「本然世界に展開する真の父母様本体論」をざっと読んで
菅井さんの本は永らく「本体論」とは何かという問いを強く意識して、原理講論や統一思想やお父様のみ言に関係の深いものに注目して、収集し分析し一問一答をお父様に投げかけながらこのような本にまとめたものだと思う。
それゆえ、ややもすれば通過してしまうかもしれないお父様のみ言に目を留まらせ、み言の深さをあらためて実感せずにはいられないという感慨がこみあげてくる。
ただ、「本体」とは神自体のことなのだから、まず神の定義はどうあるべきだったのかという結論を提示してもらいたかった。その点が一番消化不良を起こし残念なところである。
また、本というものはそれを書くことを本職にしている人たちでも、どのような構成にまとめ上げればよいかとか、それにはこの順番だとか、重複はないかとか、この辺が欠けているので書き加えた方がいいとか、編集者との共同作業でより良いものに仕上げられていくものだと思う。彼にもそのような人が現れるといい。
菅井さんや浦川さんの文章に共通するのは、どこからどこまでがみ言であり、どこからどこまでが本人の考えを述べたものかが、いささか判然とせず一見してわかりずらいところだ。
み言という客観的事実と自身の主観的判断との線引きが、読者に分かりやすくする必要が多分にあると思う。
菅井さんの文章内容は別に新しい説明を用いなくても原理講論や統一思想の用語や説明で既に十分説明されてきたものであり、特にオリジナルなものを感じることは殆どない。
み言の「神の性禀と二性」(本体)は統一思想で言う「神性と神相」(原相)に対応すると見ることができる。
お父様は原理講論の神の定義にある「中和的主体」という表現に違和感を持たれて憤慨されたことは私の記憶に強い痕跡を残してきた。
皆さん、創造原理で統一教会の食口たちがいつも原理講義する時、神は、二性性相の主体として格位においては中和的存在になっていると簡単に語るでしょう? 中和的主体になっている。それ、何ですか?それは何の話ですか?それ、間抜けです。
1989年10月3日 世界統一開天国の関鍵が何なのか
原理講論での神の定義を振り返ると、神の本質は何かというような表現ではなく、
神を構造的に説明している。
統一思想的に言えば神相的表現であり、神性的表現ではない。
私はこの点をお父様は問題視しておられたのだと思う。
本体である原相が神性と神相からなるならば、神の定義もそのように構造的な神相的表現だけではなく、むしろ本質的な神性的な表現を主体として表さなければならないはずである。
そう考えると、例えば神の定義に何らかの工夫を与える必要が生じると思われる。
何故、菅井さんはこの本でその本質的な問題にチャレンジしなかったのだろう。
「神は本性相と本形状の二性性相の絶対愛による統一主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の絶対性による統一主体としておられ、神性と神相の相似的存在である人間に対しては、心情的な父性を代表とする真の父母であり、同様に相似的な被造世界に対しては、絶対愛主権を持つ創造主である。」
以上の定義が適切かどうかはともかく、本体論の本体については、心情の神・愛の神であることが全面に出るような定義が望ましいと思われる。お父様の「中和的」という表現に対する異議を考えるならば・・・・
菅井さんは言う。
「 しかし、歴史的フィナーレとしての「夜の神様昼の神様」が発表される前は、「神様の性稟」を見ることが出来ずに、「二性性相の神様」にだけ焦点を当てられ説明されてきたのです。この状況では、どんなに神様の心情、神様の真の愛を求めても、真の「神様の性稟」は浮かび上がってこなかったのです。」(P10)
そこで、では菅井さんは一体どのように神様の定義に神様の性稟を表現すべきだというのだろうか?と続きを読んでも、肝心なことは言わずに統一思想の引用や本人による要約またはお父様のみ言の引用とその解説が続くのみである。
問題を指摘はされてはいるが、代案を出すことを忘れ多くのページを書いている。
つまり結論の不在である。
「前段階エネルギー」の文章も統一思想で語られてきたものだ。
むしろ「前段階エネルギー」を取り上げるのであれば、前段階エネルギーと原力と万有原力の違いを説明されてはどうかと思う。
菅井さんがよく書く「前段階エネルギー」について「新版 統一思想要綱」にはP33に次のように出てくる。
本形状と科学
被造物の有形的側面の根本原因である素材的要素とは、要するに科学の対象である物質の根本原因であるが、素材的要素と科学はいかなる関係になるのであろうか。
今日の科学は、物質の根本原因は素粒子の前段階としてのエネルギー(物質的エネルギー)であり、そのエネルギーは粒子性と波動性を帯びていると見ている。しかし科学は結果の世界、現象の世界だけを研究の対象にしているために、それは究極的な第一原因ではありえない。本原相論は、その究極的原因をまさに本形状であると見るのである。したがって本形状とは、科学的に表現すればエネルギーの前段階であって、それは「前段階エネルギー」(Prior-stage Energy)、または簡単に「前エネルギー」(Pre-Energy)ということができるであろう。
菅井さんは先ずこのような統一思想での説明を紹介して、ご自分の説を語ったほうが良いと思われる。個人的には原理講論や統一思想の言葉や説明はお父様の許可を得ているものなので、できる限りこれで済む場合にはこれを使うべきだと思っている。
そしてもっと踏み込んで解説したかったのならば上記の文章に続く次のような文章を解説したほうが価値があったと思う。というのは統一思想要綱中読んでもなかなか分かりにくい部分だと感じるからである。
本形状と力
神の創造において、本形状である前エネルギーから授受作用(後述)によって、二つの力(エネルギー)が発生すると見る。その一つは「形成エネルギー」(Forming Energy)であり、他の一つは「作用エネルギー」(Acting Energy)である。
形成エネルギーは直ちに粒子化して物質的な素材となり、万物を形成するのであるが、作用エネルギーは、万物に作用して、万物相互間に授け受ける力(求心力と遠心力)を引き起こす。その力を統一思想では原力(Prime Force)と呼ぶ。そして原力が万物を通じて作用力として現れるとき、その作用力を万有原力(Universal Prime Force)と呼ぶのである。
本形状から授受作用によって形成エネルギーおよび作用エネルギーが発生するとき、愛の根源である心情が授受作用の土台となるために、発生する二つのエネルギーは単純な物理的なエネルギーではなく、物理的エネルギーと愛の力との複合物なのである。したがって原力にも万有原力にも、愛の力が含まれているのである(文先生は1974年5月の「希望の日晩餐会」での講演以後、しばしば「万有原力にも愛の力が作用する」と語っておられる。)
菅井さんの本体論を読む前に本の読者は、是非統一思想の原相論をよく読んでほしい。そうすれば既に語られてきた内容と菅井さんのオリジナリティがどこなのかがはっきりするだろう。
菅井さんの本体論は、本体とは神のことなので統一思想の原相論が本体論にあたると考え、これに脚色して書かれたのではないだろうか。
続く記述も菅井さんの本体論に関係しているところがずっと書かれているが、先の方のページにある「心情と原力」という箇所が菅井さんが意識する「前段階エネルギー」や「心情エナジー」と特に関係があると思われる。
菅井さん得意の図解で、「前段階エネルギー」「原力」「万有原力」「授受作用の力」「心情」などの違いや相互関連性を説明されてはどうだろう。
力には「構成力あるいは可能力」(エネルギー)と「作用力」(フォース)がある。
菅井さんの説明にはこの二つの力が区別されずに前者のみで説明されている傾向があり、どちらにもエネルギーが用いられているようだ。
さて、力には心情的側面があるということだが、以下の統一思想P57~58も参考になると思われるので引用したい。
心情と原力
最後に心情と原力について説明する。宇宙万物はいったん創造されたのちにも、絶えず神から一定の力を受けている。被造物はこの力を受けて個体間においても力を授受している。前者は縦的な力であり、後者は横的な力である。統一思想では前者を原力といい、後者を万有原力という。
ところでこの原力も、実は原相内の授受作用、すなわち性相と形状の授受作用によって形成された新生体である。具体的にいえば、性相内の心情の衝動力と形状内の前エネルギー(Pre-Energy)との授受作用によって形成された新しい力が原力(Prime Force)である。その力が、万物に作用して、横的な万有原力(Universal Prime Force)として現れて、万物相互間の授受作用を起こすのである。したがって万有原力は神の原力の延長なのである。
万有原力が心情の衝動力と前エネルギーによって形成された原力の延長であるということは、宇宙内の万物相互間には、物理学的な力のみならず愛の力も作用していることを意味する。したがって人間が互いに愛し合うのは、そうしても、しなくても良いというような、恣意的なものではなく、人間ならば誰でも従わなくてはならない天道なのである。
このように「心情と原力の関係」に関する理論も、また一つの現実問題の解決の基準となることが分かる。すなわち「人間は必ず他人を愛する必要があるのか」、「時によっては闘争(暴力)が必要な時もあるのではないか」、「敵を愛すべきか、打ち倒すべきか」というような現実問題に対する解答がこの理論の中にあることが分かる。
次に、その後に出てくる「自己中心的な神」というある期間の神様の姿についての文章が出てくるが、これを人間の「自己中心的性質」と神様の「自己中心的な性質」には注意すべき違いがあることに注目すべきだと私は思う。
人間の場合には、自分の他にもたくさんの人がいてその関係性の中で自己中心な様相が生じたりするが、創造以前の神様の場合には、自身の他にギリシャ神話のようにたくさんの神々がいてその関係性の中で自己中心的であったり利己的であったりしたわけではない。神の孤独についてもそうである。
神様が自己中心的であったり利己的であったりしたが、そこから大きくなって愛の神になったというのはこう考えてはどうだろうか?
創造以前の神(肉心的な神):自己完結・自己保存的という意味で自己中心・利己的
創造以後の神(生心的な神):自己超越・成長発展的という意味で為に生きる愛の神
神様の人生路程と同じように神の子である人間も、
初めは自己を十分に大切にして、その後に次第に他者を大切にする道を行く。
幼年期に自己中心的なことには意味がある。
自分を真に大切にできない人には他人を大切にすることが出来ないからである。
ここでは神の自己中心とはエゴイスティックなこととは違うことを確認したい。
さらに菅井さんがよく使う「霊界システム」だが、このみ言を引用している。
「先生が地上にいようが、霊界にいようが、そんなことは問題ではない。先生は、霊界の組織、霊界のシステム、霊界の様子を熟知している。あんた達には見えないけれど。あんた達の目の前にはもう新しい天地が開かれようとしている。先生はその時間表をはっきり知っている。必ず来る。新しい世界、新しい生活が必ず開かれる。」(1976年9月20日、ワシントン大会後ベルべディアで)
具体的にはお父様はここで説明されてはいないようだ。したがって10人いれば10人違う推測をするだろう。とはいえ、み言を手掛かりに・・・
菅井さんのように考えたい人はそう考えるだろうし、そうでない人も出てくるだろう。
だが、基本的には天地は愛の法則で成される愛の組織ではあるはずである。
したがって創造論的には積善の法則、復帰的には蕩減の法則が支配されていると思われる。
菅井さんの文章を読んでいつも不満になるのは、「愛」なら「愛」という説明が概念的であることが多く、実際行動上ではどのようなものかわかりにくいということだ。
愛とは具体的であるべきだ。頭の中にある理想の世界に存在するものではないだろう。
「聖霊」についてもよく話すが、不思議なことにブログでは福音書や使徒行伝などが引用されない。聖句の引用が実に少ない。
聖霊体験は悔い改めの体験が多いと思うが、彼はブログで何か悔い改めたことを書いただろうか?あまり記憶にない。
しかし、実に熱心に求めているのはよく伝わってくる。
それから菅井さんはほとんどが母性的な神の愛について書くのであって、父性的な神の愛について書くのを読んだことがない。
母性的な愛は5%、父性的な愛が95%だと思われる。
韓国の時代劇を見ていて学ばされるのは、母親の存在が希薄だということである。
父と息子、父と娘の関係が重要で、母と息子、母と娘の関係はさほど重要ではないかに見える。
家庭の序列では、勿論息子が母親を敬うとしても、
父ー息子ー母 というように私には見える。
菅井さんはもっと母の愛より父の愛を今後は探求すべきでは?
母親の愛は5人の子供がいれば分け隔てなく5人を生かそうとする愛。
だが、父の愛は違う。一子相伝の愛。長子さえ立てばということが優先される。
菅井さんは「夜の神」のことを語られた次のようなみ言を引用する。
「夜の中にいた神様の歴史が創造以前の歴史であることを分からなければならない。その夜の歴史の中にいた神様の歴史、創造の前の歴史・・・・神様も大きくて出たという事実が分からなければならない。暗闇の中輝いた。7色光を合わせれば黒になる。その創造以前世界の神様が分からなければならない。元々の根本が分からなければならない。」(2010年4月1日 ワシントンシェラトンホテル訓読会)
お父様が夜の神様を考え始めたのが創世記の記述だった。
:1)はじめに神は天と地とを創造された。
:2)地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
:3)神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
:4)神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
:5)神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。創世記 第1章
創造以前の神様とは「光あれ」といわれる前の神様である。
お父様は「夕となり、また朝となった。」をじっくり考えた人である。
そこから夜の神様を見出したのである。