原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

十字架はキリストの苦しみか? ふとマザー・テレサを思い出して

十字架はキリストの苦しみか?

 

十字架はキリストの苦しみか?

苦しみを引き受けるところに神は宿られるというのか?

キリストは苦しむことで得るものはなく

人々は自ら苦しみを引き受け

苦しむことで美しくあることはない

 

奉仕は信仰者の苦しみか?

奉仕を引き受けるところに咎は許されるというのか?

キリストは奉仕で得るものはなく

人々は自ら奉仕を引き受け

仕えることで美しくあることはない

 

査定は人々の喜びか?

査定を受け入れるところに魂は微笑むというのか?

人々はキリストの査定ですら得るものはなく

世界は自らへの査定を受け入れ

概念によって美しくあることはない

 

道筋は人々の慰めか?

道筋を受け入れるところにやすらぎは満ちるというのか?

人々は外から動かされて得るものはなく

世界は自らへの誘導を受け入れ

道筋によって美しくあることはない

 

苦難の中にあって 神への励ましを!

奉仕の中にあって 歓喜は微笑みを呼ぶ

 

頭を捨て 眼を捨て 耳を捨て去って

考えることなく考えて

見ることなく見て

聴くこともなく聴く

 

キリストは人々の魂に眼差しを投げかけ

ある時は治りたいかと言い

ある時は立って歩けと言い

ある時は唾で土を捏ね盲の眼に押し込んだ

 

否定の中に 神への献身を

厳しさの中に 密かな優しさを

 

選ばれし者は 十字架よりキリストを降ろされ

聖顔に布をあてがった

御子の血は顔の形を布に写し

布を持つ手を通って その聖顔は伝わり

罪人の顔に重なり尽くした

 

血から血へ 心から心へ

土に埋められ姿をすっかり消し去ったのは

主なるキリストではなく

形なく虚しい十字架だった

 

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夜中の1時に目が覚めて、晩年のマザーテレサのことが気になり、以上の文を書き始めました。

書き終えてから彼女の晩年のことが書かれているサイトを見つけました。

スピリチャリズムに傾倒している方によるもので、簡潔にまとめられています。

スピリチャリズムの観点から書かれている解説のところはなるべく省いて以下に引用します。

 

マザー・テレサの「心の闇」の問題/NL50号 より引用

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【1】死後、明らかにされたマザー・テレサの「心の闇」

Come Be My Light”出版の大反響

インドの貧民街の聖女マザー・テレサは、献身的で犠牲的な奉仕活動によって世界中の人々から讃美と敬意を集め、1979年にはノーベル平和賞を受賞しました。マザー・テレサの人生は、宗教の壁・人種の壁を越えた無償の純粋な利他愛の歩みそのものであり、物質文明に毒された地球上の人々に、人間としての尊厳と理想像を示すことになりました。マザーは、まさにキリスト教の神の愛の実践者でした。

マザーは1997年、87歳で、インドのコルカタで他界しました。このときマザーが始めた「神の愛の宣教者会」の活動は世界123カ国に広がり、それに従事するシスターの数は3914人にのぼっていました。マザーの葬儀には、自由主義諸国ばかりでなく、社会主義圏の国々もこぞって追悼文を送りました。

マザーの死後、彼女をカトリックの聖人に列するための列福運動が始まり、そのための調査が進められました。そうした動きの中で、マザーの列福運動の担当者の一人で「神の愛の宣教者会」の司祭であったブライアン・コロディエチェク神父によって、マザーが霊的指導者(カトリックの神父)たちとの間で交わした40通以上もの手紙が、一冊の本として出版されることになりました2007年・DOUBLEDAY RELIGION発行)。そしてそこに掲載されたマザーの手紙の内容が、世界中に大きな衝撃と反響を巻き起こすことになりました。

マザーが懺悔聴聞司祭(ざんげちょうもんしさい)たちに送った書簡(手紙)には、生前は世間に一切知られることのなかったマザーの内面が赤裸々に綴(つづ)られていました。それは一般に知られてきたマザーのイメージから大きく懸け離れたもので、生前のマザーのイメージを覆すような内容でした。この本(“Come Be My Light”)の出版に先立って、その中に掲載されている手紙の一部(抜粋)と論評が米タイム誌に取り上げられ、世界中にマザーの隠された一面が報じられることになりました。

“Come Be My Light”という英語のタイトルを見ると、闇の中にいるマザーが主(イエス)に向かって「主よ、私のところに来て、私の光となってください(私を助けてください)」と訴えているかのように思われますが、実はこの言葉は、イエスがマザーを召命した際に、イエスがマザーに語った言葉なのです。

したがって「汝マザーよ、立ちて(来たりて)、私の光となれ!」という意味になります。

「Come Be My Light」のカバー”

生前のイメージを崩すマザーの「内面告白」

マザーを敬愛する人々は、神に対する深くて不動の信仰心が彼女の献身的・犠牲的な奉仕活動の源であり、純粋な利他愛の土台であると思ってきました。マザーはしばしば神への信仰を力強く語り、人々を励まし勇気を与えてきました。マザーは絶えず神に感謝の祈りを捧げています。私たちは、神への信仰のゆえにマザーの人生は、常に明るく積極的で希望に満ちたものであったと考えてきました。

ところが彼女が霊的指導者(霊的指導担当の神父)たちに宛てた手紙には、それとは全く反対の“神の存在への疑念”が延々と述べられていたのです。“Come Be My Light”の出版によって、マザーを悩ませ苦しめてきた「心の闇(霊的闇)」の存在が広く知られるようになりました。

マザーの内面告白を綴った手紙は、多くの人々、特にキリスト教関係者に大きなショックを与えることになりました。人々は、マザーを理想的な信仰者・揺るぎない不動の信仰者と考えてきたからです。まさかマザーが神の存在に疑念を抱き、亡くなる直前まで“神の不在感”という「心の闇」に悩み苦しんできたことなど想像だにしなかったのです。

一部の神父だけが知っていたマザーの「心の闇」

生前のマザーの「心の闇(霊的闇)」について知る人間は、5人の神父を含むほんのわずかな教会関係者だけでした。マザーが自分の心の悩みを打ち明け救いを求めたのは、マザーの霊的指導担当者として懺悔告白を聞く立場にあった神父たちでした。いずれも“イエズス会”の神父たちで、ペリエール大司教、ヴァン・エクセム神父、ピカシー神父、ノイナー神父、ピート神父の5人です。

彼らの他には、マザーの身近にいて長年ともに奉仕活動に携わってきたシスターたちでさえもマザーが最も信頼し、自分の後継者として指名したシスター・ニルマラさえも)、マザーの「心の闇」の存在を知ることは一切ありませんでした。マザーの死後、その内面の闇を知ったシスターたちが、たいへんなショックを受けたのは当然のことです。彼女たちは、どのようにしてそのショックを乗り越えたのでしょうか。

神の存在に対する確信の上に堅固なキリスト教の信仰を確立していると思われていたマザーが、実は神の存在について疑念を抱いていたということは大きな驚きです。またそうした「心の闇」を告白したマザーの手紙を、カトリック教会関係者が一般向けに出版することを許可したことにも驚かされます。もちろんカトリック教会側には、マザーの内面告白を公表することが彼女の信仰を一方的に貶(おとし)めるものではなく、カトリック教会の権威を傷つけるものでもないという確信があってのことだと思われます。

しかしそうしたカトリック教会の思惑とは別に、 マザーが終生「心の闇」に悩んでいたという事実の公表は、世界中に大きな波紋を引き起こすことになりました。

マザーの「心の闇」の軌跡

マザーは5人の霊的指導担当者に、自分の「心の闇(霊的闇)」をどのように告白していったのでしょうか。マザーがたどった「心の闇」の軌跡を、出版本に掲載された手紙の一部を引用して見ていくことにします。

◆1953年(マザー43歳)……ペリエール大司教への告白

私の心の中に恐ろしい闇があるために、まるですべてが死んでしまったかのようです。私がこの仕事インド貧民街での奉仕の仕事)を始めるようになって間もないときから、このような状態がずっと続いています。

◆1954年(マザー44歳)……ペリエール大司教への告白

「私の魂は、深い闇と悲しみの中に置かれたままです。でも私は不平を言うようなことはいたしません。神が望まれることはすべて、私を用いて成就していただきたいのです。」

◆1955年(マザー45歳)……ペリエール大司教への告白

[2通の手紙から]

「私の心の中には、表現できないほどの深い孤独があります。」

「私のために祈ってください。私の心のすべてが氷のように冷たいのです。私を支えていた疑うことを知らない信仰は、実際には私にとって、すべて闇を生み出すだけなのです。」

◆1956年(マザー46歳)……ペリエール大司教への告白

「時々、寂しさの苦痛があまりにも大きいのです。同時に、いなくなってしまった方(イエスへの思慕の情があまりにも深いのです。」

◆1957年(マザー47歳)……ペリエール大司教への告白

[2通の手紙から]

「私の魂の中には、あまりにも多くの矛盾があります。神への深い思慕の情――神との触れ合いを渇望するその思いが、繰り返し私に苦しみを与えるのです。私は神から求められてはいません。神から拒絶され、虚しく、信仰もなく、愛もなく、熱意もありません。私の魂には何ひとつ魅力あるものがありません。天国は何の意味もありません。それは私には空虚な場所のようにしか感じられません。

「私のために祈ってください。私がイエスにずっと微笑んでいられるように祈ってください。私は“神がいない”という地獄の苦悩を少し理解しています。しかし、それを表現する言葉が見つかりません。」

◆1958年(マザー48歳)……ペリエール大司教への告白

どうか私のために祈ってください。神への思慕の情が、私の心に恐ろしい苦痛を与えています。闇は大きくなるばかりです。何という矛盾が私の心に存在するのでしょう。苦痛があまりにもひどいので、あらゆる世間の評判や人々の話に何も感じることができません。」

◆1958年(マザー48歳)……ペリエール大司教への告白

[一時的に「心の闇」が消滅した後、再び「心の闇」を体験するようになって]

「主は、私が闇の中にいる方がよいと思っておられるようです。主は、私一人を残してまた去ってしまわれました。

◆1959年(マザー49歳)……ピカシー神父への告白

[この手紙の中で、マザーは次のような神(主)への祈りを綴っている]

「主よ、あなたが見捨てなければならない私は、いったい誰なのでしょうか? あなたの愛する子供は今、最も嫌われ者になっています。あなたから求められず、愛されず、私はあなたから捨てられてしまいました。私はあなたを呼び求め、すがりつきますが、あなたは応えてくれません。闇はあまりにも暗く、私は孤独です。求められず、見捨てられて、私は独りぼっちです。愛を求める心の寂しさに耐えられません。

私の信仰は、いったいどこに行ってしまったのでしょうか? 心の底には、虚しさと闇しかありません。主よ、この得体の知れない痛みは、何と苦しいことでしょう。絶えず私の心は痛みます。私には信仰がありません。私の心に次々と湧いてくる考え、私を苦しめる言葉にできない苦悩を口にすることはできません。答えを見い出すことのできない多くの疑問が、私の中に存在しています。私はそれを打ち明けるのが怖いのです。それが神を冒涜(ぼうとく)することであると思うと……。もし神がおられるのなら、どうか私を許してください。すべてがイエスとともに天国で終わるという希望を、信じさせてください。(中略)

――その言葉は何の喜びも私にもたらしません。神が私を愛していると教えられてきました。しかし闇と冷たさと虚しさに満ちた現実があまりにも大きいため、私の心は何の喜びも感じることができません。私が(奉仕の)仕事を始める以前には、愛も信仰も神への信頼も祈りも犠牲精神も私の中にありました。主の呼びかけに忠実に従う中で、私は何か間違いをしでかしたのでしょうか? 主から与えられた奉仕の仕事に、私は疑いを持ってはいません。その仕事は私個人のものではなく、神ご自身のものであると確信しています。(中略)

彼等同じ奉仕に携わるシスターたちや世の人々)は、私の心の中には神への信仰と信頼と愛が充満し、神との深い交わりと神のご意志との結びつきが心を駆り立てているに違いないと思っています。彼らは、私が表面上の明るさという仮面によって、どれほどの虚しさと苦悩を覆い隠しているのかを知りません。(中略)神よ、あなたはあまりにも小さき者に何をしておられるのですか?」

マザーはこのように“神の不在感”という「心の闇(霊的闇)」の苦しみを、しぼり出すようにして神に訴えています。しかしその後で――「もしこれがあなたに栄光をもたらすのなら、もしこれであなたが喜びを得るのなら、もしこれで人々の魂があなたの御許(みもと)に導かれるのなら、もしこれが主(イエス)の渇きを十分に満たすことになるのなら、私は喜んで、人生の最後までこの苦しみを受け入れます」と述べ、キリスト教の信仰者としての道を歩むことを誓っています。

ところがその2ヵ月後には、再び同じような内容の手紙をピカシー神父に送っています。「心の闇」の苦悩を告白し、神への悲痛な祈りを綴っています。

「主よ(イエス様)、あなたは幼少期より私を召命され、あなた自身のものとしてこられました。私たちは共に同じ道を歩んできましたが、今、私はそれに背いて別の道を行こうとしています。地獄にいる者は、神を見失ったために永遠の苦しみを味わうようになると言われていますが、そうした彼らでも“神がいる”というわずかな希望があるならば、あらゆる苦しみを耐え忍ぶことができます。

しかし私の魂は神を見失い、神が私を必要としていない、神が存在していないという魂の激痛に苛(さいな)まれています――主よ、どうか私の不敬をお許しください。私は「すべてを語るように」と言われました――私をすっぽりと取り囲んでいる闇の中で、私は自分の魂をあなたに向けて高めることができません。光もインスピレーションも私の魂に入ってきません。私は人々の魂に向けて、神の慈愛を語っていますのに……

私は、いったい何のために働いているのでしょうか? もし神が存在しないとするなら、魂は存在できません。もし魂がないのなら、主よ(イエス様)、あなたも真実ではありません。(中略)

私の心には信仰がありません。愛も信頼もありません。あまりにもひどい苦痛があるだけです。(中略)あなたと私との間には、恐ろしいほどに高い垣根(分離)があります。私はもうこれ以上、祈ることはできません。あなたと私を結びつける祈りは、もはや存在しません。私はもう祈りません。私の魂はあなたと一つではありません。(中略)

私はあなた(イエス様)が、大きな愛と力をもって私を今の仕事に召命された事実を疑ってはいません。私を呼び寄せられたのがあなたであったことを、私は知っています。この仕事は、あなた自身がなすべきものであるからです。しかし私には信仰がありません。私は信じていません。イエス様、私の魂を惑わせないでください。」

やはりこのときも神への訴えの後に――「もし私の痛みと苦しみが、私の暗闇と分離があなたを慰めることになるのなら、主よ(イエス様)、私をあなたの望まれるようになさってください(中略)。私はあなた自身のものです。私の魂に、あなたの心の苦しみを刻印してください。私の感情を気にしないでください。私の痛みを心にとめないでください。(中略)主よ、今だけでなく、今後永遠に私が苦しみ続けることをあなたが望まれるのなら、あとのことは心配しないでください。たとえ苦痛で弱った私の姿を見ても……。これは、すべて私の願いです。私はいかなる犠牲を払ってでも、あなたの渇きを癒して差し上げたいのです」と述べ、心の闇の苦しみの中にあっても、すべてをイエスに委ねて受け入れ、キリスト教の教義にそった方向で内面解決の道を見い出そうとする態度を表明しています。

大きく乱れ、激しく揺れ動くマザーの心の様子が手にとるように伝わってきます。

◆1961年(マザー51歳)……ノイナー神父への告白

「ここ11年間で、私は初めて闇を愛することができるようになりました。なぜなら今の私は、この闇が地上でイエスが味わった闇と痛みのほんの小さな一部分にすぎないことを信じているからです。」

マザーはノイナー神父の霊的指導によって「心の闇(霊的闇)」を、イエスから与えられた仕事の一部分として理解し、自分が体験している闇の苦痛をイエスが味わった苦しみとして受け入れようとしました。このときマザーは、これまで闇で傷ついた心を一時的に開放することができたようです。明らかにマザーにとって霊的な転機・信仰の転機が訪れたようです。しかし、それによってマザーの心に完全な安らぎ・平静がもたらされたわけではありません。依然として「心の闇」は存在し続けたのです。

半年後、マザーはノイナー神父に次のような告白をしています。

「私自身について言えば、闇はとても暗く、痛みはとても辛いために、何も語ることはできません。時々、苦痛の支配がとても大きいのです。 “神よ、助けてください”という私の魂の叫び声が聞こえるのです。(中略)私の前にいるシスターたちは、神を愛し、神に近づき、日々成長の歩みをしています。しかし私は、孤独そのものなのです。空虚で、神から除外され、求められていません。」

◆1962年(マザー52歳)……ピカシー神父への告白

「神はこのような状態にある私から、いったい何を得ることができるのでしょうか。私には信仰もなく、愛もないのです。先日来、私の心がどれほど暗く落ち込んでいたか、語ることさえできません。(中略)闇はあまりにも暗く、痛みはあまりにも辛いのです。(中略)

人々は、私の信仰を見て、神のもとへ引き寄せられると言います。これは人々を偽っていることにならないでしょうか? 私は、本当のことを言いたいのです。“私には信仰はありません”と伝えたいのです。しかし、その言葉を口にすることはできません。」

◆1964年(マザー54歳)……ピカシー神父への告白

「私の魂は、あまりにも暗く、あまりにも痛く、あまりにもひどいのです。(中略)私は神を拒絶したい気がします。私にとって何よりも耐え難いのは、神の存在を渇望する強烈な思いなのです。この苦痛に満ちた心の闇のために、私がイエスからユダになってしまうことがないように祈ってください。

◆1965年(マザー55歳)……ノイナー神父への告白

「私の心と魂が求めに求めている主がいなくなってから、私の心には何も存在しません。孤独があまりにもひどいのです。どこにも頼れる人は見つかりません。神は霊的なものだけでなく、人の助けさえも奪ってしまわれました。私は誰とも話をすることができません。たとえできたとしても、私の魂には何も入ってきません。(中略)神がいないことはどれほど辛いことでしょう。祈りもなく、信仰もなく、愛もありません。」

◆1967年(マザー57歳)……ノイナー神父への告白

「これノイナー神父と会ったのに何も話せなかったこと)は、私の魂がどれほど空虚かということを示しています。(中略)私の魂はどれほど神を、ただ神だけを追い求めていることでしょうか。神がいないことが、私の心にどれほど大きな痛みをもたらしていることでしょうか……。」

◆1979年(マザー69歳)……ピート神父への告白

ノーベル賞受賞の3ヶ月前]

「イエスは、あなた(ピート神父)を非常に愛しておられます。(中略)しかし私はといえば、沈黙と虚しさがあまりにもひどく、見ようとしても何も見えず、聞こうとしても何も聞こえません。祈りで舌は動きますが、何も話せません……(中略)どうか私のために祈っていただきたいのです。」

すでに69歳になったマザー、しかもノーベル賞を受けようとする直前においてもその心には依然として“神の不在感”が横たわり、彼女を悩ませ苦しめていました。

◆1985年(マザー75歳)……アルバート・ヒュアート神父への告白

「私がシスターや人々に神や神の仕事について口を開くとき、その人たちに光と喜びと勇気をもたらすことをよく理解しています。しかしその私は、光も喜びも勇気も何も得ていないのです。内面はすべて闇で、神から完全に切り離されているという感覚です。

ヒュアート神父は、2001年、マザーとピカシー神父との間に交わされた手紙を神学雑誌に載せ、マザーの「心の闇」の存在を初めて世間に公表しました。

ノーベル賞を受賞してから他界するまでの期間にも、マザーが神父たちに内面の問題を相談していたことが“Come Be My Light”の中(第13章)で明らかにされています。死が迫った時期においても「心の闇」に苦しみ内面葛藤の日々を過ごしていた事実を、1995年マザー85歳、死の2年前)にマザーと会ったカーリン主教が証言していますただしカーリン主教は、彼がマザーに「霊的枯渇状態を主(イエス)からの特別な贈り物として神に捧げるように……」と提案すると、マザーはその言葉を受け入れたとしています)

聖人と目(もく)されてきたマザーが“神に対する疑念”を告白していたことは、多くの人々にたいへんな驚きとショックを与えました。まさかマザーにこんな一面があったとは、誰も想像していませんでした。しかも驚いたことに、その「心の闇」はずっとマザーに付きまとい、マザーが他界する直前まで続いていたのです。

「心の闇」と、キリスト教の教義による受容との間の内面葛藤

今回出版された“Come Be My Light”の編集執筆者(コロディエチェク神父)は、マザーの「心の闇(霊的闇)」の存在に焦点をしぼり、その事実を世間に公表しました。この本はカトリック関係者によって出版されたことから明らかなように、マザーの「心の闇」を不信仰という形で示そうとしたものではありません。また、マザーの告白内容によってキリスト教のイメージが崩されるようになるとは考えていなかったことも分かります。

編集執筆者は、マザーに「心の闇」があり、それがマザーの人生の50年近くにわたって存在し続けてきた事実を示すと同時に、マザーが「心の闇」の悩みを複数の神父たちに告白し、キリスト教的な霊的指導を受ける中で教義に従って乗り越えようとしてきた歩みも伝えています。

マザーが自分の霊的指導者たちに「心の闇」の苦しみを訴えるたびに、彼等はキリスト教の教義にそった答えを示し、「心の闇」に対する姿勢や克服の方法(考え方)を教えてきました。キリスト教の中に身を置いているマザーには、神父たちが示す方向性は満足できるものではなくても、正しいものとして受け止められていたはずです。

特に「心の闇」が発生するようになって10年ほど経ったとき1961年、マザー51歳のとき)に出会ったノイナー神父による指導は、マザーの心を揺り動かして大きな転機をもたらすことになりました。そのときマザーは、初めて得心がいく答えを与えられたと思ったようです。ノイナー神父との出会いがきっかけとなり、「心の闇」を前向きに積極的に受け止めようとする姿勢に変っていくことになります。しかし、それによってマザーの心から闇が消滅したわけではありません。その後も他界するまで苦しみは延々と続くことになります。

マザーは、神父たちに「心の闇・霊的渇きの苦しみ」を訴え、彼等によるキリスト教的な指導を受け入れ心を治めようとします。それでもマザーの「心の闇」は消え去ることはなく、ある神父に悩みを打ち明けたかと思えば、また別の神父に相談するといったことを終生続けていったのです。

マザーのこうした心の動きをたどっていくと、自分が抱える「心の闇」とキリスト教の教義との間で激しく揺れ動き、苦悩してきたことが分かります。何よりも死を控えた時期においても心が満たされない状態を訴え、指導を仰いでいたという事実は、マザーが人生の最後の最後まで内面葛藤の苦しみの中にあったことを端的に物語っています。

        

【2】マザー・テレサの「心の闇」に対する、さまざまな反応

マザー・テレサという“信仰者の鑑(かがみ)”と思われてきた人物が“神の存在への疑念”を抱いていたという事実は、キリスト教関係者に衝撃を与えただけでなく、他の宗教や一般の人々の間にも大きな反応を引き起こすことになりました。

ここではマザーの「心の闇(霊的闇)」の告白に対する、さまざまな反応と見解を見ていきます。

キリスト教関係者の見方・見解

キリスト教関係者は、マザーの「心の闇」を信仰の危機として捉えるのではなく、むしろその闇はマザーの信仰にとってプラスをもたらすものであったと認識しようとします。マザーの苦悩をイエスや貧しい人々の苦しみと重ね合わせ、それはイエスや貧しい人々と苦しみを分かち合い共有する体験であったとするのです。そしてその内面葛藤を通してマザーは、人類を救おうとするイエスの苦しみの一端を担うことができたと言うのです。

実際にマザーは、こうしたキリスト教的な考え方にそって「心の闇」の苦しみを受け入れようとします。それがイエスの使命に寄与することであり、イエスから与えられた自分の使命であると理解しようとしたのです。キリスト教関係者の多くは、マザーは信仰における喜びと苦しみの両方を体験しながら信仰の道を全うした、としています。

“Come Be My Light ”の編集執筆者であるコロディエチェク神父も、まさに同じように捉えています。彼は「結び(最終章)」で次のように述べています。

マザーが最初、イエスから召命されたときには、彼女は光で満ち溢れていました。マザーが聞いたその声は、彼女の魂を神の近くに引き寄せ、よりいっそう神を求めさせることになりました。ところが神の光は、その後すぐに不在の闇となってしまいました。あとに続いた寂しさは、マザーがそれ以前に味わった強烈な慰め・喜びと同じくらい激しいものでした。

マザーは十字架の秘密を共有するために、キリストの受難を通して神と一つとなるために、また彼女が奉仕する貧しい人々と一つとなるために召命されました。イエスの苦しみを共有することで、マザーは『貧しい人々の中の最も貧しい人のため』というイエスの渇きの痛みを深く認識することになりました。彼女が体験し手紙に記した心の闇は、容赦のない苦痛でした。(中略)この厳しい試練の最初から最後まで、マザーは自分の使命に忠実であり続けました。(中略)イエスから愛されず、必要とされていないと感じる心の痛みを乗り越えて、マザーはイエスへの愛を示すために、またイエスに喜びを与えるために、最大限の努力をしました。(中略)マザーの闇の苦痛は、磔(はりつけ)にされた配偶者(イエス)と彼女をより親密に結びつけることになりました。」

キリスト教関係者が言うように、マザーの「心の闇(霊的闇)」がイエスの苦しみを共有する体験であるとするなら、それはイエスと固く結ばれるきっかけとなります。苦しみに耐えることでイエスとの絆が深まり、苦しみは喜びへと引き上げられることになります。さらに苦しみが大きければ大きいほど、イエスとの関係は密接なものとなり、より大きな喜びが得られるようになります。事実、マザーはこうしたキリスト教的な解釈によって「心の闇」を受け入れ、その苦痛を乗り越えようとしました。

しかしそのような解釈では、マザーの魂から発する“霊的欲求”を満たすことはできませんでした。一時的には理性で納得しても、時間をおくと再び心の中に闇の苦しみが湧き起こり、激しい葛藤を繰り返すことになりました。そしてその苦しみは、人生の最後に至るまで続いていくことになったのです。

カトリック教会サイドでは、マザーは「心の闇」を抱きつつも、霊的指導者たちの導きを受けてそれをキリスト教的に受け止め、喜びに転じていくようになったと考えています。「心の闇」は確かに存在したけれど、それはマザーにとって決定的な信仰の危機を招くような深刻なものではなかったと捉えています。

しかし現実には、マザーは繰り返し闇にとらわれ、悩み苦しんできました。マザーの心は「霊的闇」の苦悩と「キリスト教的な解釈」による克服という葛藤の中で激しく揺れ動き、その葛藤は死を迎える直前まで続いていたのです。こうした事実からして、キリスト教関係者が主張するように「心の闇」がマザーの信仰にプラスになったとは、とうてい考えられません。

「心の闇」の苦しみは、イエスの苦しみを共有する体験であるとの認識は、キリスト教の教義に基づくものです。しかしその教義自体が間違っているとするなら、「心の闇」をキリスト教的な解釈によって乗り越えようとしたマザーの内面葛藤は、すべて的外れであったということになってしまいます。

スピリチュアリズム”から言えば、マザーの「心の闇」の問題はキリスト教の教義の間違いから発している、ということです。キリスト教会の霊的真理に対する無知が、マザーを長期間に及ぶ苦悩の道に追いやることになったのです。キリスト教の教義の間違いが、マザーに「心の闇」という悲劇をもたらすことになったのです。

こうした点については【5】で詳しく取り上げます。

他宗教やキリスト教他宗派の見方・見解

エスを救世主とは認めないキリスト教以外の宗教イスラム教・ユダヤ教・仏教など)からすれば、熱心なクリスチャンであったマザー・テレサが神の存在に疑念を抱き、人生の長い期間を苦しみ続けてきたという事実は、キリスト教の教義そのものの間違いを証明しているということになります。

一方、マザーと同じキリスト教に属しながらも、正統派の教義三位一体論・贖罪論など)を認めないキリスト教の他宗派の人々も、カトリックの教義が間違っていたためにこうした結果を招いたのだと考えます。そして自分たちの宗派の教義こそが真実であるとの優越心に浸ることになります。

しかし、そうした他宗教・他宗派に属する人々が自分の心を厳しく見つめてみたとき、本当に神の存在を実感していると断言できるでしょうか? また自分と同じ宗教・宗派に属する者たちがマザーの心の揺らぎを非難できるほど立派な人間であるかどうか考えてみれば、必ずしもそうとは言えない現実に気づくはずです。誰もが、マザーを非難する資格がないことを自覚するようになるはずです。

他宗教・他宗派の中に、教義どおりの信仰を全うしている人間が、果たしてどれほどいるでしょうか? もしかしたら一人もいない、ということになるかもしれません。このように考えていくと、マザーの「心の闇」の苦しみは、宗教・宗派を超えたある意味でいずれの信仰者にも共通する問題であることが分かります。

自分たちの宗教・宗派こそが正しい教えを説いているとし、それを基準にマザーを非難することは間違っています。どのような宗教・宗派の教えであっても「霊的事実」に照らしてみれば、多くの間違いを含んでいます。その間違った教義に忠実にそっていこうとすると、やがてその矛盾が苦しみとなって表面化してくるようになるのです。マザーも、キリスト教カトリック)の間違った教義を信じて真剣に歩んできたために、悲劇的ともいえる苦しみに遭遇することになってしまったのです。

マザーの真価は、「利他愛」という神の摂理に忠実に従ったところにあります。この点でマザーは、他の宗教・宗派の人々に優っています。マザーのように民族・宗教の壁を越えて自己犠牲的な人生を送った人間は、めったにいません。確かにマザーは、信仰的な悩みを持ち続けました。しかし「霊的観点」から言えば、実際の無私無欲の献身的な行為こそが、マザーの真実の「霊的価値・霊性」を示しているのです。

他宗教・他宗派の人々が、神の存在に疑念を持ったという点を引き合いに出してマザーを“不信仰”と非難することは簡単ですが、彼らも(次で述べる)無神論者たちの目には、マザーと何も変らない“偽善的人間”に映るはずです。

無神論者・唯物論者の見方・見解

マザーが「心の闇」を抱いていたことに対して、最も辛らつな批判を浴びせるのは、言うまでもなく神の存在を受け入れない無神論者たちです。“無神論者”からすれば、現実にいるはずがない神を信じ、そのために人生のすべてを捧げるというようなことは、愚かな行為以外の何ものでもありません。無神論者にとっては、マザーだけでなく他宗教・他宗派の信仰者も皆、等しく偽善者なのです。

しかし無神論が正しいという根拠はどこにもありません。無神論者は、「無神論」という宗教(思想)の信者と言えます。勝手に“神はいない”と思い込んでいるにすぎないのです。神を信じる宗教をすべて一括(ひとくく)りにして“アヘン”と決めつけることは、知性の乏しさを物語っています。神の存在を頭から否定したり、物質という目に見えるものしか信じようとしないことは、その人間の霊性の低さを示しています。無神論者・唯物論者が信仰者を非難するとき、その顔にはしばしば軽蔑(けいべつ)の表情が浮かんでいます。

しかし考え方によっては、そうした無神論者もある意味で必要な存在と言えるかもしれません。なぜなら、それは間違った教義を押し付け、人々を霊的奴隷状態に陥(おとしい)れてしまうこの世の宗教に対する牽制(けんせい)になるからです。人々の魂を牢獄に閉じ込めてしまう間違った宗教は、無神論者よりもさらに質(たち)が悪いのです。

したがって無神論者・唯物論者が、今回のマザーの「心の闇」の問題について“それ見たことか”と非難するのに対して、スピリチュアリズムでは彼らの主張にそれなりの正当性を認めるのです。この世のほとんどの宗教は霊的真実から外れた間違った教えを説き、それを人々に強いています。その結果、純朴な人々を“霊的牢獄”に閉じ込め、霊的成長を妨害することになっています。地球上のすべての宗教が、こうした大罪を犯しているのです。

霊的観点からすれば、マザーも間違った宗教ドグマの犠牲者の一人であった、と言えるのです。

心理学者の見方・見解

マザーの「心の闇」の問題を、信仰的な観点からではなく、心理学的な観点から解釈しようとする人々もいます。マザーという信仰者の見本ともいうべき人間が、どうして神の存在に疑念を持つようになったのかを、人間の心理の面から探ろうとするのです。信仰心の中身にアプローチするのではなく、マザーの「心の闇」を心理状態の変化の面から、あるいは精神現象の面から捉えようとするのです。

しかし、そもそも信仰心の何たるかも分からない心理学者が、信仰者の心をあれこれ詮索(せんさく)するということ自体、僭越(せんえつ)としか言いようがありません。心理学的なアプローチというと、何かしら客観的でアカデミックであるかのように映りますが、その結論は往々にして的外れのことが多いのです。

マザーの心に闇が生まれるについては、マザーの個人的な性格が関係していることは明らかですが、それが「心の闇」の主な発生原因ではありません。マザーのような激しい性格が信仰と結びつくと、徹底して純粋さを追及するようになります。当然、視野は狭くなって心のゆとりが失われ、取り越し苦労やさまざまな悩みを抱え込むようになります。しかし同じカトリックの修道者の中にも、マザーと似た性格を持った人間や、同様の立場に置かれた人が多くいます。そうした人たちが皆、マザーのような「心の闇」を持つようになるわけではありません。

仕事の多忙さ・修道院運営の責任の重さ・貧しい人々と触れ合う時間の減少といった点が、マザーの「心の闇」の発生原因として指摘されることもあります。しかしこうした問題も、マザーだけに当てはまるものではありません。またマザーが神秘体験で味わった衝撃がある種のトラウマになって、そこから苦しみが発生するようになったとの心理学的な説明がなされることもあります。

確かにマザーの「心の闇」は、36歳のときの神秘的な特殊体験から発生するようになりました。その点から考えると、マザーの「心の闇」は一種のトラウマと言うことができます。ただしマザーの「心の闇」は霊的次元から発生しているものであって、心理学が対象としている表面的な精神現象ではないのです。

マザーの「心の闇」の真相を明らかにするためには、心理学的アプローチではなく心霊学的アプローチが必要とされるのです。

マザー・テレサのファンを自認する人々の反応

生前のマザーのイメージが崩されて最もショックを受けたのが、“マザーファン”と言われている人々ではないでしょうか。キリスト教関係者が大きなショックを受けたのは当然のことですが、先に述べたように、キリスト教では「心の闇」を善いものとして位置づけすることができます。

しかしこれまで一方的にマザーを理想化してきた人々にとって、マザーの「心の闇」の公表は、たいへんな混乱を引き起こすことになりました。ある人はマザーの隠された信仰的苦しみの深さを知り、信仰の世界の凄まじさを見せつけられ、信仰のない自分がマザーを勝手に理想化し慕ってきた軽率さを恥じるようになったかもしれません。実際のマザーは、無邪気なマザーファンが考えているような人間とは全く違っています。マザーは、神(イエス)に対して一途で強烈な憧れを抱き、それを実感できない苦痛に苛(さいな)まれてきました。マザーは、表と裏の異なる2つの顔を持った人間だったのです。

世の中には大勢のマザーファンがいます。彼らはこれまでマザーの表に現われた部分、メディアで取り上げられた「表の顔」だけを見て、マザーのファンになってきました。彼らの多くが、マザー・テレサのファンであると自認することによって、自分自身が善人になったかのように思い込んできました。あるいは周りの人々から善人と思われることを期待して、そうしてきたのかもしれません。

しかしマザーの本当のファンであるなら、何よりもマザーの無私無欲の生き方を見習うべきです。献身的・犠牲的なマザーの生き方に倣(なら)って、自分の人生を自分より恵まれない人々のために捧げるべきです。マザーのファンになるということは、人間の目ではなく神の目を気にして、純粋な奉仕的人生を送ることなのです。

そうした努力がないところでマザーのファンを公言するのは、ある意味でマザーを利用することであり、自分自身を欺(あざむ)くことになってしまいます。それは本質的には、この世の人々が歌手やタレントやスポーツ選手のファンになるのと同じことなのです。

        

【3】マザー・テレサの「表の顔」と「内面の闇」……マザーの二面性と、その大きなギャップ

マザーのキリスト教に基づく奉仕精神と「神の愛の宣教者会」

世界中の人々がマザー・テレサの中に、確信に満ちた神への信仰と明るく積極的な行動力、そして純粋に自己を犠牲にする利他愛・奉仕精神を見てきました。実感のともなった揺ぎない神への信頼と、祈りを通してのイエスとの深い交わりこそが、マザーの活動の原動力であると思ってきました。マザーが語る言葉は、国家や民族・宗教の壁を越えて、多くの人々の心に感動と勇気と励ましを与えてきました。世界中の人々がマザーの姿から、人間の尊厳と理想的な生き方を学ぶことになりました。

マザーは1950年、40歳のときにインドの貧民街に「神の愛の宣教者会」をつくり、貧しい人々の中の最も貧しい人に愛の手を差し伸べ、神とイエスの愛の教えを啓蒙してきました。一人一人の人間は神にとってかけがえのない存在であるということを奉仕活動を通して人々に気づかせ、理解させようとしてきました。マザーは、「あなたが私の兄弟にしたことは、私にしてくれたことである」というイエスの言葉の真実性を、自らの行為によって人々に伝えようとしたのです。こうした精神のもとに、マザーは「神の愛の宣教者会」を始めることになりました。

マザーは、この世から見捨てられ、今にも息を引き取ろうとする哀れな人々の中にイエス・キリストの姿を見ました。彼らに仕えることは、人類のために自ら苦しみを引き受けたイエスに仕えることであると考え、喜びを持って奉仕に携わってきました。マザーは――「人間にとって最も貧しいことは、飢えて食べられないことではなく、社会から見捨てられ、自分はこの世に生まれてくる必要がない人間であったと思うことである。その孤独こそが最大の貧困である」と繰り返し述べています。

マザーが目指したのは、物質次元での施(ほどこ)しや上からモノを与えるといったボランティア活動や表面的な人助けではなく、人間の尊厳に基づく「魂への奉仕(霊的奉仕)・神の愛に倣った利他愛の実践」だったのです。マザーはこの世から見捨てられた最も貧しい人々に、神から必要とされていること・愛されていることを自覚させる“霊的救い”を目的とした奉仕活動を展開しようとしたのです。

マザーが設立した「神の愛の宣教者会」は、徐々にその存在を知られるようになり、多くの人々の注目を集めるようになっていきました。そしてマザーのキリスト教徒としての純粋な生き方は、世界中の人々に感動を与えることになりました。

ノーベル平和賞”受賞のスピーチ

マザーはこうした奉仕活動の理念を、絶えず人々や教会関係者に語ってきました。1979年、マザーの献身的な奉仕活動が認められ“ノーベル平和賞”を受賞することになりました。その際――「祝賀会にかける時間とお金があるのなら、それを私にください。それで何万人もの貧しい人々を救えます」と言って祝賀会を断ったマザーの感動的なエピソードが伝えられています。それはマザーの奉仕精神が本物であることを示した素晴らしい出来事でした。

マザーは“ノーベル賞”受賞のスピーチの中で、次のような言葉を述べています。

「私は、いただいたノーベル平和賞の賞金で、家がない多くの人々のためにホームをつくろうと思います。なぜなら“愛”は家庭から始まると信じているからです。もし貧しい人々のために家をつくることができたなら、もっともっと愛が広がっていくと思います。そして愛を理解することによって私たちは平和をもたらし、“貧しい人々”――家庭の中の、国家の中の、世界の中の貧しい人々に福音をもたらすことができるでしょう。(中略)

エスが私たちを愛したように、私たちもお互いに愛し合いましょう。完全な愛で、イエスを愛しましょう。もうすぐクリスマスを迎えるこの時、イエスを愛する喜びやお互いを愛する喜びを与えていきましょう。私たちの心に、イエスを愛する喜びを持ち続けましょう。出会うすべての人々に喜びを分け与えましょう。喜びを放つものは本物です。私たちはキリストと共にいないかぎり、幸せにはなれません。キリストは私たちの心の中にいます。キリストは私たちが出会う貧しい人々の中にいます。(中略)

私たちにはイエスがいます。イエスは私たちを愛しています。もし私たちが、神(イエス)が私たちを愛しているということを忘れさえしなければ、イエスが私たちを愛するように、私たちもお互いに愛し合うことができるのです。大きなことをしようとするのではなく、どんな小さなことにも愛を込めて行うことが大切です。そうすればノルウェーは、真実の愛があふれる場所となるでしょう。」

ここにはキリスト教の愛の教えを純粋に結晶化させたようなマザーの崇高な精神が語られています。キリスト教の信仰者の模範と言ってもいいような姿勢が示されています。マザーのスピーチに世界中の人々が感動し、敬愛の念を寄せたことは言うまでもありません。

以上が、これまで世に知られてきたマザーの「表の姿(顔)」の一端です。多くの人々がマザーの生き方を自分の人生の手本とし、またある人はマザーを理想化し、熱烈に憧れることになりました。

マザーの「裏の顔」

ところが2007年、“Come Be My Light”の出版によって、こうしたマザーの「表の顔」の奥に、「心の闇(霊的闇)」という全く反対の「裏の顔」があったことが広く知られるようになりました。それまで人々の目に映っていたのは、自信に満ち、信仰の中で常に神(イエス)と一体化し、喜びと感謝に溢れ、一切の苦しみを超越しているマザーの姿でした。そのマザーとは正反対の、もう一人のマザーの姿が明らかにされたのです。神の存在に対する確信が得られず、「イエスが自分から去ってしまった、イエスに愛されていない」と感じ、孤独に悩む哀れなマザーの姿が表に出されたのです。

“Come Be My Light”によれば、マザーはイエスによって貧困者救済の召命を受けてから他界するまでのほとんどの期間を「心の闇」を抱えて生きてきたことになります。本格的な奉仕活動を始めてから亡くなるまでの間、ずっと神の存在に疑念を抱き、煩悶(はんもん)してきたことになります。“信仰者の鑑(かがみ)”と賞讃される外面とは対極的な、ある意味で“信仰心が薄い者”と言ってもいいような内面の問題をひきずったまま人生を歩んできたということです。

もし、マザーの「心の闇」が若い一時期に限定されたものであって年齢を重ねるとともに克服していったとするなら、その苦しみは信仰を深め強固にする“良き試練”であったということになるでしょう。晩年のマザーの篤(あつ)い信仰心は、若い頃の内面の試練を乗り越えた結果として獲得されたものであったと考えられます。実際、今日まで多くの信仰者が、若い時期に霊的試練・信仰的試練に遭遇し、血みどろの内面の闘いを通してそれを克服した後に、立派な信仰的人格を確立しています。そして晩年には神とともに歩む静かな境地に至っています。

しかしマザーの場合は、そうしたケースとは全く異なっています。40歳の頃に始まった「心の闇」という試練は、マザーが亡くなる87歳まで延々と続いていたのです。その点からして、マザーは「心の闇」を克服することなく他界したということになります。

マザーが「心の闇」に苦悩していたという事実は、多くの人々に大きな衝撃を与えることになりました。マザーが語る積極的で自信に満ちた言葉を人生の拠りどころにしてきた人々は、強いショックを受けました。これまでマザーの「表の顔」だけが世界中に知れわたり、内面の悩み・苦しみは一切知られてきませんでした。人々はマザーの「表の姿」だけを見て感動し、憧れ、尊敬してきました。マザーの生き方を人生の手本とし、時には理想化してきました。見方によっては世界中の人々が、マザーの言葉や姿によってつくり上げられたイメージに騙(だま)されてきたと言えるかもしれません。

マザーの表の言葉と現実のギャップ

マザーはノーベル賞の受賞スピーチで力強く神とイエスの愛を語りました。そしてお互いに愛し合うことの重要性や人工中絶の罪を訴えました。マザーのスピーチは、これまで人々が思い描いてきたマザーのイメージを明確に示していました。

しかし先に述べたように、このスピーチの3カ月前、マザーは霊的指導者のピート神父に、それとは正反対の告白をしているのです。「私はといえば、沈黙と虚しさがあまりにもひどく、見ようとしても何も見えず、聞こうとしても何も聞こえません」と、自分の哀れな姿をさらけ出しています。ノーベル賞の受賞スピーチとこの告白を比較してみれば、天と地ほどの食い違い・ギャップがあることが分かります。明らかに一方は“光”で、一方は“闇”です。

マザーの言葉の二面性は、至るところに見られます。もう一つ実例を挙げることにします。マザーは1993年、「神の愛の宣教者会」の全メンバーに宛てて「ベナレスからの手紙」を書いています。これはマザーの死の5年前の手紙で、マザーの遺言としてよく知られているものです。  その手紙の中でマザーは、次のように述べています五十嵐薫著『マザー・テレサの真実』PHP研究所発行より引用)

「私はあなた方の中で、まだ本当にイエスと出会っていない人がいることを心配しております。一対一、すなわちあなたとイエスだけで、という意味です。(中略)あなたは本当に生きているイエスを知っていますか。それは本からではなく、あなたの心の中で、あの方と共にあり続けることによって知るのです。(中略)日常、イエスと親しく触れ合うことを諦めてはいけません。(中略)

あなたは信じられますか。もしそれエスが “I THIRST”「私は渇く」と語りかけていること――筆者)が信じられるのであれば、あなたにはイエスの声が聞こえるでしょう。イエスが現存していることが感じ取れるでしょう。あなた方一人ひとりが、イエスと密接な関係になりなさい。(中略)あの方(イエス)が呼ばれる、あなた本来の名前を聞きなさい。一度きりでなく、毎日聞くのです。心を込めて聞こうとすれば、きっと聞けるようになり、きっと理解できるようになるでしょう。

(※下線は筆者による)

ここには、まさにマザーの「表の顔」が明確に示されています。しかし実際にはマザーは、神(イエス)の愛を求めても得られない苦しみを神父に告白しているのです。マザーがここで述べていることは、本当はマザー自身が必死に求めてきたものです。それが得られないために「心の闇」が生まれ、マザーは苦しみ抜いてきたのです。「イエスと共にあり続ける」――それはマザーが何十年にもわたって煩悶し、求め続けてきたことなのです。

マザーは、自分が必死に求めても得られなかったものを、周りの者たちには“やる気しだいで手にすることができる”と言っているのです。自分には不可能なことを、他人には強く求めていたことになります。このようにマザーの表向きの言葉と現実の心との間には、大きなギャップがあります。

またマザーは、同じ「ベナレスからの手紙」の中で次のようにも述べています。「生きているイエスに個人的に触れ合うことを、妨げようとしているすべてのものに気をつけなさい。悪魔は私たちが人生の痛みを感じたり、過ちを時々起こすことを利用して、イエスが本当にあなたを愛していることを分からなくさせようとしているのです。これは私たちにとって危険で、しかもとても悲しむべきことです。」

ここでマザーは、イエスの存在や愛に対して疑いを持つことは悪魔の計略にはまることである、と厳しく戒めています。しかしそのマザー自身は、神父に対して「私は神から切り離されてしまった」「神の愛が信じられない」「イエスは去ってしまった」などと告白しているのです。

マザーの言い分に従うなら、マザーは悪魔の計略にはめられてしまった、悪魔に騙されていた、ということになります。「表の言葉」と「内面の闇」のギャップが、ここにも見られます。実際には霊界にも地上世界にも、キリスト教で説いているような悪魔・サタンは存在しません。神に対峙(たいじ)し、人々を闇に引きずり込もうとする悪魔・サタンは、空想の産物にすぎません。スピリチュアリズムは霊界の事実として、キリスト教の「サタン存在説」を否定しています。

神(イエス)の存在と愛に疑念を抱くマザーの言葉を聖書の内容に照らしてみれば、明らかに不信仰・神への冒涜(ぼうとく)ということになります。聖書に述べられている「イエスが弟子たちの不信仰を嘆いた言葉」が事実であるとするなら、疑いを拭い去れないマザーは、キリスト教徒の風上(かざかみ)に置けない不信仰者ということになってしまうでしょう。人々から、ひとかけらの疑念も持っていない模範的キリスト教徒と思われていたマザーも、聖書を基準にして見れば“救いようのない人間”ということになってしまいます。

現実のマザーの姿を見据える

ではマザーは、わざとウソをついて「表の顔」をつくってきたのでしょうか? マザーは「裏の顔」「裏の闇の姿」を隠すために、意識して「表の顔」「表の光の姿」を装ってきたのでしょうか?――そうではありません。マザーが持っていた二面性は、この世のペテン師やニセ霊能者が意図的にウソをついて人々を騙すのとは本質的に異なっています。

マザーは故意にではなく、真剣に道を求める中で光と闇という相反する2つの心・正反対の心を持って生きるようになってしまったのです。そしてマザーは、大きな内面の矛盾を抱えて激しく葛藤することになりました。これが現実のマザーの姿・真実のマザーの姿だったのです。

マザーは「内面の闇」に苦悩しながらも、それを表に出すことなく(隠して)、人々のために模範的な信仰者であり続けようとしました。悪く言えばそれは“立派な信仰者を演じてきた”ということになりますが、マザーにとっては「表の顔」も「裏の顔」も意図的なものではなく、両方がともに真実であったのです。相反する2つの心が、ともにマザーの現実だったのです。

私たちはマザーについて、今後はこうした見方をしていかなければなりません。

マザーに対する見方の変更――“子供の見方から大人の見方へ”

マザーについての真実とは、「マザーは表と裏の両方の面を持った人間であった」ということです。マザーを尊敬し、人生の良き手本としてきた純朴な人々にとって、そうした受け止め方はあまり好ましいものではないかもしれません。しかし真実が明らかにされた以上、マザーを一方的に理想化するといった無邪気さは卒業しなければなりません。

マザーを尊敬する人々の大半が善人であり、純朴であり、奉仕精神を持っていることは明らかです。そうであるからこそ、マザーという生きた見本に憧れることになりました。しかし、いつまでもそうした見方をすることは、霊界にいるマザーを喜ばせることにはなりません。むしろ苦しめることになってしまうのです。

マザーは、自らの闇の部分を人々に知られないように「表の顔」に徹する努力をしてきたと思われます。マザーの二面性は悪意から発したものではなく、善意から出たものと考えるべきなのですマザーが生前、「神父たちに宛てた手紙を処分してほしい」と再三にわたって願い出ていたのは、「自分を慕っている人々にショックを与えたくない」との思いがあってのことと推察されます)

これまでマザーについて著した本の大半が、マザーの「表の顔」だけを取り上げてきました。マザーの美しく理想的な姿・感動的な一面だけを伝えてきました。いずれの本も、マザーの真実の半分を知らせてきたにすぎません。彼ら(本の著者たち)もマザーの「裏の顔」を知らなかったために、結果的にマザーの虚像をつくり上げることになってしまいました。

今、マザーの「心の闇」について明らかになった以上、私たちはマザーに対する見方を変更していかなければなりません。これまでのようにマザーの力強い感動的な言葉や献身的な奉仕精神を讃美するだけでなく、マザーも私たちと同じように悩み・苦しみながら生きてきた人間であることを認めなければならないのです。その大前提に立って、マザーの本当の価値を再評価すべきなのです。

マザーの心に闇が発生するようになった要因としては、さまざまなことが考えられます。「性格的な要素(あまりの純粋さ・激しさ)」「キリスト教の教義の間違い」「神秘体験に対する無知」といった原因が挙げられますこうした問題については【5】以降で詳細に述べていきます)。マザーは、キリスト教の教えに忠実でありたいと願い、神秘体験に対する霊的知識もない中で――まさにそれは“闇”の環境と言えますが――精いっぱい良心の命令に従って生きてきました。大きなハンディを背負って、ひたすらキリスト教の愛の実践者として歩み続けたマザーを、私たちは正しく理解しなければなりません。マザーの真実の姿を、しっかりと見つめなければなりません。

これまでのような単純にマザーを理想化するといった無邪気で子供っぽいあり方を脱し、ありのままの姿を認め、その中からマザーの真の価値を見出し尊敬していくという大人としての見方と寛容性が、私たちに要求されるのです。霊界でのマザーの歩みを考えると、なおさらそうしたことが言えるのです。

マザーの「心の闇」の存在が公表された今、私たちはマザーに対する見方と態度を子供から大人へと変化させていかなければなりません。スピリチュアリズムは、マザーの表と裏の両面をそっくりそのまま認め、その上でマザーの本当の価値を「霊的事実」の観点から明らかにしています。

マザーを一方的に理想化するあり方も、闇の存在を攻撃材料として“すべての信仰はウソ、マザーもウソつきである”とする考え方も、ともに間違っているのです。

        

【4】イエスとの出会いから始まった表と裏の両面

マザー・テレサは1910年、マケドニアで生まれました。1928年、18歳のときに、マザーはマケドニアを離れイエズス会のロレット女子修道会に入り、この年インドに旅立ちました。そしてインドのカルカッタ(現コルカタ)で修道院生活を始めました。

修道女としての奉仕の人生が18年に及んだ1946年、36歳のときに、マザーに大転機が訪れました。それが“イエスとの出会い”という神秘体験だったのです。

エスとの出会いと、「神の愛の宣教者会」の設立

マザーの「神の愛の宣教者会」は、マザーが36歳のときにダージリンへ向かう列車の旅の最中に起きた不思議な体験(神秘体験)が出発点となっています。そのときマザーは、現実さながらの生き生きとしたイエスと出会い、イエスから語りかけられたと述べています。マザーはイエスから、「修道院を出て貧民街に行き、貧しい人々への奉仕活動に携わるように」との召命(しょうめい)を受けたということです。そしてマザーは38歳のときに修道院を出て、院外居住者としての生活を始めるようになります。その2年後、マザーは「神の愛の宣教者会」を開設します。

この「神の愛の宣教者会」での活動が、マザーの名を広く世界中に知らせることになりました。“貧民街の聖女”としてのマザーの「表の顔」はどんどん知れわたり、多くの人々に感動を与えることになりました。マザーは“イエスとの出会い”という神秘体験によって「神の愛の宣教者会」を設立し、気高(けだか)く美しい奉仕者としての「表の顔」の路線を突き進むことになったのです。

エスとの出会いと、「心の闇」の始まり

エスとの出会いという神秘体験が、現在まで知られてきたマザーの「表の顔」を形成していくきっかけとなりました。マザーにとってイエスとの出会いは、まさに人生を根本から変える最大の出来事でした。ところがこの神秘体験が、マザーに歓喜と希望をもたらし奉仕活動に拍車をかけさせると同時に、皮肉にも「心の闇」を生み出すことになったのです。「神の愛の宣教者会」設立のきっかけとなった歓喜の体験が、マザーを苦しめ続ける裏の世界の出発点にもなってしまったのです。

類(たぐい)まれな神秘体験をしたばかりに、マザーは「表の顔」と「裏の顔」という相反する2つの世界を同時進行させて人生を歩むことになってしまいました。周りの人々には、マザーの「表の顔」「表の姿」しか見えません。そのため人々は、時とともにマザーをますます理想化し、「裏の顔」とのギャップを拡大させていくことになりました。それによってマザーは、よりいっそういたたまれない思いを味わうようになったものと想像されます。

エスと出会って召命を受けたという“神秘体験”が、果たしてマザーが語る通りのものであったのかどうか、多くの人々の議論の的になりました。その真相については現在まで明確な見解は示されず、謎のままになっています。世界中のキリスト教関係者や神学者も、マザーを批判する無神論者も、またマザーの献身的な奉仕活動に感動し彼女を理想化してきた人々も、この神秘体験の真相を説明することはできませんでした。

しかしマザーの人生を根底から変えることになった“神秘体験”の真相が明らかにされないかぎり、マザーの本当の姿を知ることはできません。また、マザーの「心の闇」の真実も明らかにはなりません。幸いなことに今“スピリチュアリズム”によって、その真相が解明されることになりました。スピリチュアリズムがもたらした「霊的知識」によって、マザーの神秘体験の真実が初めて明らかにされることになったのですそれについては次の【5】で見ていきます)

マザーの二面性を図示すると次のようになります。

マザー・テレサの二面性

        

【5】マザー・テレサの神秘体験と「心の闇」の真相

          

1.マザーの神秘体験の実際

マザー・テレサは36歳のときに、“イエスとの出会い”という神秘体験によって修道院を出て貧民街に赴(おもむ)くことになりました。やがてマザーは「神の愛の宣教者会」をつくり、本格的な奉仕の人生を歩み出すことになります。一方、その強烈な神秘体験は、マザーに表の顔とは正反対の「心の闇」という裏の顔をつくり出し、生涯にわたって霊的な悩み・苦しみをもたらすことになりました。

マザーの人生を大きく決定した神秘体験については、マザー自身も生前、簡単に語っていましたが、マザーの死後に出版された書籍や今回の“Come Be My Light”によって、さらに詳しい内容が明らかになりました。ここでは2007年に出版された『マザー・テレサの真実』の中から、マザーの神秘体験の内容を見ていきます。

インドのカルカッタ(現コルカタ)で修道院生活を送っていたマザーに結核の兆候が見られたため、マザーは空気のきれいなダージリンに行って静養するようにと命じられました。1946年9月10日、ダージリンへ向かう列車の旅の途中、マザーが祈りをしていると眼前に突如、十字架につけられた現実さながらのイエスの姿が現れました。そしてイエスはマザーに“I THIRST”(※)と叫びました。十字架につけられたイエスの傍(かたわ)らには、母マリアや使徒ヨハネマグダラのマリアの姿も見えました。思いがけない光景に遭遇してマザーは混乱しました。やがてマザーを乗せた列車はダージリンに到着しました。

こうした一連の体験を、マザーはその後、イエスからの直接的な召命であったと理解するようになります。「神の愛の宣教者会」の設立は、この神秘体験が出発点となっています。そのため「神の愛の宣教者会」では、マザーがイエスから召命を受けた1946年9月10日を“インスピレーション・デイ”と呼んでいます。

「私は渇く」という意味のこの聖句は、新約聖書の4つの福音書の中で、ヨハネ福音書だけに出てきます。

ダージリンでマザーが、列車の中での神秘体験をどのように考え受け止めてよいのか分からず一心に祈りをしていると、聖母マリアが現れて「イエスの言われることに“はい”と言って従いなさい。今は分からなくてもその言葉に従いなさい」と語りかけます。その後、決心が固まらないマザーに対して、イエスは再び現れて呼びかけます。イエスの声は、早く次なる行動修道院を出て貧民街に入ること)に移るようにと催促します。

このときの様子を、マザーはペリエール大司教への手紙の中で次のように記しています片柳弘史・編訳『マザー・テレサ書簡集』ドン・ボスコ社発行より、マザーの手紙の一部を引用)

「イエスの仕事をインドでするように何者かが私に呼びかけているから、これらすべてのことをするのです。このような考えは多くの苦しみを生みました。しかし、その声は言い続けるのです。“あなたは拒むのですか”と。ある日、聖体拝領をしているときに、同じ声がはっきりと言いました。“私はインド人の修道者がほしいのです。私の愛のために自らを犠牲にする人々。(中略)十字架の慈しみによって満たされ、愛に満ちた修道女たちがほしいのです。あなたは、私のためにそうするのを拒むのですか。”」

「“あなたは伴侶である私のために、そして人々の魂のためにもう一歩を踏み出すことを恐れるのですか。もうあなたの寛大な心は失われたのですか。私はあなたにとって二番目に大事な存在にしかすぎないのですか。あなたは人々の魂のために死んでいません。(中略)もう一歩踏み出すことで、あなたは私の望みに応えることができます。”」

こうしたイエスの言葉に対してマザーが、「ロレット修道会でこれまで通りあなたのために努めていきたい」と述べると、イエスはさらに次のように語ります。

「“私は、インド人の神の愛の宣教者たちがほしいのです。とても貧しい人々、病気の人や死にかけている人、幼いストリート・チルドレン。彼らのあいだにあって私の愛の炎となれるような人々がほしいのです。貧しい人々を私のもとに連れてきてほしいのです。私への愛の犠牲として自分の生涯を差し出す修道女たちは、彼らの魂を私のもとに連れてくることができます。あなたが最も無能な者であること、弱くて罪深い者であることは知っています。でも、私はあなたがそのような者であるからこそ、あなたを私の栄光のために使いたいのです。あなたは拒むのですか。”」

エスの言葉はマザーを恐れさせました。一方、マザーの神秘体験を聞いた教会の霊的指導者(エクセム神父)は、マザーに神秘体験のことは忘れ、これまで通り修道生活を全うするように説得します。こうしたことがあってマザーは、イエスが求める使命を自分から取り除いてくれるようイエスに頼んでほしいと、マリアに懇願します。

しかし祈れば祈るほど、イエスの声はますますハッキリしたものになっていきました。そして駄目押しするかのように、マザーに語りかけます。ほとんどイエスからの脅迫のようです。

「“あなたはいつも『あなたが望むすべてのことのために私を使ってください』と言っていたのではありませんか。今こそ、それを実行に移してほしいのです。私の小さな伴侶、私の小さな者よ、私にそれをさせてください。恐れてはいけません。私がいつもあなたと共にいます。あなたはこれからも苦しむでしょうし、今も苦しんでいるでしょう。でも、もしあなたが私の小さな伴侶であるなら、十字架につけられたイエスの伴侶であるのなら、あなたの心に起こるこれらの苦しみを耐えなければいけません。”」

「“もしあなたが、毎日どれだけ多くの子供たちが罪に落ちているかを知っていさえすれば……。裕福で有能な人々の世話をしている修道女たちの修道院は、たくさんあります。でも私のとても貧しい人々のための修道院はまったくないのです。私は彼らを望み、彼らを愛しているのに、あなたは拒むのですか。”」

マザーはイエスの言葉を記した手紙をペリエール大司教に送った後、ダージリンからアサンソールに移動します。そしてマザーは徐々に、イエスの召命に従って生きていくことを決意するようになります。マザーはアサンソールで瞑想の日々を過ごし、そこでイエスとのさらなる神秘体験を続けていくことになります。

マザーは「アサンソールでは、まるで主(イエス)が私に自分を丸ごとくださったようでした。しかし甘美で慰めに満ち、主と固く結ばれた6カ月はあっという間に過ぎてしまいました」と述べています。マザーは再びカルカッタに戻り、貧民街での奉仕活動を始めることになります。

以上が、現在公表されているマザーの神秘体験の内容です。もちろんこれ以外にも教会関係の事情などから公表されていない資料があることでしょう。特にマザーの最初の霊的指導者であったエクセム神父には、マザーは神秘体験について詳しく述べていたはずです。

しかしエクセム神父がマザーから聞いた内容は、ほとんど公表されていません。マザーの神秘体験を考えるうえで重要な内容の一つがアサンソールでの“神秘体験”――甘美で慰めに満ち、イエスと固く結ばれた体験ですが、これについての詳細は明らかにされていません。

 

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 こんな記事もあります。

 

マザー・テレサが「聖人」に認定、疑問の声も | ナショナルジオグラフィック日本版サイト より一部引用

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批判的な見方

 マザー・テレサを表立って批判してきた故クリストファー・ヒッチェンズ氏は、2012年に『The Missionary Position: Mother Teresa in Theory and Practice(宣教師の立場:マザー・テレサの理論と実践)』と題された本を出版。その中で、神の愛の宣教者会の施設を訪れた医師たちの証言として、患者たちは不衛生な環境の中で満足な食事も与えられず、鎮痛剤もなく、医療ケアが十分に行き届いていないと記述している。その一方、マザー・テレサ本人が医師の診療を受けるときは、高額な米国の医療施設へ通っていたという。(参考記事:「世界の貧困対策、カギは農村と女性」

 さらにヒッチェンズ氏は、マザー・テレサが投資家のチャールズ・キーティング氏から100万ドル以上の献金を受け取っていたことを明かした。キーティング氏は後に詐欺罪で実刑判決を受けているが、この裁判でマザー・テレサは、キーティング氏と自分の関係を説明することなく情状酌量を求める手紙を裁判所に書き送っている。他にも、数千人の国民を拷問にかけて殺害させたとされるハイチの右翼独裁者ジャン・クロード・デュバリエからも献金を受け取り、その功績を称えていた。(参考記事:「苦難に負けない ハイチの誇り」

 ヒッチェンズ氏はまた、宣教者会の元修道女であるスーザン・シールド氏の手記(未出版)を引用し、マザー・テレサが死の床にある病人へ秘密裏に洗礼を授けるよう修道女たちに指導していたことも明らかにした。患者に「天国への切符を得たいと望みますか」と質問したあと、熱を冷ますふりをして額に水で濡らした布を置き、祈りの言葉をささやいて、気づかれないように患者に洗礼を授けていた。(参考記事:「聖なる水」

列聖の手続きは「驚きの早さ」

 カトリック教会において信者を聖人に認定する「列聖」の手続きは、時代とともに変化してきた。最初に聖人として認められたのは、信仰のために迫害された殉教者たちである。初期の頃は、列聖の手続きに必ずしもローマ教皇が関わっていたわけではない。その権限が正式に教皇に与えられたのは1234年だ。ヨハネ・パウロ2世教皇となるまでに、約300人が聖人に列せられた。(参考記事:「悲劇の聖人の遺骨、イタリアで発見か」

 ヨハネ・パウロ2世の時代に手続きは簡略化され、聖人の数は劇的に増加した。ヨハネ・パウロ2世は、1978年から2005年までの26年間の在任期間中に482人を聖人に列し、マザー・テレサを含む1327人を、聖人の前段階である福者に認定(列福)した。

2003年に教皇ヨハネ・パウロ2世の下で執り行われたマザー・テレサ列福式。30万人の信者がサン・ピエトロ広場に集まった。(PHOTOGRAPH BY ROBERTO CACCURI, CONTRASTO, REDUX)
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 列聖の手続きは、通常なら大変な時間を要する。1588年にカトリック教会が列聖省を設立して以来、後に聖人とされる人物の死から実際に列聖されるまでの期間は平均で181年となっている。

 しかしマザー・テレサの場合、その死から18カ月後にヨハネ・パウロ2世が通常の5年の待機期間を繰り上げ、列聖手続きをすみやかに開始することを認めた。(参考記事:「ローマ教皇フランシスコの率直すぎる10の発言」

「ローマの標準からすれば、驚きの早さです」と、米ノートルダム大学でかつて宗教学教授を務めていたローレンス・カニンガム氏は言う。

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マザー・テレサは多くの人々の求めに対して

奉仕されてきたことだろう

だが、彼女はキリストに対して多く願いを求め過ぎたのか?

男の信仰には忠誠が基底にあるが

女の信仰には愛の関係が基底にあるのかもしれない。

それゆえ、キリストの愛が感じられない信仰生活は

女性の信仰にとって生きた心地のない暗黒なのかもしれない。

 

エス様は、己が十字架を背負えと言うが

人生に十字架などあるのだろうか?

神を見失った時、十字架が見えるのだろう

世界は神の祝福に満ちている

再臨主文鮮明先生はこう語られた。

「蕩減とは祝福に満ちた言葉である。」

 

アジュ!

 

 


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