原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

顕進様と韓鶴子オモニの使う「真の父母様」の危うさ

一般の信徒にとっては、「真の父母」という言葉は、メシアやキリストや再臨主よりも上位の概念である。

平たくいえば、こちらの言葉のほうが重みがある。

イエス・キリストは十字架の道を行き、家庭的四位基台を完成することができなかった。

神の王朝を地上の隅々までも広げていくべきだったアダムが堕落してしまい、

そのみ旨はイエス様に託された。

ところが2000年前の摂理もサタンによって妨害されて頓挫してしまった。

これを御聖婚をもって成就の道を歩まれた真の父母様であられた。

 

だが、一般の、特に西欧の人々にとって見れば、真の父母という概念は、キリスト教思想の中に見られるものではないので、統一信徒とは違った受け止め方とならざるをえない。

すなわち彼らにとっては、よく理解されていない「真の父母」という言葉よりも、「メシア」「キリスト」「再臨主」というようなキリスト教に馴染みのある言葉のほうが、ずっと大きな重みを持つ言葉であることは想像に難くない。

すると、我々が彼らに向かってお父様を紹介するときには、「メシア」だとか「キリスト」だとか「再臨主」であるとかいう表現を使ったほうが、彼らにとってはインパクトがあるのである。

このことは同様にそのことを伝える側にもある種の確信と言うか覚悟と言うか、そういう心情が現われていると考えることができる。

覚悟、覚悟、覚悟。

 

ところで私は顕進様がアメリカでインタビューされたときにお父様をどのように証されるか楽しみに見ていたが、期待はすっかり裏切られてしまった。

お父様を上記の3つの言葉で証かすことはなされなかった。

おやっ?メシア観が?

その時感じた不安はずっと続くことになった。

神観・罪観・メシア観は我が組織の信仰の基本中の基本だったからである。

 

時は流れ、顕進様は「コリアン・ドリーム」という本を出版され、韓国で公演をされた。

その時もマスコミから取材を受けてインタビューに答えていた。

私はその後顕進様がどのように変わられたかを確認しようと、言葉を辿った。

全く何も変わらなかった。

彼は、お父様をメシア、キリスト、再臨主という表現で証すことはなかった。

私はたいへんその語られた言葉の違和感に失望した。

顕進様にとっては、お父様は神から遣わされた絶対者ではなかったのである。

 

顕進様にとってお父様は偉大な宗教家でしかなかっのでした。

幹部の人々は、実際に顕進様がお父様に反抗している姿を度々見てきたといいます。

メシアに従わないのが、顕進様の特徴です。

 

お父様をメシアと認めキリストと認め再臨主として認め表現してしまえば、

ご自分は反逆者になってしまいます。

決定的です。

だが、ある宗教団体のリーダーの呼称である「真の父母」であれば

自分の罪を隠すことができ、自分の責任から逃げることができます。

そこで彼はお父様を、亨進様や国進様のように、3つの言葉では表現されません。

その言葉を使えば苦しくなります。

神の人に従わず反逆した罪を自分自身に責めることになります。

自分の過ちを直視しなければなりません。

ですが顕進様は偉大な勝利の悔い改めをなさらなければなりません。

 

顕進様にとっても、欧米諸国の人々のように、

「真の父母様」という言葉は、「メシア」「キリスト」「再臨主」という言葉ほど重い意味を持った言葉ではないのです。

それが問題だというのです。

 

韓鶴子オモニは、お父様の聖和以降、ご自分のことを「真の母」とは言わなくなりました。

オモニは自分のことを「真の父母」というようになりました。

アボジはご自分のことを「真の父母様」と言うことがしょっちゅうありました。

アボジが主体なので、父母を代表しているのでそのように使いました。

 

オモニはこれを「真の母」という意味で使ってきました。

「真の母父様」という意味で使っています

私こそが究極のメシアだというのです。

 

基元節には、アボジの王冠も権能の杖も用意されませんでした。

紛失したですと?

もし紛失して見当たらないとしたら

女性の皆さんどうしますか?

私なら自分には使わず

お父様のお席に王冠も杖も捧げることでしょう。

この世の女性でもまともな方なら100%そのようにされることでしょう。

だが、オモニにはこれができませんでした。

 

オモニにとって「真の父母様」とは「真の母」が代表しています。

同じ言葉であるにもかかわらず、正反対の言葉として使われているというのです。

オモニが語ることはといえば「真の父母に従いなさい」しかありません。

オモニに従えというのです。

 

エス様が地上にいようが、天上に行かれようが

キリスト教徒にとって主は常にイエス様です。

聖霊はイエス様を証しするものです。

オモニは御乱心です。

ご自分しか証されなくなりました。

王冠や権能の杖はご自分のためにあると心底信じているからです。

 

家庭連合に、もはやかっての正しい意味における「真の父母様」は死に絶えました。

天照大神オモニ教団に変質しました。

 

オモニの主客転倒は天宙の秩序を破壊し、レズビアンや同性愛が急速に広がる条件をサタンに奪われました。

顕進様は追い出されたのではなく、自ら盗賊になって逃げていったのです。

亨進様や国進様はそのことを咎めました。

顕進様はいかなる立場でしょうか?

先日は、ヤコブエサウとのみ言葉によって

アベル・カインの観点からお話しました。

今日はアブラハムの家庭三代と比較してみましょう。

 

アブラハムーイサクーヤコブ

       |

       イシマエル

 

  アボジー亨進様ー信俊様

       |

      顕進様

 

アブラハムが家庭的四位基台を造れなかったことを

真の家庭は蕩減復帰する使命がありました。

 

顕進様はイシマエルと対応していると考えられます。

したがって、顕進様が勢力を拡大すると、それに比例してイスラム勢力を拡大するようになるでしょう。

 

オモニはレズビアンやホモを増大し

顕進様はイスラムを拡大します。

信俊様は12氏族を再編成します。

 

 

わたしがときおりオモニや顕進様を取り上げるのは

彼らが中心人物ではないということが重要であると伝えたいからです。

中心人物にしか摂理の動向は、はっきりとはわかりません。

ですから我々は中心人物に繋がらなければなりません。

 

お父様が地上におられるときに、ずっと従わなかった人が

後継者として中心人物になることはありません。

今年は家庭連合崩壊の年になります。

信徒はオモニ独生女教の道をゆくか、

三男のこの世的な運動に加わるか、

亨進様とともに行くか。

いずれかの選択を迫られることでしょう。

 

地上に居る自分以外の3人の兄弟に

一人でも顕進様を尊敬する兄弟はいません。

もしいたら行動を共にしているというのです。

一人もいないのです。

顕進様は、アベルでも長子でもありません。

勝利できなかったのです。

原理はそのように語っているというのです。

 

それでも、万民を前にして、第二代王亨進様の前に悔い改めるなら

顕進様は男の中の男でしょう。

私はそう思います。

 

 


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