原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

百済の南平文氏の宗祖文多省は高麗建国の功臣という資料もあるようだが

先日は韓鶴子オモニの清州韓氏のお話を少ししました。

出本は韓国のほぼ中央にあると。

ところで、南平文氏だって出本は光州ではないかと言われる方もおいででしょう。

 

 統一教会の文先生は、どこの産ですか。どこの産かといえば、平安道産でしょう。それでは平安道文氏の根本先祖はどこですか。全羅道の人です。南平文氏です。羅州の横の、南平という所が本郷です。このように本郷を探求してみれば、私も全羅道の人です。全羅道の人々の恨を一度解いてあげなければならないので、私がこのような話をしたならば、「南平郡が本郷の文総裁は私たちの側であるので、慶尚道に行ってそのような話をしたとしても、それは気分が悪いことではない」。そう言うのではありませんか。

 私が文氏の先祖(文多省公)を注意深く見てみると、文氏は私生児から出発しているのです。族譜を明かしてみると、新羅時代の慈悲王が啓示によって、「この国に特別な赤ん坊が生まれたので探せ」という命を受けて、南平にある文巌という岩で泣いているのを探し出して、そこから出発したというのです。花郎道(注・儒仏仙の三教、三徳の精神を尊び、五戒を信条とする花郎の道理)思想の発想者が誰かというならば、文氏です。今はそれを知らずにいます。そのような複雑なことがらが絡み合っているというのです。

 文洪権(七十二家庭)が来て話すには、李太祖の二番目の息子がそう言ったというのです。文氏は忠臣が多いのです。それゆえに、「文氏宗族は今後、絶対奴婢として使うな」という勅命を下したといいます。そのような文献があるというのです。李朝時代に、文氏を奴婢として使わなかったというのです。「摂理的に見れば、その話も妙に一理ある」と思って聞いたのです。

 また、文氏を見ると、賢いから、重要機関にみな入っていたのです。文氏は、頭がいいのです。また頑固さも並大抵ではありません。どんなに貧しくても、片意地を張るのです。全羅道に行っても変わらず、満州に行っても変わらないのです。そのような執念があるのです。文氏は本当に両班なのです。李朝時代には、官職につきませんでした。官職につけなかったのでなく、つかなかったというのです。わざと科挙試験も受けませんでした。それを見れば、骨のある一族でしょう。気概がある人たちなのです。

 そのように、文氏は良心的です。不義とは妥協しない、恐ろしい頑固さがあります。そのような何かがあるのです。そのような文氏の宗族が、今はおよそ四十万になりますが、その宗族の血統をもって私が生まれたのです。

 文洪権、孔子は文氏の家門から何が出てくると言ったのですか。(聖人が出てくると言いました)。では一度話をしてみなさい。私は、それが孔子の話なのか、何なのか分かりません。(はい、文氏の遺跡がたくさんあるのですが、その遺跡ごとに伝えられてきた不思議な伝説があります。南平でもそうですし、公州(忠清南道)の中始祖忠粛公(文克謙)の墓がある所でもそうですし、山清(慶尚南道)の文益漸おじいさんの墓がある所でもそうです。門中から聖人たちが出てくるという、このような話が伝えられています)。

再臨主文鮮明

  

文先生のご先祖様のことは、武田吉郎氏が詳しく説明していますが、

始祖の武成公文多省について書いているところから引用したい。

 

 文先生の家系は、約50代1340年余年の歴史を持つ由緒正しい名門です。

 日本でいうと、聖徳太子(574〜622)のころから系図がはっきりしているのです。

 始祖、文多省(おくり名は武成)の生誕地が南平(半島南西部の光州直轄市の南)だったことから、一般的に「南平文氏」と呼ばれています。

 ちなみに、記録によると文氏の本貫は132ほどあるそうですが、同姓異族の甘泉文氏と旌善文氏を除いて、今日ではすべてが「南平」に統一されました。

 百済蓋鹵王18年、新羅慈悲王55年に誕生した始祖の武成公文多省には、次のような出生伝説が残っています。

 文多省が生まれる1年前、新羅の慈悲王が臣下たちと宮廷の庭にいたところ、突然、紫気(幸福の兆しを感じさせるある自然現象)が西方から中天に伸びてきたのです。

臣下たちは驚きましたが、王だけはそれを見て喜び、

「これは賢人が出生する微侯だ」

と言われ、気象学者(雲気で吉兆を判断する人)に命じて全国を巡察させました。

 

 しかし、1年過ぎてもその所在を発見することができなかったのに、翌2月、百済にある南平の縣主(官吏のめかけから生まれた娘の称号)が長者池のほとりにいたところ、忽然と紫雲が池の近くにある大きな岩を覆い、そこから赤ん坊の泣き声が聞こえてきたのでした。

縣主が高さ5,6メートルの岩の上に登ってみると石の箱があり、箱の表には紅色で「文」の字が書いてあり、なかには男の子がいました。

縣主は大変喜び、精誠を尽くして育てますが、それが隣国新羅の慈悲王の知るところとなり、幼子は新羅の宮中で育てられることになったのです。

文多省は幼いときから聡明で、5歳ですでに国家や政治、経済に関する問答を王と交わしていたと伝えられています。

 武成公のおくり名が示すように、文多省はいわゆる文武両道に秀でた人物でした。

 

 1975年に南平文氏始祖降誕地記念閣として、文先生は全羅南道羅州郡南平面楓林里に武成公を追慕して文巖閣を建立しています。

 毎年陰暦の9月、南平文氏の関係者が出席して、文巖閣の近くにある長淵院という所で祭祀が行われています。

田吉郎著 「聖地定州」P101~104

 

不思議なエピソードが、始祖にはあったということだが、その功績やいかに?

続いて引用してみよう。

 

 始祖文多省の業績

 武成公文多省は生涯において多くの分野で業績をあげています。

 まず、軍事面では、倭寇が南方海岸に出没し、略奪を行ったとき、武成公は王から将軍に任命され、たちどころに撃退させました。

 また、当時は高句麗百済新羅が半島の覇権を争った、いわゆる”三国時代”で、最も強だった高句麗がたびたび新羅百済に侵略してきたので、新羅百済は同盟を結び、武成公が元帥となって高句麗を攻撃、十個郡を占領するなどの戦果をあげています。

 政治では、高句麗百済に立ち遅れていた産業の振興と道路網の整備を行い、国力を増強する基礎をつくりました。

 また、上位の者が死んだ場合、下位の者も共に埋葬されるという古来の風習を、不合理として廃止するよう王に提言して実現、多くの人命を救ったのでした。

 そのほか経済においては、市場の設置により物資の交流を活発化させ、文化の交流とともに産業経済の発展を図り、牛を利用した耕田法を広め、農業の発展にも大きく寄与しています。

 しかし、武成公の業績で特筆されるのは、なんといっても「国民教育」でしょう。いうまでもなく、教育は「国家100年の大計」であり、国の興廃の鍵を握っています。

 今日でいう文部大臣に任命された武成公は、男子の修養団体として「花郎道」を創設しました。

 容姿端正な少年を選び、人格の修養と愛国精神を育成、国家の基幹人材として育てたのですが、彼らこそ、三国統一の大業を達成した新羅の原動力となったのでした。

統一新羅の実現は文武王の時代(661〜680)です。

 武成公は578年に没していますから、当時すでにいませんでしたが、晩年は「三光先生」と呼ばれて人々から敬愛されていました。

 三光というのは、武成公の聡明さが日と月のようであり、その清廉さが星のようであるとして、人々がそう呼んだのです。

 かって軍事的功績により王から田と敵兵捕虜3000人を譲り受けながら、田はすべて部下の将兵たちに分け与え、3000人の敵兵捕虜は無条件に解放しました。

 当時の慣例では捕虜には人格が認められていませんから、一種の私有財産として牛馬と同じ取り扱いをするのが普通でしたから、武成公はまさに人道主義の先駆者ともいうべき人物だったといえるでしょう。

田吉郎著 「聖地定州」P105~108

 

 

 

 

 

 

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http://www.chojin.com/history/1920.htm より系図を引用

 

 

 

 

岩穴から生まれた?南平文氏

朴春日

 文氏の本貫数は130余。稀姓に属するが最上位にあり、由緒ある歴史を誇っている。

 まず南平文氏。始祖は高麗の功臣・文多省(ムン・タソン)で、先祖が岩穴から生まれたという神奇な伝承を持つ。そして、その後孫は今でも慶尚南道泗川郡にある岩穴の前で祭祀を行うという。いわれはこうだ。

 文多省の後孫に文テボンという人物がいた。ある夜、白髪の老人が夢枕に立ち、「今に南で災難が起こる。祖先が生まれた岩穴に隠れよ」と命じた。

 そこで一族がその岩穴に隠れると、倭寇(わこう=日本の海賊)が現れて多くの村人が殺されたが、文氏一族は難を逃れたという。のちに高麗の宰相を務めた文公仁と文克謙は、この氏族の出身である。

http://korea-np.co.jp/sinboj2001/12/1221/62.htm

 

朴氏が文多省を高麗の功臣と言っているのは、高麗建国の功臣という資料があるからのようだ。

 

本貫類聚 - GNU FDL

 

もしそうなら、文氏の「五賢」と言われる人は全て高麗かあるいは関わった人になる。

 

私生児というのは、高麗の血統と関係があるのかも知れない。

本来なら韓半島も、我が国のように一旦天下統一されて一国の姿を固めなければならなかったと思われる。

韓流時代劇を見る限りでは、高句麗は中国との闘いには熱心ではあったが、

国内の統一にはそれほど関心があったようには描かれていない。

ここからは空想であるが、そこで高句麗の血統が私生児として伏せらえて新羅に入って韓半島を統一していかざるを得なようにも感じられる。

 

文氏の始祖である 文多省は、新羅の慈悲王の啓示の成就としてお生まれになったが、

花郎道を考案されたばかりか、高麗の功臣でもあるという。

新羅の功臣だというのが普通だが、文多省を含めて南平文氏の「五賢」という人達がいるが、始祖以外は高麗である。

朴春日氏がそう考えるのも、他の四賢と出生の謎めいた伝説に原因があると思われる。

また後孫からは高麗の宰相を務めた文公仁と文克謙を輩出している。

高麗、遡っては高句麗の血筋なのである。

 

お父様は韓鶴子オモニに「韓氏を誇るな!」と言われてきた。

韓鶴子オモニは血統とは何かを勘違いしておられた。

韓国では夫婦別姓になっているのは、男女平等のためではなく、

血筋をはっきりさせるためである。

日本人は「お家安泰」を重視しするが、韓国人は血統を重んじる民族だからである。

韓鶴子オモニの血筋は「韓」の名のつくご先祖のことである。

ところが、韓鶴子オモニは自分が独生女として生まれてきたのはご先祖様の言い伝えが証明しているというのである。

ところが、その話は韓鶴子オモニと同じ血筋のご先祖のことではなく、

自分とは全く血筋の違う祖母の趙元模ハルモニのご先祖である。

洪順愛大母様のお母様である。

しかも、その話は7文を惜しんだので天子がその血筋に生まれることができず失敗したという話である。失敗だが功績もあるので天子ではなく天女になったというのである。

この話を独生子と独生女にあてはめれば、

独生子と独生女の価値は雲泥の差であるということだ。

そこでお父様の家系の文家の家訓は「趙家の過ちを繰り返すな」であった。

多くの信徒が主の路程で聞いてきたとおりである。

 

整理すれば、

第一に、血筋の違う話し、内容が独生女とは相容れない話を、無理やり自分が独生女として生まれてきた予言であるかのように韓鶴子オモニは語っている。

第二に、そのエピソードは美談ではなく失敗談であり禍根の話であった。

第三に、だからこそお父様の文家の家訓は、「趙家の過ちを繰り返すな!」であり、それを代々実践してこられたということである。

 

 

宮田登氏の研究によれば、以下のようにかなり違って説明されている。

天女は趙家の子孫に生まれたのではなく、中国の明の皇帝の女子として生まれ代わり、その子の背には『朝鮮趙漢俊』の 文字があって気持ち悪がられ、妖邪なものとして惨殺されたという悲しい話しだとしている。

 

孫晋泰『朝鮮民譚集』には、北鮮平北定州の趙漢俊弥勒の伝説がのせられている。万暦任寅年間趙漢俊なる者がいたが、(中略)全財産を投じて石橋を架けた。終わって余財は七文ばかり、それで一足の草鞋を買い取って旅に出たという。この漢俊は死んで三日目空中より声があって『漢俊が弥勒となって出世するからよくこれを祀れよ』という。村人が声のする方角に行くと一座の石仏が地中から出現していた。人々はそこに小屋を立ててかぶせたが、弥勒は次第に大きく成長して屋根を突き破ってしまったので大屋をさらに作った。この趙漢俊弥勒に祈れば男子を得ると信じられている。(中略)なお明の皇帝が一女をもうけた時、その背中に『朝鮮趙漢俊』の五字があった。使を遣わして漢俊の有無を問うたが、時の人後患を恐れてその人のいたことを言わなかったので、明の皇帝は女子を妖物として殺してしまった。もし漢俊が七文で草鞋を買わなかったらば、明の皇太子に生まれ代わったのに、七文を利用したから皇女に生まれ、惨殺されたのだという話である。この趙漢俊弥勒は民間によく口碑として残されているものだが、ミロクに子授けの機能があること、ミロクが再生すると期待されていること、そして外敵明の皇帝の意のままにならぬことを表示したことがうかがえる

宮田登著『ミロク信仰の研究・新訂版』 P.311~312

 

韓鶴子オモニはもう救いようがないほどご乱心なのである。

 

 


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