原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

家庭連合の教育は原理の知識教育にすぎなかった 原理による信仰的判断を養うことができなかった

 私たちが御言葉を学んできたのは、知識として吸収することではないでしょう。

お父様は「知識」ということをたいへん嫌います。

天聖経でもなんでも、御言葉を読むと知識に価値が無いことを厳しく話されています。

家庭連合では蒼々たる講師の方々がおられます。

われわれの数十倍はみ言葉に精通しておられる方々です。

頭のなかにきれいに整理されていて、いつでも正確に引き出すことができる方たちです。

それなのに、何故み言葉に誰よりも精通されている方が、天聖経の文章を削除改竄していることに、何の動きもしなかったことが不思議でなりませんでした。

御言葉を飯を食うより好きな人達です。

我々とは違います。

それなのに何故なのでしょうか?

黒い表紙の天聖経は、お父様が実際に訓読で用いてきた経典です。

その意味でも歴史的な経典です。

それを使用したことのない赤い表紙の経典に変えることを、なんとも思わないこの感覚はいったい何なのでしょう?

お父様を知らない人たちのほうが、その価値が分かるのかもしれません。

 

み言葉の「知識教育」を中心に家庭連合では教育されてきたとするなら、

本来はどのような教育に重点をおくべきだったのでしょうか?

わたしは、「信仰的判断」のための御言葉学習ではなかったかと思っています。

 

多くの兄弟が教会信徒の問題の一つを「思考停止」として指摘してきました。

我々に必要だったのは、御言葉の所有ではなく、御言葉によって信仰的判断を

生活上必要な時に獲得したいというものではなかったでしょうか?

 

人は弱いために本然の良心を外的人物にを中心に立てて従うのである。

故に恩師をもつようになる。

御旨の道 第2集 <指導者>

 

恩師を持つことも、アベルを慕うことも悪いことではありません。

だが、それが自立した信仰を確立するためのはずでしょう。

ところが、ここにも問題がないわけではありません。

神が教えることができず、自分自身で判断しなければならない

人生の分岐点があるというのです。

 

何が善であるか何が悪であるかに対しては、神様も教えてくださらない。

ときには、神が、それは正であると教えてくださったとしても、あるときはそれが否であると教えてくださる時がある。

故に、それは自分で見分けをつけなければならない。

御旨の道 第二集 <善と悪>より

 

家庭連合は韓鶴子オモニの言行を検証して、お父様と一体化しているか否かをはっきりさせるという方法よりも、お父様が語った御言葉でお母様一体論を証明しようとしてきた。

3年間の侍墓精誠と言うが、その3年間にお父様を思ってどうであったというような、心情的な証は皆無でした。

不自然極まりないことでした。

精誠の果てに、父のみ心はここにありとして、涙を見せて切実に訴えられるお母様の姿をついに見ることができなかったのです。

言葉だけが先行して、そのまま終わったような感じです。

4年間に一度もお父様を代弁してお話されるということがありませんでした。

韓氏の家紋だけを用い続けるお母様に、侍墓精誠は、あり得ません。

 

信仰的判断とはなんと難しいことなのでしょうか。

「ときには、神が、それは正であると教えてくださったとしても、あるときはそれが否であると教えてくださる時がある。」

神ではなく自分が解いていく道です。

ではこのお父様が語られる抽象的な訓示の具体的な例をお父様の御言葉に見てみましょう。モーセです。

 

通常ならモーセ十戒が現れてめでたしめでたしということになりますでしょうか。

これで御言葉を失った堕落人間もやっとこさ、万物の供え物ではなく、御言葉を通して神の前に出ることができる。旧約時代の幕開けだというわけです。

ところで、こんな御言葉があります。

 

イスラエル民族がモーセの言葉を尊重せず、十二支派七十長老たちが全部自分勝手にやったので十戒を下すようになったのです。この十戒イスラエルを滅ぼすようにしたのです。それを知らなければなりません。そのために滅びたのです。そのためにイスラエルは滅びたというのです。その法を立てたので、直接指導できないのです。直接指導から離れたというのです。何のことか分かりますか? 十戒を立てたので、直接それを行えない人は神様が対することができなくなったというのです。ですからイスラエル民族は大きな被害を被ったということを知らなければなりません。神様が十戒の後ろに立つようになったというのです。十戒が垣根になったということです。垣根になったというのです。

牧会者の道 第2章 牧会者の役割 ニ、教会組織 6 お父様が支持したとおりにせよ

 

エス様を見てもお父様を見ても、はじめに御言葉の実体になられて、その後に語られるというようなところが徹底しています。

私のような口先だけでわかったようなところは全くありません。

体恤して言葉がある。

わたしが御言葉を得て心と体を求めるのとは大違いです。

言葉と実体が乖離し続けています。

 

ノアもアブラハムも御言葉の実体として中心人物の役割を果たしていたのでしょう。

モーセもそうでした。

御言葉が外にあるという現実感覚が、わたしを苛めます。

ある兄弟は言います。

「われわれは毎日、知ってか知らないかを問わず罪を犯し続けている。

そのことに気が付かないといけない。

われわれの周りに存在するすべてのものは、わたしのものではなく

まさに神のものであるという感覚がない。

罪というものの認識がない。

否、罪がわからないのだ。」

 

キリスト教においても神人合一の思想がありますが、

インドにもブラフマンアートマンの合一があります。

梵我一如というふうに漢字では表現されます。

ブッダの語られた初期の頃の仏教には、このような内容はありませんでしたが、日本に広がった大乗仏教には、仏心(如来蔵)として現れてくるようです。

神人合一に倣えば、仏人合一でしょうか?

イスラムにもスーフィズムという流れがあります。

スーフィーとは、スーフ(羊毛)の服を着た人という意味です。

木綿や絹が上等だった時代には、粗末の羊毛を着て、修道する人達がいました。

洗礼ヨハネのようなイメージでしょうか。

彼らは神人合一を目指し、宗教的な恍惚の体験をしています。

ユダヤ教にもハシディズムがあります。

いずれも基本的には神との一致を強烈に意識し、それ故に自己を喪失して、神の支配による我に目覚めていくようです。すなわち臨在です。

 

人は言葉によって創造され得る存在ですが、神を切実に求める意識が神の心情と呼応して神の住まわれる城になることができるといいます。

 

宗教は相容れ難い様相を持ってはいますが、それぞれの中には我々で言う「連体」に関係した「悟り」に関するものを求めてきた流派があり、共通性が見られます。

 

御言葉は偉大ですが、神との父子の関係性を、互いの顔と顔が区別がつかないほどに、高めていくことを願われ、われわれは今ここに居るのでしょう。

 

モーセは神との意識の合一者として、中心人物として立てられ、イスラエルの民を直接指導することができました。

だが、度重なるイスラエルの不信から、もしやモーセまでも不信してしまうかもしれないという情況に陥っていきます。

 

十戒自体は素晴らしい御言葉ですが、ある意味で中心人物はもっと素晴らしいと言えます。現在、亨進様と国進様に直接指導していただけるということは、我々の救いです。

しかし、その精誠によって次第に我々の中にも神の臨在が訪れなければ意味が無いことでしょう。

単純なことです。わたしたちがそれを本当に求めるかどうか次第です。

 

旧約時代はモーセによって指導され、御言葉によって指導されました。

終わりの日には、神が直接我々の家庭を支配し臨在する「君臨」とお父様が語られる世界に入っていきます。それ故自分たちの家庭の名前で祈るようになるのでした。

 

エス様のメッセージで読んでほしいと言われたところです。

何故判断をわれわれは誤るのか?

それは神を招いていないからであり、したがって神の臨在のない生活だったからでしょう。

 

偉大なお父様であっても、神との合一のため、どれほどの精誠を捧げたか知れないことを今さらのように思い知らされる御言葉があります。

天聖経の宇宙の根本 第2章 人間創造と愛の理想の完成 3)神人一体と愛の理想完成 ② 神人愛理想の根本原理 イ、神人愛一体をどのように解明するか

からいくつか拾ってみます。

 

先生が最も苦心したこととは何でしょうか。神人一体をどのように形成するのかという問題です。理論的にどのように説明するのかというのです。これが解明されなければ、理論的体制が定着できません。人間の愛の根本的位置が設定されなければ、すべてのものがずれていくのです。 

 

先生が根本問題を追及する時、神人一体圏はいったいどこなのかを、ずーっと考えました。これは重大な問題です。これを解決せずには、出発点と終結点が合わないのです。そのような中で、雷のようにぴかっと悟りがありました。真の愛は直短距離を通るというのです。その一声がすべてを解決しました。天地が真の愛で連結するならば、直短距離を通るというのです。言い換えれば、垂直は一つです。水平に対して九〇度以外にはありません。これは最高の直短距離です。

 

大変難しい言葉です。

わかったようでわからない。しかし、深遠な何かを伝えようとしていることだけはわかります。

だが、これがわからないと実子には成れそうにありません。

距離がないということなのでしょうか?

そのような、ゼロ ポイント フィールドがある。

 

神様の愛と人間の愛がどこで一つになるのかという論理を、今まで誰も分かりませんでした。これが分からなくては、天のお父様という言葉は荒唐無稽です。関係ない言葉です。アダムとエバは神様の何ですか。体です。それゆえに、アダムとエバが名づけるとおりになるというのは、どのような意味ですか。その体に神様が入っていってつけられるのです。完成すれば、男性の心の中には神様の性相が入り、女性の心の中には神様の形状が入っていくのです。アダムとエバの実体結婚式は、神様の結婚式なのです。霊界に行ってみれば、それをはっきりと知ることができます。知ることができないこのような理論が、すべてあてはまるのです。それゆえに、皆さんが神様の愛を占領してこそ、その欲心がいっぱいに満たされ、「もう、いっぱいだ」と言うのです。

 

エバには形状的な神は臨在します。

しかし、性相的な神はアダムに臨在します。

役割分担が違います。

お母様はまさに神の性相分野にも介入してきて、天聖経などの御言葉を歪め、家庭盟誓を変え、聖婚問答を変え、祝福リングには韓鶴子だけ刻印し、お父様作詞の天一国国家の歌詞を変え、残念な真の家庭の二世と一世間の結婚を実行しました。

アダム文化を破壊し続けました。

 

我が国には、空海だとか、道元だとか、法然だとか高僧が歴史に名を輝かせてきました。

しかし、彼らは性形の一致は求めましたが、その道の途中に神の祝福を受けて陽陰の一致を求めなければならないことを知りませんでした。

そこで彼らは地獄に行きました。

天国は二人で行く国だからです。

あれだけ真理を求めて修行した果てがそうでした。

時代的恵沢の恩恵に与ることができなかったので、判断を誤りました。

 

十牛図ではけっして人間は完成できません。

その先に陽陰の十牛図が必要でした。

だが、それはメシアにしかわからないことでした。

祝福家庭は陽陰の十牛図の克服の道を歩んでいます。

 

 ロ、神人一体の拠点 の絶対「性」の話に続きます。

 

神様の絶対愛と人間の絶対愛が出会う点とはどこでしょうか。一点です。それはどこですか。結婚して初夜、生殖器が一つになる場です。そうです、神様に会うと考えてみましたか。どこで一つになるのかというのです。絶対的な神様が定着できる一つの起点と、人間のアダムとエバが理想として願う愛の起点が、一つになることのできる点が、一点ではなく二つの点になる時には、愛の方向と目的が二つになり、永遠に神様の絶対愛とは関係を結べない人間になるので、愛のために造られたというのは偽りだということになります。・・・・

夫婦間で絶対的に一つになってみたいですか、適当に一つになってみたいですか。その場は何かというと、女性が愛を受けるためには、夫だけではなく、霊的に神様に侍る位置に立たなければならないのです。見えるアダムの生殖器は、内的には見えない神様の生殖器だというのです。女性の生殖器も、見えない神様の生殖器であり、見える生殖器エバ生殖器です。見えないものは縦的であり、見えるものは横的に一つになるのです。それで、縦的な父母、横的な父母が一つになるのです。

 

ハ、真の血統の根は神様 から続いて引用します。

 

既成教会と統一教会が違うのは、統一教会は、愛を中心として神人一体を定着させるということです。既成神学では、神様は神聖なもので人間は俗なるもの、罪なるものとして定義しています。そうであるなら、神様の愛と人間の愛がどのようにして一つになることができるでしょうか。それは話にならないというのです。絶対的な神様は何でもできると考えているのが問題です。したがってキリスト教の行く所には、たくさんの血が流れてきました。神様の命令を名目に侵略し、奪取したのです。独裁者を出したのです。世界はそのようにはなりません。神様の本性から見るとき、そのようにはならないのです。

 

 キリスト教でも仏教でも、絶対者と一致するのに「信」でもってなしてきました。

片手落ちでした。

性形だけではなく、陽陰すなわち「愛」による一致が必要でした。

それが再臨主である文鮮明先生が降臨されるまでわかりませんでした。

 

さて、われわれは信仰的判断を日々求められて生活しています。

判断は行動のためであり、行動は実績のためです。

神に捧げる実績のためです。

 

かって、お父様は世界中の責任者を集めて、40修をされたという。

「御旨や教会のことは一切忘れて、自分自身を見つめなさい」

神と我の関係、罪や堕落性の問題、神人一体理想に向って

様々に内面を内観し、心情転換を果たす場をお父様は与えてくださいました。

しかし、その成果が家庭連合にもたらされたことでしょうか?

 

本来的自己を掴まなければ、何事も始まりません。

亨進様も天和堂において、心身統一の修行の重要性をお話さていれます。

 

御旨が進展するに連れて、我々の心の問題は置き去りにされてきました。

今もあわただしく今月の目標に向って家庭連合の信徒は歩んでいます。

 

日本人はまるでドラムの中のハムスターのように、

ぐるぐる巡る地獄の輪廻の中がどこまでもお好きなようです。

 

神芯統一から、芯心統一へ。

芯心統一から、心身統一へ。

心身統一から、身人統一へ。

 

祈り。

 

 


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