原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

李相軒先生が韓鶴子オモニの間違いを教える 「霊界の実相と地上生活」より

 

韓鶴子オモニの主管性転倒は激しさを増しています。

もう誰にも彼女の暴走を止められません。

アボジ背信一直線です。

三大王権のブログでは王様の発言を紹介しています。

http://h2fanclub.blogspot.jp/2017/02/2017219.html より引用

 

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家庭詐欺連合もそうでした。私たちがここに最初来たとき、みんなオンラインでも戦っていて彼らは絶え間なく私を攻撃していました。ウワーっとまるで悪霊のように。それで時間がどんどんたつにつれて、彼らは論争の力を失い始めているのです。もう論争しないのです。私たちの言うことはすべて予想されていました。韓お母様自身が実際に行動し始めています。彼女は自分の信じていることを表し始めています。
 
今、彼女はもちろん文字通り組織全体を黙らせなければならない段階にあります。なぜなら数日前、430名ですか、とにかく確か今から2週間のうちに行った公式の教育があって、私たちが言っていることで彼らが否定してきたことを公式に教えているのです。つまりお父様が原罪を持って生まれ、お母様が原罪なく生れたのであり、彼女が本当に独生女でありお父様を救ったのであり、彼女がメシアなのだということです。
 
キム・ジンチュンは完全な裏切り者の大ばか者で、彼のことを私は知っていますが、清心神学校の学長でした。2006年には私はクラスも受け持っていました。内部では争いが起こっているのです。リーダーたちは「お父様も原罪なく生まれ、お母様も原罪なく生まれた、というように変えられないだろうか」と言っているのです。これは原理全体を壊してしまうのです。ですから彼らでさえ「お母様のところに行って話せ」と言い合っています。それが背後で起こっているのです。しかし一つ問題があります。彼女はそれを信じないということです。彼らも完全に身売りしたモードで行くわけにもいきません。彼らはただそのまま上に上げられているだけなのです。そしてすべてを遮断してしまおうというのです。それこそまさに圧制者が取る態度です。

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神自体の中の陽性と陰性が、愛においてではなく、格位において対等であるという意味で「中和的主体」を理解することは無謀です。ましてや対象が主体の上位概念になることはありません。韓鶴子オモニの女性紳教は統一原理の否定であり、破壊です。

そうなると創造が始まりません。

ずっと静止しているような感じになります。

中和的主体とは、中和されている状態が均一的ではなく、主体的要素と対象的要素がはっきりあるような内容を意味しています。

均一的なら静的になります。

中和的主体の神は静止し続けるのではなく、創造の運動を現象世界に展開します。

その有形実体世界でも、同様に主体と対象の区別と役割が現れます。

では、李相軒先生は主体と対象をどのように説明されているでしょうか。

霊界からのメッセージを見てみましょう。

 

 「霊界の実相と地上生活」より以下に引用

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第三章 原理から見た霊界の暮らし 

 
一、 主体と対象と霊界の法
 
(1) 主体
 
 主体が対象に向かって何か与えようとする力の作用は、人間が肉体をもっているとき、現実に現れるようになりますが、これを「原理」では万有原力と表現したところがあります。
 
 ところで、主体と対象が、互いに授け受けする授受作用の力は万有原力であり、万有原力の根本となった力の主人公が、正に神様です。神様から賦与されるその力は、主体が対象に与える力や、対象が主体に返す根源的な力として作用します。また、自ら発揮するのではなく、原因者である神様から賦与されたものとして、この力によって、私たちは存在しています。
 
 それゆえ、存在界のすべての根源的な力は、主体と対象が相対基準をなしていくとき発揮する力の作用として存在します。いかなるものでも独自的に、自ら存在するものはありません。生存ということ自体が、主体と対象間に授け受けする力としてなされるのです。それゆえ、天上においても地上においても、すべて存在するための存在の力は、主体と対象間に授け受けする過程の中で現れます。
 
 ここで霊界から見た主体と対象の力の作用を記録するなら、ここ霊界では、神様が主体になり、我々人間の霊人体は対象の立場に立つようになるとき、人間に命令されるその瞬間の神様の力が、全ての霊人たちに反映するのです。まるで、一つの影のように、一致するようになるのです。
 
 例えば、神様が、「李相軒!」と言いながら、何かを命令なされば、対象である私には、自ら命令に引かれていく本性が生じてきます。「神様、なぜそうなのですか、よく分かりません、理解ができません」などの疑問が全く生じず、ただそのまま自ら引かれていくようになります。これは、まるで磁石のN極とS極が引かれていく形態と言うべきでしょうか?
 
 霊人体の授受の回路がこのようになされいくのは、主体の力のゆえであり、対象も同じ姿で引かれていきます。これが本来の根本の授受原理、すなわち根本の力です。
 
 主体が対象に与える力や、対象が主体に返す力の中で、どちらが強いか弱いかというのが間題ではないのです。互いに同一の力を与えて受けるかということが、より根本の問題です。ここで万有原力の力を、神様から賦与されたなら、我々人間も神様から賦与された姿そのままで生きていくのが、本来のみ旨です。それゆえ、万有原力の根本となる力は、主体と対象が相対基準をなすとき、互いが同一の力によって作用してこそ、円満な授受作用になります。
 
 例えば、夫婦(主体と対象)、動物(雄と雌)、植物(雄しべと雌しべ)など、すべてが相対基準をなしていくとき、繁殖の力が生じるのですが、ここで互いに相いれなければ、力の作用は起さません。それゆえ、我々人間が存在するのに必要な力の根本となる力の主人公が、神様であられるので、神様を自分の心の中に迎えて生活しようという考えをもつようになれば、主体の力を正しく受けて、対象にも同じ力で反映するようになるのです。
 
(2) 対象
 
対象において、主体から受けようとする根本となる力を受けると同時に、返そうとする力が、自ら発光体のように起きなければなりません。これは、主体が神様から受けた根本となる力の主人公として現れるとき、対象も同じ力を受けることができるということです。それゆえ、主体と対象は、独自的に自分が先にとか、相手が先にというのではなく、同一の位置で授け受けるべきです。相対基準の高低を問うことができないのです。
 
 例えば、夫婦間において。主体と対象が互いに一つになれないときに起きる相反作用は、神様から賦与された根源的な力ではありません。これは惰性から受けたものなので、主体も対象もすべて神様から来る根源的な力を失い、レールから脱線したのと同じです。神様の主管圏内から脱するようになるのです。対象は、主体の根源的な力の作用によって反映するので、主体に向かって返そうとする本然の力から離れてはいけないのです。対象が主体に向かう力から離れようとするとき、対象は対象の力が、授受の回路をなすように、努力しなければならないのです。
 
 もう一つの例を挙げれば、夫婦は主体と対象の関係ですが、主体が誤ったとき、対象が主体の立場に立つようになります。そうすると、対象と主体の位置が変わるので、そこから本然の立場になるまでには、時間がかかるのです。ですが、対象さえ離れなければ、主体も対象も正しく立つようになります。
 
(3) 主体と対象が一つになること
 
 主体と対象が、互いによく授けよく受けてこそ、本然の存在的価値の力を発揮します。しかし、一方が誤って、主体が対象になり、対象が主体になると、本然の位置に移っていくまで 他方が正しく立たなければなりません。もしそうでなければ、神様から賦与された根原的な力は、離れてしまうか、失われてしまいます。それゆえ、主体と対象は、よく授け、よく受けるために、根本となる力の主人公である神様によく仕えることを願わなければならないのです。存在世界は、すべてが主体と対象の力によって生存しているので、主体と対象が一つにならなければ、すべてが破滅するのです。すべてが死の道に至るようになるのです。
 
 主体と対象は、ただ一つになるために努力しなければなりません。究極的な本然の力を失ったり、惰性に染まりはしないかと、いつも点検しながら、永遠の世界に向かって小川の橋を渡っていくように、一歩ずつ前進してこそ、賢明な暮らしになるのです。
 
(4) 霊界の法は原則そのまま
 
 多くの人たちは、神様の根本となる力が、万有原力の力だと思っています。しかし、この力の作用をどのように自分が所有するかは、よく考えていません。地上の人生を生きていく間、本然の力の価値をよく悟らなければなりません。本然のレールの上にいるとき、根本となる力が発揮されるのであって、レールから脱線すれば、本然の力の発光体は反映しません。レールの上を走っていくとき、そのレールをよく見ながら、行かなければなりません。ここの霊界の法は断固たるものです。許しがありません。
 
 地上では、認めてやったり、愛で大目に見たりもします。親子間であるために、どうすることもできず大目に見る場合もありますが霊界の法には、親子間でも大目に見る法がないのです。法であるからややこしいのではなく、原則そのままです
 
 愛の神様というのに、なぜ大目に見ることができないかという疑いがあるでしょうが、根源である愛の主体であられるために、大目に見るようになれば、株序が破壊されるのです。永遠の世界のために、大目に見ることができないのです。すなわち、子供を愛するためにといって、お許しにならないのです。それゆえ、我々はすべて永遠のために、瞬間をうまく整えなければなりません。
 
 このように李相軒が言うのは、これから真の御父母様が霊界を整理なさるとき、父母様を助けてさしあげようという、子女の道理を果たすためです。子女ならば、父母様に孝行し、父母様の困難を助けてさしあげる人生を生きるべきではないですか。
 
(一九九七年七月二十一日)
 
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李相軒先生も、さすがにこの当時は我々と同じく、オモニがアボジに反逆するとはお思いでななかったでしょう。
 
 
神様を自分の心の中に迎えて生活しようという考えをもつようになれば、主体の力を正しく受けて、対象にも同じ力で反映するようになるのです。
 
対象において、主体から受けようとする根本となる力を受けると同時に、返そうとする力が、自ら発光体のように起きなければなりません。
 
対象は、主体の根源的な力の作用によって反映するので、主体に向かって返そうとする本然の力から離れてはいけないのです。
 
 
存在世界は、すべてが主体と対象の力によって生存しているので、主体と対象が一つにならなければ、すべてが破滅するのです。すべてが死の道に至るようになるのです。
 
霊界の法には、親子間でも大目に見る法がないのです。法であるからややこしいのではなく、原則そのままです。
 
根源である愛の主体であられるために、大目に見るようになれば、株序が破壊されるのです。
 
 
親子であれ、夫婦であれ、霊界の法は厳然として実行されます。
オモニだからといって例外はありません。
三男だからと言って例外はありません。
石川県の牧会者が3男に賛成し扇動したとして本部預かりになったようです。
家庭教会のブログ村は三男派に占領されていますから、無理もないことでしょう。
オモニが乱心しているのでお家騒動は続くでしょう。
 
ところで、韓半島がこの半年以内で戦火に見舞われる危険性が高い時に
オモニが何も言わないので安心だとばかりじっとしているというのは
不思議な団体です。
三男もフィリピン大会です。
国際情勢音痴だと言わざるを得ないでしょう。
 
神は摂理を中心人物によって示されるのです。
原理の初歩です。
それがわからなくなりました。
家庭連合と三男派が軌道を逸脱している理由です。
 
オモニも三男も自分という思いが強すぎました。
反対に、亨進様は王でありながら自分という意識がありません。
アボジ意識に徹しています。
そこで、アボジが亨進様に降臨して語ることができるのです。
 
 


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