原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

堕落人間だった韓鶴子を無原罪だとした小山田秀生とお父様に原罪があったとした太田洪量の大犯罪

家庭連合はお父様の思想を捻じ曲げ、小山田秀生は韓鶴子が無原罪だと言い切り、

太田洪量はお父様には原罪があったと信徒を騙し続けている。

 

小山田は霊界でお父様に会う日が来る。

先生:「小山田、君はお母様に原罪がないと思うのか?あ〜ん?」

小山田:「そうお母様からお聞きしました。」

先生:「私がお母様に原罪がないと言ったことがあるのか?」

小山田:「ありません。」

先生:「先生は君にお母様に原罪があったと話したんじゃないの?」

小山田:「・・・・・。はい。」

先生:「そうしたらそれを君は信じるべきじゃないの?」

 

こうして彼は天一国を去っていった。

 

太田はかってはお父様の前での御前講義で「太田は原理大学の校長先生だね」とまで評された男だった。

わたしはずっと彼に対して不思議だったし失望していた点があった。

何か?

原研時代には幹部にしたモーセの講義で、モーセは石を投げられているヨシュアやカレブのために、民との間に分け入って仁王立ちし両手を広げて彼らを助けるべきだったと言った。石を自分が受けて彼らを守れというポーズをして見せていた。

ある兄弟は太田会長はもうモーセの基準を超えているかもしれないと言っていた。

自分はこうした原研の人間を偶像化する人間信仰だけは肌に合わなかった。

 

「中心のために、中心のために」という文化が家庭連合では蔓延っている。

何故だろう?

 

太田洪量が南米で身代金目当ての賊に捕まった際に、震え上がって帰ってきた。

同じく誘拐された通訳の女性は毅然としていたのに、太田は年取ったのか?

そうではないという人がいる。

太田は南米で夜な夜な婦人を部屋に入れてマッサージをさせていたと当時の食口は振り返る。

太田は堕落したのだろうという話だ。

つまりいつ殺されるかしれないという恐怖心はあったかもしれないが、

太田には来るべき天罰が来たと感じたのではないかという話である。

それは想像を絶するほどの恐怖心だったのだろうという。

なるほどそうかもしれない。

 

また、太田には別の話もある。

彼ら夫婦は子供に恵まれなかった。

だが、ある時養子をいただく事になった。

ところがずっと経ってから、突然先方の事情で世継ぎがいなくなったので返してほしいと言われたという。

あんまりのことだと太田はお父様に訴えた。

ところがお父様は黙っておられた。

太田はこのときからお父様に持ってはならない感情を抱いたのではないかと思う食口はいる。

 

はっきり言おう。太田はイサク献祭の講義を数えられないくらいしてきた。

だが、イサク献祭の意味を知らなかった。

知っていたらどうすべきかわかっただろうに。

 

わたしならこう言う。

「わたしはあなたの大事な息子を養子として迎えた時に、あなたがこの子を愛する以上に愛し、あなたが幸せにする以上に幸せにしようと決意して初めて息子として迎え育てて今日まで来ました。あなたの要望にお応えすることは結構ですが、あなたも私たち夫婦がこの子を愛してきた以上に愛するとここで誓ってください。そうすればあなたの子供はお渡しします。」

 

このとき太田には、お父様がソロモン王の裁定を下す条件がなかった。

泣き崩れて訴えても無駄である。イサクはどのようなアブラハムとサラに与えられたのであったか?

そのイサクを神は捧げよと言われた。

アブラハムが3日悩んだとしても、原理を知っている我々がどうして3日も悩むことができようか?

 

残念なことだが、彼には本当の意味でイサク献祭が理解できてはいなかった。

我々の子女はちょうどかぐや姫のようなものである。

神が子を与えてくださり幸せな日々をもたらしてくださったのだから、

いつかは神様の代わりに育ててお返しすべきものである。

かぐや姫の育ての親のように邪魔してはならない。

 

命が絶たれようとするも、子供が奪われようが、

お父様に敬礼を深く捧げて笑って死んでいくのが侍義の道であり、

忠孝の道であろう。

「忠臣は死んでみなければわからない」とお父様がおっしゃる所以である。

 

罪を犯し自分の苦しさを軽減するためにメシアを罪人に引きずり下ろすべからず。

養子を手放さずにしてくれなかったためにメシアに原罪があったとうそぶくべからず。

 

アブラハムは人に子を渡せと神に言われたのではない。

燔祭として捧げよである。殺せと言われた。

アブラハムが勝利してくれたので今日の我々が復帰された。

感謝、感謝、感謝である。

 

大きな使命を与えられた人物ほど本質的な試練を天は与える。

その意味を誤解すればひとたまりもない。

個人のことをとやかく言いたくないが、メシアに原罪があったと触れ回っているほど堕落しているのでは見過ごすことができない。

ただ、武士の情け、峰打ちで鞘に収めよう。

 

小山田秀生も太田洪量も太田朝久もキリスト教の言う原罪が

統一原理の言う血統転換の根本復帰においてどのような意味があるかを悟れなかった。

 

10月14日のお父様の解放日の前にはっきり言おう!

 

イエス・キリストの血統転換は中途半端だった!

お父様こそ血統転換の根本復帰に勝利された唯一の絶対勝利者である!

 

講義において血統転換として語られて来たイエス・キリストの根本復帰は、

途中で終わっているのだ。

養子基準で終わってしまっているのだ。

完全蕩減されてはいない。

本当に残念なことだが、イエス様は神の実子ではなく養子であった。

 

家庭連合では真逆の理解をしている。

阿呆め!

 

わたしはずっとイエス様とお父様の違いをじっくり考えてきた者である。

 

 

 


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