原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

「摂理的同時性からみた危機的状況とその対策」 の動画を見て

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実は個人的には同時性が好きではない。

人類救済の歴史がそのまま神の履歴書であるとすれば、

一般に我々人間の履歴書が能力と実績の証である事に比べると

中心人物たちがもたらしたものは、失敗だらけの無能と無実績の連続であり、

それはとりもなおさず神が嘲られる原因となってきたからである。

彼らの敗北は彼らの敗北の前に、神のサタンに対する敗北でしかない。

同時性は神の忌々しい苦痛でしかない。

 

動画を見て相対者を迎えに車で行ったのだが、帰ってくると疲労が経験したことがないほど極端に酷かった。

一体どうしたものかと思い不思議であったが、そのまま休んでしまっていた。

翌日になって動画の内容を思い起こしてみると、通常講義の後は復活するのに、空しさだけがこみ上げてきた。

もしかしたら、昨日の疲労は動画を見たためかも知れない、他に思い当たる節はないからである。

講義の後は復活があるものだが、何か重苦しいものに押しつぶされているような、

疲労感と陰鬱が私を包んでいるかのようであった。

 

同じ関心の対象であっても、人が違うとこんなにもアプローチの仕方が違うものだ、兄弟は有り難いものである。

ヤコブの家庭に対して、私は主に血統と心情の相続に関心を持って、それを焦点として思いを巡らせてきたが、講師の方は同時性の数理性やパターンの繰り返しに着目して考察されてきたようである。

大変すぐれたご研究である。感謝したい。

特にお父様と亨進様の特定年齢や年齢格差が、ヤコブとヨセフのそれと対応して

亨進様の歩みとヨセフの歩みの類似性を示されたことは興味深かった。

ただ、私の素朴なイメージでは、ヨセフが総理大臣になったように、韓国の大統領になると、一番期待されていたのは顕進様であったので、郭氏のカナン偵察を経て、45年当時の摂理の失敗の恨みを果たすはずではなかったのかということが、想起されて一瞬戸惑うことも事実である。

顕進様のこの辺りの話しも説明された上で、亨進様の同時性を話された方が説得力があったように思われる。

 

 せっかくだから、いきなり考えてみよう。

例えば、亨進様が受けた式典の「王」は霊的王、すなわち法王のようなもので、それを王の王と見なせばどうであろうか?

国家の三要素である、主権と国民と国土が満たされていないからである。

それに対して、顕進様に願われていたことは、地上の実質的な王であったように思われる。

キリスト教理想を聖アウグスチヌス「神国論」をもって著述したが、お父様天一国」理想が提唱されたことを思えば、

「統一王国時代とキリスト王国時代」参考になるのかも知れない

是非御意見を伺いたいところである。

 

法王と国王が一体となったところにメシアが降臨することが天の願いであったとすれば、

メシアであるお父様を中心としてみた場合、法王の役割を持つ亨進様国王の役割の顕進様一体となって、真の父母を降臨させなければならないと思われる。

 

統一王国→キリスト王国→天一

 

イスラエル民族が、エジプトから解放されてのちのモーセの幕屋理想は、統一王国に至って初めて、国王を中心とする神殿理想として現れ、王国をつくったのであるが、これは、将来イエスが、実体神殿として来られて王の王となられ、王国を建設するということに対応する形象的路程であった(イザヤ九・6)。それと同じく、キリスト王国時代においても、キリスト教信徒たちが、ローマ帝国から解放されたとき、聖アウグスチヌスによって、そのキリスト教理想として著述されたところの「神国論」が、このときに至って、チャールズ大帝によるキリスト王国(チャールズ大帝のときからのフランク王国)として現れたのであるが、これは、将来イエスが王の王として再臨せられ、王国を建設するということに対応する形象的路程であったのである。

 

それゆえに、この時代には、国王と法王とが神のみ旨を中心として完全に一つになり、キリスト教理想を実現することにより、イエス以後、「メシヤのための霊的基台」の上で、法王を中心としてつくってきた国土のない霊的王国と、国王を中心とした実体的な王国とが、キリスト教理想を中心として一つとならなければならなかったのである

 

 

もし、当時、そのようになったならば、宗教と政治と経済とは相一致して、「再臨されるメシヤのための基台」をつくり得たはずであった。

 

宗教→亨進様

政治→顕進様

経済→国進様

 

統一王国時代において、「信仰基台」を復帰する中心人物は、預言者を通じて示される神のみ言を実現していく役割をもった国王であった。預言者や、祭司長は、神のみ言を代理する者であるから、その時代におけるアベルの立場に立つようになる。しかし、復帰摂理路程において、彼は、あくまでも霊界を代理して、天使長の立場から実体の世界を復帰していかなければならないので、国王が立ち得る霊的な基台を準備し、王を祝福して立たせたのちには、彼の前でカインの立場に立たなければならないのである。

 

そこで亨進様と顕進様の関係

 

したがって、国王は、預言者を通じて下されるみ言によって国家を統治しなければならないのであり、また、預言者は、一人の国民の立場で国王に従わなければならないのである。

 

代身者・相続者である亨進様を預言者にそのまま適用することには詳細の検討がいることだろうが、少なくともこの辺りの原理講論の記述には、お二人が協力して天一国を創建すべきである暗示に満ちている。

 

また、馬鹿げた信徒によるどちらが優秀であるというような類の不毛な論争に終止符を打つことができる。

亨進様が顕進様になることはできない。

反対に顕進様も亨進様になることもできない。

誰しも人は自分以外の人間にはなれないものである。

天よりギフトとして与えられた持ち味を用い所に活かすべきである。

 

ある意味でお二人の関係は、イエス様と洗礼ヨハネの関係に似ている。

イエス様と洗礼ヨハネは同じ父を持つが、母はそれぞれマリアとエリサベツであった。

洗礼ヨハネが兄であり、イエス様が弟である兄弟である。

亨進様と顕進様は父と母共に同じである。

そこですべて対応するとは見ることができないが、

やはり何らかの示唆が存在すると思われる。

顕進様の仕事は多くの人が感心し評価されている。

問題はその業績を如何にして天に捧げるかである。

献祭の供え物が神に取られるためには、中心人物を通さなければならない。

多くの慕い集まった者たちは、如何にして神に繋がるのであろうか?

中心人物を避けて通ることができない。

さもなくば、この世の人たちの業績と等しく天は扱われることであろう。

それはあってはならないことである。

顕進様が霊的悪の勢力の妨害を超克して、偉大な勝利を為されることを

期待して止まない。

 

アベルの側近である子女様が団結しなければ、

その空白地帯にカインの側近が埋められ

暴虐は果てしなく続いて行かざるを得ない。

イエス様は何故十字架の道に行かれたのか?

洗礼ヨハネの力を得ることができなかったためである。

それゆえ、洗礼ヨハネがイエス様と一体化することに勝利していれば

イエス様が洗礼ヨハネを筆頭にして氏族の中から12弟子を選び、

神の祝福が祭司の相続によって、ザカリアからヨセフに移され、その事によってユダヤがイエス様の元に跪く日を迎えるためであった。

 

このような天宙的な問題の克服の為に立っておられるのが、

亨進様であり、顕進様ということになることだろう。

 

12弟子から12子女への円滑な移行が果たされなかったため、

側近は父の心情に遠い者たちによって埋め尽くされてしまった。

神が運行することのできる善の基台が確立され、

サタンの活動基盤を粉砕しない限り、

次々にサタンに心を売るものが、神の主権の確立を妨害して

権力とそれに付随する地位や財産に目が眩んで、

宮中に跋扈することだろう。

 

さて、黙示録については、学生時代その解釈の苦の講義に参加したかったが、残念ながら機会を得ることがなかった。参加したもののノートも拝見できなかった。

そこで、よく分からないが、ただそこに書いてある事柄は実際の歴史やお父様の歩みに、既にある時点までの事績として終了していると聞いてきた。

どなたか事情に詳しい方がヨハネの黙示録の詳細を明らかにして下さると有り難い。

本当に聖和のあたりまで預言の範囲があるかは疑問の残るところである。

しかしながら、精誠を尽くされて研究されたことには大変価値があるので、図表などを駆使して、もう少し分かりやすくまとめて頂き、書籍化などされるとよろしいかと思われる。

 

ざっとではあるが、感想を述べてきたが

あらためて、自分の無意識下に、亨進様と顕進様が神とお父様を支えられて

御旨に協力される姿を強烈に願望していることを知った次第である。

 

 

したがって、顕進国王は、亨進様を通じて下されるみ言によって国家を統治しなければならないのであり、また、亨進様は、一人の国民の立場で顕進国王に従わなければならないのである。

 

美しき兄弟愛の大輪が神に供えられんことを!

アージュ