原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

天は人の上に主人をつくらず、人の下に奴隷をつくらず。天は人の上に祭司をつくらず、人の下に信徒をつくらず。天は人の上に王をつくらず、人の下に民をつくらず。

カトリックは中央集権的ヒエラルキーを築いてきました。

彼らはイエス様が生きた如く生きたでしょうか?

 

天は人の上に主人をつくらず、人の下に奴隷をつくらず。

天は人に自由を与え、人は愛することによって進んで人に仕える奴隷となる。

あたかも、イエス様が弟子たちの洗足のバプテスマをして癒やし復活させるがごとく。

 

プロテスタントは人が神に至る道を阻んでいたカトリックの神父を通さずとも、

万人が祭司になる道があることを説きました。

 

天は人の上に祭司をつくらず、人の下に信徒をつくらず。

天は人に祭司になることを望み、人に信徒になることを願わず。

祭司は人に利用されることによって神の栄光を現す。

 

プロテスタント宗教改革で万民祭司の理想を掲げた。

人は信徒にて生きるにあらず、祭司の口に代わり話す祭司として生きる。

人は自由をもって羊を欲するか、服従を解いて羊飼いとなるか?

 

サンクチュアリは、アダムが万王の王となるべきだったが失敗し、

エス様がその恨みを晴らすために来られるも道半ばで殺され、

再臨の主文鮮明師が万王の王理想を完結されたとする。

 

天は人の上に王をつくらず、人の下に民をつくらず。

ただ神の愛の勝利者たる万王の王は地上の神として君臨される。

万王の王の血統を相続し人はすべて王となる。

 

第一試練、主人ではなく奴隷になろうとする試練。

蘇生的・律法的カトリックの失敗。

主人=自己主管=個性完成

 

第二試練、祭司ではなく信徒になろうとする試練。

長成的・心霊的プロテスタントの失敗。

祭司=家庭教会=家庭完成

 

第三試練、王ではなく民になろうとする試練。

完成的・心情的日本聖殿の失敗。

王=万のものを治めよ=万物主管

 

日本のサンクチュアリの聖徒たちは主人意識をずっと失ってきた。

御主人様を求め主人に愛されることを求める奴隷を好んだ。

北朝鮮サタンは天の思想である「主体思想」の名を奪った。

主体とは神を中心として、人や環境に無防備に影響や支配されず、

人や環境に振り回される奴隷にならない存在だ。

 

統一協会とは目的ではなく手段。

キリスト教を再臨主の下に統一するための手段。

宗教は天使長的独身個性完成路程の教本。

第一祝福の準備と成就に向かう。

 

家庭連合とは目的ではなく手段。

第三のアダムの血統の家庭に人類が復帰統一される手段。

天使長級宗教間では統一収拾は不可能。

高次の次元の家庭によってのみ宗教統一は成る。

 

サンクチュアリは盗賊韓鶴子によって再臨主の世界的基盤が奪われたため、

世界的キリスト教を代表するアメリカのキリスト教会をまとめなければならなくなる。

そこで聖書中心の運動に後退していかざるを得なかった。

 

文鮮明師は原理原本に語っている。

天国の思想は三綱にあり、それはイスラエルも知ることがなかったと。

忠孝烈である。

アメリカには長成的心霊的天一国はできても完成的心情的天一国は創れない。

アメリカには忠孝烈がないからだ。

 

本来は北朝鮮が復帰され、そこに天一国が築かれる予定であった。

儒教圏の日本人や韓国人は天国の思想の実践に責任を持つべきである。

 

日本聖殿は外的な摂理を進展させた功績がある。

だが、心情文化は創れるだろうか?

活動家はたくさん作ったが信仰者はどこにいるのか?

 

この世の武道家は毎日毎日武芸の向上に切磋琢磨の修行を継続している。

しかし、聖徒たちを見ていると具体的な今日という日に自らの課題を明確にして、

神の前にどう克服しようかと取り組んでいる人を見たことがない。聞いたことがない。

いるのかもしれないが、会うことがなかった。

神を愛するということは、隣人を愛するということだ。

あなたが愛して後、人は隣人となる。

あなたはサタン世界の人を愛したか?

その人から祝福されたか?

 

家庭連合でもそうだ。サンクチュアリも変わらない。

これでは天一国は降りてこないだろう。

家庭連合の弊害は教会間の信徒交流を喜ばないことだった。

それどころか教会内でも縦的アベル・カイン関係意外の信徒交流は嫌がることが多い。

主管が違うという。

70年代はそうではなかった。

 

日本聖殿は排他的な伝統が出来上がってしまった。

不当な理由で協会を糾弾した人々で出ていった者も、

神や文先生を愛する者たちだ。

どうして心配したり許したりしないのだろう。

世の中に時効があるのに、信徒間にはないのだろうか?

ハガルを追い出したサラのような感じではないか?

 

さて、お父様は家庭の連合をつくられた。

各家庭がお父様に直結するフラットなネットワーク。

家庭連合は外的摂理を主体にして、内的な摂理である理想家庭のネットワークを創れなかった。天の父母様聖会もそうだろう。理念不在の名称だ。空っぽの女がつけたからだ。

日本の聖殿もまた然り。

これからは内的な心情文化のネットワークが形成されなければいけない。

協会や教会の所属はどこでもいいのだ。

家庭連合では縦的組織しかできなかった。

横的なネットワークを阻害した。

日本の聖殿も同じ間違いを起こしつつある。

経糸と横糸があって見事な反物はできる。

 

アメリカは摂理的な事情から教会という形式がいいのだろう。

だが、日本は堕落した韓鶴子が勝手に捨てた「家庭連合」をやり直さなければならない。

「世界平和統一絶対性家庭連合」

英語のサンクチュアリには聖所や至聖所の意味がある。

絶対「性」をある意味表している「聖なる聖殿」だ。

しかし漢字の「聖」には、あるいは’「聖殿」にはその意味は希薄であると思う。

今日はここまで。