原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

旧約時代・新約時代・成約時代は、万人従仕時代・万人祭司時代・万人王位時代

「組織は戦略に従う」とはよく言われてきた言葉である。

平易な言葉で言えば、目的によって組織は考えるべきだと言うことになろう。

戦略と目的はそのままイコールというわけではないが、

戦略(目的)⇒ 組織(手段)

 

組織が先にあって、戦略が後にあるのではない。

そうなれば絵に描いた餅になる。

機能しない。

 

何かを販売している販売会社があれば、

あるものを販売するための組織ということになる。

経営陣が販売戦略を考えたとすれば、それを組織に浸透させ、戦略統一に導こうとするとき、私は末端で機能する最小単位から活性化させないといけないと考える。

販売会社なら、営業所となるかと思う。

営業所が活性化しない限り業績は伸びない。

 

戦略は上から、組織づくりは下から。

これが私の考え方である。

 

では、教会組織を考えてみた場合はどうだろうか?

教会は伝道が目的である。

では伝道が推進する教会でなければならない。

そこで組織変革をする場合は我々にとって活性化した教会とは何かという確認から始めることが良いと思われる。

 

そして新規から実践、実践から献身、献身から祝福という流れを、

どのような仕組みと仕掛けで前進機能させるかを構想し、

そこから組織全体のあり方を考えることが自然だと思う。

 

明治の頃のキリスト教会は実に活性化していた。

 

ところで、我々人類が通過してきた摂理的三段階を振り返ってみると、

旧約時代は、中心人物がリーダーであって万民は従者という関係の時代であった。

み言は中心から全体に伝えられ、万民にはみ言の管理がなされてはいなかった。

中心人物からの指示によって動くことが多かった。

やがてモーセ十戒ができ、またモーセが民の問題を一つ一つ聞いて決裁して行く量が膨張すると神は分権することを教えられた。

このような形態は新約時代のカトリック中心の時代においても引き継がれ、大雑把に見ればそれほど違っていることはなかったと思われるが、大きな変化が起きたのは宗教革命が起きてからだった。

 

民がモーセに従っていたように、「万人従仕」の時代は過ぎ去っていく。

それに代わって登場したのは、「万人祭司」の時代であった。

エス様はまずご自分が羊飼いとして信徒たちを羊のように保護し育てられ、

やがてはご自分のような牧者になることができるように訓練された。

主の訓練である。

 

宗教改革機には、グーテンベルグの印刷技術に対する貢献で、今までは聖職者しか読めなかったみ言がラテン語ではなく一般言語の活字になって民衆が読める時代圏に移っていった。

限られた聖職者を通さずに人々が直接神のみ言に触れる事ができるようになった。

祭司の特権が万民に委譲されたので、「万民祭司」と呼ばれるようになった。

 

意識革命、心情革命が起こっていたのである。

ところが、ルター以降この万人祭司を幾度となく語られては来たが、

実際行動に即して見てみると、既成教会ではその実現には苦悶していたり、

もはや忘れされられているかに見えたりもする。

何故だろう?

われわれもまた彼ら同様にぬかるみにハマってはいまいか?

 

   プロテスタント サンクチュアリ

教会 信徒の集まり  家庭教会・氏族教会

祭司 牧師      祝福家庭の主体者

 

重要な価値観

1,主人意識という責任心情 ⇔ 従者意識という依存感情

  すべてについて私が主人である ⇔ 人頼りの姿勢・人任せの姿勢

  <ex.>

 ① み言は自分で学ぶ ⇔ み言は人に教えてもらう

   「訓読生活」が与えられた

 ② 講義は自分がする ⇔ 講義は特定の教育者にしてもらう

   「訓読チャート」が与えられた

 ③ 牧会は自分がする ⇔ 牧会は牧者か巡回師にしてもらう

   「信仰と生活」が与えられた

 ④ 説教は家庭教会長の自分がする ⇔ 説教は地域教会長がする

   天聖経をはじめとするみ言が与えられた

 

 主人になるか奴隷になるかは本人が決定する

 

2,神氏族メシア活動 ⇔ 囲い込み

① 神氏族メシア活動は信徒を囲い込むのではなく、解放する

② 神氏族メシアは3つの側面の勝利者(お父様のみ言葉の要約)

  Ⅰ 牧会者 (宗教的自立)

  Ⅱ 救世救国の支部長(政治的自立)⇒ 王へ

  Ⅲ 社長(経済的自立)

③ 家庭教会と氏族教会(家庭教会の連合教会)に対するサタンの策略

  氏族教会は家庭教会が教会として自立できる為の支援機関であり、

  氏族教会に依存させ囲い込む為の機関ではない。

  家庭連合の課題:信徒間の横の繋がりを塞ぎ、教会間の交流に乏しく閉鎖的

  囲い込みの価値観がそこにはある。交流は本部主導でなく自主的に築くべき。

  サタンの策略:「氏族教会の信徒を羊のまま囲い込め」という囁き

         

3,三段階の復帰摂理時代と復帰された我々の位置と状態

① 旧約時代 「万人従者」(主従的責任)

② 新約時代 「万人祭司」(宗教的責任)

③ 制約時代 「万人王位」(政治的責任)

 

祭司であれば、み言に関心を持たなければならない。み言を主管しなければならない。

王であるならば、国政に関心を持たなければならない。

み言の主管を放棄すれば、祭司であることを放棄することになり、

国政や国益に関わる世界情勢に関心も責任も持たなければ王と呼べるだろうか?

王冠を守るということはそういうことだ。

 

長成期を代表するアメリカの政治形態はそれ以前の国とは違っていた。

イギリスは帝国だが、アメリカは連合である。

だからSFでは連合が善になる。

 

イギリスでは警察や軍隊は国家にしかない。

だが、アメリカには州警察と州の軍隊がある。

何故だろう?

長成期の形態だからだ。

国家から州に降りてきた。

だから、完成期の天一国では天一国の国民に

警察と軍がさらに降りてくる。

これが「平和警察」と「平和軍」である。

いまのところスイスがそれに近いと言われている。

かっての王国時代は軍を王が持っていたように、

万民王位の時代では自分が必要なときに警察となり、自分が軍人となる国民が天によって願われるようになったのである。

 

教会をさらに発展しようと精誠を尽くされているすべての兄弟姉妹に感謝して

筆を置くことにしたい。

感謝、感謝、感謝。

アージュ

 

 

  


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