独立系の私には特に直接的な関係があるわけではないが、せっかく読ませていただいたのでいくらか感想を書くことにした。
どうもこの「成約時代の摂理的同時性」がどのような目的があって書かれているのか、
あまり読んでも判然としない。
先ず表紙の題に目が止まった。
韓氏オモニと祝福家庭の不信仰が
再臨主の十字架(聖和)を招いた!
これが副題である。
もし韓氏オモニや天の父母様聖会を批判する意図のつもりなら
これはサタンに人情や良心をうまく利用されてサタンに口実を与える文言に誘導されてしまったと言える。
二代王は常々韓氏オモニの犯罪は天宙的犯罪だと明言してこられた。
犯罪の主犯が韓鶴子であり、責任の所在も韓鶴子にあると明確に表現されてきた。
ところがこのような副題だと中に書かれた内容が素晴らしいものであったとしても
韓氏オモニの犯罪を追求しても逃げられてしまうのである。
責任は韓氏オモニにあるばかりか、天の父母様聖会の信徒や聖殿の信徒、すなわち
家庭連合時代の祝福家庭に責任があるとしたため、
結果として全員の責任であり、実質的には誰の責任でもないことになってしまうのである。
したがってこのように労力を尽くして仕上げた作品だが、
天の父母様聖会にとっては痛くもかいくもないものになってしまったのである。
それに比べると澤田さんは実に素晴らしい戦いをしておられる。
何年も前には頭にはタツノオトシゴのマークの海洋摂理を表示して戦っていたが、
今回見ればちゃんと鉄の杖の王国のマークに変わっている。
大変気持がいい。
私見では各団体の境界を超えて「韓鶴子独生女神学」の間違いを糾弾し、協力して冊子を作ったほうが断然価値があると考える。
人情や良心をサタンによって心理的に操作された結果がこの副題であった。
最初から間違っているのがこの成約時代の摂理的同時性であった。
いちいち批判するのは難儀なのでいくつかを取り上げたいと思う。
同時性のどこが間違っているのか?
中村さんの同時性ではイエス様から現代に至る2000年スパンの歴史の蕩減を
1/10に圧縮して展開したのがお父様の路程と3代王権の摂理と見ている。
果たしてこれは可能か?
もしこれが言えるならイエス様の路程もそれ以前の2000年を1/10に圧縮して歩まれたと見なければならないだろう。
一体これをどう説明するのか?
三大王権に最も関係がありそうなできごとを同時性に探せば、
サウル・ダビデ・ソロモンの120年がある。
これは中村さんの同時性では12年のところに当たるが、
二代王や信俊様を組み込むのはかなり無理があると思われる。
2004年5月10日(陰暦3.22)にお生まれになっている。
さて、2012年までに信俊様はソロモンのように王位についていない。
またこの期間ヤコブのように御旨の中心人物でもない。
かなりの違いがある。
中村説では2008年くらいから2012年までが信俊様中心の期間でなければならない。
2000年〜2004年が萬王の王真の父の時代
2004年〜2008年が二代王亨進様の時代
2008年〜2012年が三代王信俊様の時代
そのようにはなっていないのである。
中村さんの同時性では、
前半の40年(400年)、40年(400年)、12年(120年)は
1/10に圧縮されているのに、後半は、
4年(400年)、2年(210年)、4年(400年)というように、
1/100に圧縮されていて統一されていずダブルスタンダードになっている。
お父様の聖和の恩恵ということらしい。
お父様は400年を40年に圧縮した蕩減期間は話されても、
1/100に圧縮した12年や2年や4年の圧縮された蕩減期間の話をされたことはなく、
1/10に圧縮した12年や2年や4年の話すらない。
このような数理性は机上の空論と言ってよかろう。
お父様が聖和されて以降何故1/100に圧縮できるのか全く意味不明だ。
王様は繰り返し韓鶴子が天宙的堕落を犯したと言っているのに何故そんなに圧縮できるのか?
原理講論には1/10に摂理が圧縮されるという記述はある。
ご存知のように、十分の一税の意味する1/10は全体を表すからだ。
では1/100も全体を表す原理があるだろうか?
これは進化論と同様に一つの仮説としてしか成り立ち得ない。
そもそも何故2000年の蕩減期間をまたしなければいけないのか?
終わったから再臨主が誕生したのではなかったのか?
ではお父様が聖和されなかったら、1/100ではなく、
たとえば1/10に圧縮されたと主張するのだろうか?
お父様が生きておられれば後半は4年ではなく40年、2年ではなく21年、4年ではなく40年になるというのだろうか?
その場合には、天地王権分立時代は40年ということだ。
分立が40年も続くことになるのでは?
真の母捕虜・帰還時代は21年にもなる。
三大王権完成準備時代も40年だ。
信俊様は100歳を超えて同時性は完結する。
このような理論では独生女神学の詭弁とさして変わることがないのではないか?
甚だ疑問である。
「キリスト王国時代」 : 神様 ⇒修道院’・法王 ⇒ 国王 ⇒ 国民
「天宙平和統一王国時代」 :真の父 ⇒ 真の母 ⇒ 真の子女 ⇒ 祝福家庭
ここでは前時代である統一王国時代から見ていこう。
統一王国時代の祭司長はキリスト王国時代の法王に’対応する。
統一王国時代の国王はキリスト王国時代の国王に対応する。
つまり、三者の役割が鼎立する時代であった。
中村さんの同時性ではこの三者鼎立が消失する。
預言者の役割の修道院と祭司長の役割の法王の二役を真の母が統括する形を提示している。
まったく同時性になっていないのである。
真の母が預言者であり祭司長だ、修道院であり法王だという主張である。
あまりにも荒唐無稽な同時性と言わざるを得ない。
法王はキリストの代理者(代身者)であった。ペテロにイエス様が天国の鍵をお与えになって始まったからである。
法王とは主の花嫁ではない。
キリストの代理者である。
二代王が再臨主の花嫁ではなく、
代理者であるのと同じである。
また法王の捕虜・帰還に比べて康オモニを持ち出しているが、
法王の場合は既に法王職にあった者が捕虜となり、また帰還したのに対して、
康オモニの場合はまだ真の母になる前のことであり、これを類似していると言うには無理があると思われる。
二代王の歩みをフランシスコと比べてどうするというのか?
レベルの低い人と比べてどうするのか?
旧約を引き継ぐため洗礼ヨハネからバプテスマをイエスは受けた。
新約を引き継ぐためお父様の前に金百文がいた。
二代王がクリスチャンから聖霊を受けたことがそれらと何の関わりがあるのか?
大したことではないと思われる。
「三人の真の子女様の対立」というが、
亨進様と国進様は一度も対立したことがない。
フランクの孫たちの対立をお二人にどう当てはめるのか?
馬鹿げている。
むしろ現状は、韓氏オモニVS顕進様VS亨神様・国進様の対立という構図ではなかったか?
「ローマ法王と真の母は、西ローマ帝国滅亡と「神の日」宣布以降、それぞれメシヤの新婦圏を代表する立場に立つようになりました。」P54
カトリックの神父たち男性までもが主の花嫁と考えることが誤りで同性愛の巣窟にカトリックは堕落していったのであり、そんなものと真の母は全く関係がない。
十字架の聖ヨハネの詩を読めばわかる。
完全にキリストに対して女そのものになってしまっている。
バカ丸出しだ。
彼が主張する対応関係では、法王と真の母が対応するという。
信徒がすべて主の花嫁だからだそうだ。
法王は主の花嫁という女性格だとすれば 、
法王が神の御言葉を語るように韓鶴子も語れるということになりはしまいか。
天の父母様聖会を擁護するような考えだと思う。
ジェンダーフリーの部類の考えだ。
彼の主張を受け入れるなら、
統一王国時代の預言者や祭司長はどこに女性的なものがあるというのだろうか?
統一王国時代には当てはまらない同時性とは一体何なのか?
ここはお父様が語られているように、
1945年から7年の摂理で迎える状態を7年間でなしたというように、
45年当時とミレニアムを迎える対比で語られているのだから、
素直にそのように受け入れて勝手で余計なことに関連付ける必要は一切ない。
法王と国王の関係はアベルカインであり、これが逆転するというのだから、
真の母と子女様の関係性は当然アベルカインでなければならない。
しかし、母と子にアベルカインを適用することはできない。
見かけの現象の姿の類似性を求めすぎて
本質的な同時性とは何かを見失っている。
サメのジョーズとイルカのフリッパーを見たら
なんだか似ているから両者ともお魚かと思うようなもので
本質的には魚と哺乳類の動物くらいの違いが見いだせなかったのだろう。
中村さんのこの本はわれわれにまだあまり知られていない重要な御言葉を教えてくれる貴重な研究であると同時に、異端や分派というものがどのように発生するかという研究の一級資料になるだろう。
中村さんは非常に類稀な才能の持ち主だが、どうも本来の能力を発揮するには
何らかの引っかかっている蕩減を埋め合わせる必要があるかに見える。
神の期待に応える日が来ることを祈りたい。
2000年、あるいは6000年でもいいが、
これを蕩減復帰したのは縦横の8段階と考えたほうが良いと思われる。
成約時代の同時性をさっと眺めて、「おやっ?」と思ったこと - 原理講論を読む