしいかもしれません。

主人意識をもたなければ、万物の主管主にはなれません。

 

人類始祖アダムとエバが堕落する以前も、悪は存在しなかったが、悪が存在するようになる可能性はあった。

未完成期間が存在した。

そこで、善悪知るの木と言われた。

天一国ができてからも、そのことには変わりがない。

そこには未完成の人々も大勢住んでいるからです。

 

お父様は、罪や悪や堕落の影のない世界を建設するために最前線に立っておられます。

たとえ、人間に自由と責任が与えられ悪に陥る可能性があるとしても、まったく善のみにしか相対できず、善のみしか知りようがない世界をお父様は創ろうとされています。

悪の要素には微塵も相対することができません。

 

天国にも悪が存在するというのは、この意味でしかあり得ません。

千年後にサタンが再び暴れだすというのなら、

我々がそのような事態が決して起こらないような5%を尽くすべきです。

預言の成就は、人間の5%が決するからです。

 

韓民族は白衣の民族です。

黙示録の聖徒も白衣です。

何故でしょう?

 

正午定着を奪われてはなりません。

 

ダンベリーを出る神山氏にお父様は新しい靴を与えました。

新しい靴を履いたものが、汚れた靴を懐かしむ必要はありません。

簡単なことです。

 

お父様から実際に新しい靴を与えられずに、心に新しい靴を受け取る者は幸いである。

彼らは、天一国主人と呼ばれ、天一国の中心家庭となるだろう。

アージュ

 

 

 


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