神霊を求めたペンテコステ派のブラウン牧師と真理を求めた福音派のマッカーサー牧師は三代王権に融合されなければならない
なぜ西洋神学が支配的な場所で「ペンテコステ運動」が繁栄するのだろう?ーー東方正教会バルナバ・パウエル神父の視点【東方から西方の聖霊運動をみる】 - 巡礼者の小道(Pursuing Veritas) より引用
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はじめに
1993年に、ジョン・マッカーサー師(福音派)は『カリスマ派のカオス』という本を出版し、主としてカリスマ・ペンテコステ運動経由でエヴァンジェリカル界に流入してくる数々の不健全な教理や実践の混乱状況に対し警告のメッセージを発しました。
この本の主旨は非常に的を射たものであり、私たちの内にあるカオス状況の淵源の一つを知る上で、本書は多くの示唆を与えてくれていると思います。
しかしその一方、20世紀以降、ペンテコステ運動から生み出された福音宣教の情熱と前進には目覚ましいものがあります。それは第三世界の宣教地などでも顕著にみられます。
そこで私たちは思います。自分たちの周り(or 内)にあるペンテコステ主義というのは一体何なのだろうと。それはキリストのみからだの中で必要なものなのでしょうか。それともそれは警戒し、締め出すべき〈異物〉なのでしょうか。
宗教改革の原理を共有する同じプロテスタンティズムにいる人々の中でも、ペンテコステ運動に対する考え方や見方は多種多様です。ある人々はこれを病原菌のように取り扱い、別の人々は迷うことなくこの運動にダイブ・インしています。
私は昔から、「福音派」「聖霊派」という二極化にとまどいを覚えていました。その一方、教理史を調べていく中で、なるほどこういった‟二極化された陣営”、‟分断世界”の形成には深い理由と背景があるということも学んできました。
福音派の教会に属するということは、ある意味、(一部あるいは全部において)「非聖霊派」であることを含意し、逆に、聖霊派の教会に属するということには、(一部あるいは全部において)「非福音派」であることが含意されていると思います。
プロテスタンティズムを一つの有機体と考え、それを全体論的に考えた場合、私はこの二択という行為自体が、ーーそれがどんなに教理的に「理に適ったもの」であれーー、からだの不統合(disintegration)を表象しているように思えてなりませんでした。
かといって、カリスマ運動がその不統合性を「融合」し、そこに全体論的調和を与えているのかといえば、うーん、やはりマッカーサー師の指摘するように、そこからは調和と平和よりは、どちらかというと、さらなる混沌と不健全性が排出されているように思われてなりません。
宗教改革の「治療薬」としてのペンテコステ主義!?
そんな中、先日、正教会神父であるバルナバ・パウエル師の「異なる火ーー宗教改革の治療剤としてのペンテコステ主義(Strange Fire: Pentecostalism as Cure for the Reformation)」という記事に遭遇し、まずはそのタイトルの‟へんてこさ”に、がぜん興味を引かれました。
タイトルの初めの方の「異なる火」はレビ記10章1節から取られたもので、これは、「異なる火コンファレンス」というマッカーサー師の対抗カリスマ運動を意識して付けられたものであるに違いありません。
ですが、面白いのは、次の副題です。パウエル師は、その「異なる火」であるペンテコステ主義が、こともあろうに宗教改革の「治療剤」であると言っているのです!おお、これは何ぞや。そこで私は早速この記事を読んでみることにしました。
それによると、バルナバ神父は、元々、ペンテコステ派の牧師として長年奉仕してこられたそうです。しかしいろいろな道程を経た後、2001年に東方正教会へ転向。現在、ジョージア州にある聖ラファエル・ギリシャ正教会の教区司祭として仕えておられるそうです。
記事の中で彼はまず、ペンテコステ運動が、元々アメリカ産の現象ではあるものの、現在、世界中で(特に第三世界)急成長を遂げているキリスト教運動であり、これは、(フィリオクェ問題以降)散見されてきた西洋キリスト教における神学的貧困さが生み出した副産物であると述べています。
そして、バルナバ神父は、ペンテコステ運動を生み出した(神に対する)人間の心の切望を肯定し次のように言っています。
「ペンテコステ運動を生み出した人間の心の切望は、それ自体において悪いものではありません。ペンテコステ主義によって表現されている根本的飢え渇きは、創造主なる神との親しい交わりをしたいという願いに発しています。そしてこの願いは良いものであり、神によって授けられたものです。なぜなら私たちは皆、神との親しき交わりのために造られた存在だからです。」
しかし、ペンテコステ主義はその誕生当初から、「神学的基盤の脆弱さ」という弱点を抱えており、それゆえ、この運動は、人々の純粋な願いに反し、異端的教えの蔓延化を免れ得ない運命にあったことを指摘し、次のように述べています。
「しかしペンテコステ主義は誕生当初より『神学的脆弱さ』を抱え、それゆえ、①堅固さを欠く神学的サポートおよび、②歴史的キリスト教信仰からの実際的にして完全なる断絶により、人々の真摯なる切望は、不可避的に、そしてまたたく前に損なわれていきました。
そして私たちはこの運動がもたらしている実を目の前に見ています。キリスト教TVチャンネルをオンにしてみてください。そこには、神学的基盤がなく歴史的キリスト教から切り離されたペンテコステ信者たちがごまんとおり、実に、新旧さまざまな種類の異端が、自らの豊穣地を彼らの心の内に見い出しています。」
アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの佐々木正明牧師も同様のことを述べています。
「私は、アッセンブリーズ・オブ・ゴットという信仰の共同体を、あらゆる方面から見て、とても素晴らしいものであると考えています。そこに所属を許されている、神のご配慮に感動しています、、、私たちの交わりは、神学を修めた方たちの信仰告白や信条に、同調した人たちによって始められたものではありません。むしろ、神学的にはほとんど素人に近い牧師や信徒たちが、『異言を語る聖霊のバプテスマを受けた』という、著しい体験を共有するものとして、その体験の下に集まったということができます。ですから、私たちの交わりには当初から、根深い『体験主義』的な傾向がありました。それは一方では、非常に力強い私たちの交わりの特質となりましたが、他方では神学的な曖昧さ、あるいは誤りに陥りやすいという弱点となっても現れてきました。」-私たちの交わりを脅かしてきた「間違った教え」
西洋キリスト教世界における「反動」としてのペンテコステ運動
しかしともかくペンテコステ主義という現象は、西方キリスト教世界が何世紀にも渡り抱えてきたある種の偏りに対する「反動」として生まれてきたものであるとしてバルナバ神父は次のように分析しています。
「西方での合理主義への強調及び、西洋で発展してきた脆弱にして時に異様な形態の神秘主義に対する過剰反応と悲しき必要性が、宗教改革を引き起こしました。
そしてここからカルヴァン主義というさらに合理主義的運動が生み出され、また、第1次、第2次『大覚醒運動』という律法主義的敬虔主義が勃興してきました。こういった一連のことが19世紀のホーリネス運動および、アメリカ大陸におけるキリスト教『教派』の倍増化につながり、そしてついに、20世紀になって、ペンテコステ運動の勃発を招きました。」
ここでカルヴァン主義は「合理主義的運動」だと定義されていますが、改革派の人々は当然、この定義づけに大いに反論があるだろうと予想します。ぜひその反論内容を伺ってみたいです。また、米国大覚醒運動が、「律法主義的敬虔主義」と捉えられているのも面白いです。東方ならではの斬新な視点だと思います。
バルナバ神父によると、現在、ペンテコステ・カリスマ派内部には、700以上の教派が存在するそうです。そしてほとんどの米国メガチャーチは、「カリスマ運動や第三の波運動という、抑えも統制も利かない教団組織を超えた運動」(佐々木正明師)からかなりの影響を受けており、CCMワーシップ礼拝をめぐる問題においても、「体験主義」を重んじる米国ペンテコステ運動からの影響が無視できないとバルナバ師は指摘しています。またジーザス・オンリーの異端、繁栄の神学というハイパー個人主義、感情主義などこの運動内部には問題が山積みです。
最大の希望
「にもかかわらず」と彼は言います。これだけの弱点や問題を抱えていながらも、ペンテコステ運動は、西洋キリスト教にとっての最大の希望であると。
「私は、ペンテコステ運動を、西洋キリスト教の神学的過ちを矯正するべく起され存在している最大の希望だと捉えています。そして、ペンテコステ主義は、西洋キリスト教が神との交わりにおいて、より古にしてより健全な形での神学的経験に回帰すべく、そして神秘に対する真に公同的な受容に回帰すべく西洋に贈られた神よりの贈り物だと私は信じています。ペンテコステ主義というのは言ってみれば、貧しい人の神秘主義(正教会用語では「機密」主義)であり、神との親しき交わりを求める魂の明らかなる叫びなのです。」
普通、一つの宗派から別の宗派に転向した場合、人々は、以前の宗派がいかにおぞましく誤ったものであったかを語る場合が多いと思いますが、バルナバ神父はそうではありません。彼は東方正教会に転向した後も、自分の初期の信仰がペンテコステ主義の中で育まれてきた過去を嬉しく思っていると述べ、次のように書いています。
「神との親しき交わりに対するこの願い、そして今日私が大切にしている信仰共同体の中での体験、、、こういったものに火をともしてくれたのは自分のペンテコステ主義のルーツによるものであり、私はこの事に感謝しています。最終的に私は正教会の中に自分のホームを見い出しました。そして、かつてのように『ワイルドな火』によって霊的わが家を全焼させてしまうのではなく、自分のペンテコステ的生育によって心に灯されている火のための賢明なる『暖炉』をこのホームの中に見つけたのです。」
最後にバルナバ師は、ペンテコステ派の人々、それから、非ペンテコステ派の人々それぞれに対し、次のようなメッセージを残しています。
「ペンテコステ派の人々は、自分たちの運動が、キリスト教の歴史的諸現実から全く切り離されたところで、突如として天から降ってきたものであるかのように考える、そういった傲慢な考えを捨てなければなりません。『私とイエスさまオンリー』的な浅薄なメンタリティーを持つ限り、人はいつまで経っても、霊的幼稚園から脱却することはできません。もしもペンテコステ主義が、歴史的教会の中で保存されてきた恒常的キリスト教と再びつながる道を見い出すことに失敗するなら、今後、この運動はますます本来のキリスト教から乖離していくでしょう。」
それから非ペンテコステ派の人々に対しては次のように言っています。
「宗教改革から生じた非ペンテコステ派の人々もまた、なぜ‟自分たちの”神学的文脈の中で、この運動がこれほど浸透しているのか、よくよく考察してみる必要があると思います。ご自分に問うてみてください。『なぜ、西洋神学が支配する所でペンテコステ運動が盛んになるのだろうか?』と。
私見では、この現実は、高慢な人間たちを、神の神秘および合理主義を超えたところに在る主との親しき交わりに回帰させようと働いておられる、神の方法を示していると思います。私たちは、自らの内に潜む高慢さや、妄想的自己十全性を検証した上で、分裂なき教会の内に存在する健全な形での神秘に回帰するーー、そのような勇気あるステップが必要なのではないでしょうか。」
ここで言う「神秘」が、例えば、14世紀に、正教会内で激しい論争を呼び起こしたヘシュカスム(hesychia;静寂)の流れを汲むものであるとすれば、それへの「回帰」がはたして聖書的な意向に沿うものであるか否かで当然意見が分かれるでしょう。難しい問題ですね。
一致のあり方
それにしても、、と思います。バルナバ神父が寄稿しているのは、「正教と異教(Orthodoxy and Heterodoxy)」というサイトで、この正教会HPは、元福音派・聖霊派の神学者/牧師たちで構成されています。
このサイトをみて私が驚くのは、元ペンテコステ派の牧師(アルミニウス主義/ディスペンセーション主義/聖霊派)や、元改革派の牧師(カルヴァン主義/契約主義/福音派)たちが、正教会という一つのみからだの中で神学的にも霊的にも一致できているという事実です。
私たちのプロテスタンティズムの枠組みの中では、神学的基盤のしっかりした「アルミニウス主義/聖霊派」支持者と、同じく神学的基盤のしっかりした「カルヴァン主義/福音派」支持者が共同牧会するというのは、ーー教理的「妥協」と相対主義への「屈服」という形を取らずしてはーー事実上、不可能なことだと思います。それぞれの神学的骨格が、原理的な次元で、「一致」を許さないと思います。
ですから、この枠組みの中で教理的相対主義に陥らず、尚且つ「有機的一致」を望もうとするのなら、可視的教会と不可視的教会、そして「すでに、まだ」という神の国の過去・現在・未来の様相を包括的に捉えつつ、messyでバラバラな地上の家に生きていくということになるのかと思います。あるいは、他になにかより良い道があるのかもしれません。
私は一歩前のものしか見ることができません。でも神様はすべてをご存知です。ですから、道であり光であるイエス様の手にすがりながら、これからも一歩一歩進んでいきたいです。
人間は神のこのような復帰摂理の時代的な恩恵を受け、その心霊と知能の程度が、歴史の流れに従って漸次高まっていくのであるから、それを開発するための神霊と真理もまた、その程度を高めていかなければならない。それゆえに、神霊と真理とは唯一であり、また永遠不変のものであるけれども、無知の状態から、次第に復帰されていく人間に、それを教えるための範囲、あるいは、それを表現する程度や方法は、時代に従って異ならざるを得ないのである。堕落人間は宗教により霊と真理をもって(ヨハネ四・23)その心霊と知能とをよみがえらせ、その内的な無知を打開していくのである。さらに、真理においても、内的な無知を打開する宗教による内的真理と、外的な無知を打開する科学による外的真理との二つの面がある。したがって知能においても、内的真理によって開発される内的知能と、外的真理によって開発される外的知能との二つの面がある。それゆえに、内的知能は内的真理を探りだして宗教を起こし、外的知能は外的真理を探りだして科学を究明していくのである。神霊は無形世界に関する事実が、霊的五官によって霊人体に霊的に認識されてのち、これが再び肉的五官に共鳴して、生理的に認識されるのであり、一方真理は、有形世界から、直接、人間の生理的な感覚器官を通して認識されるのである。したがって認識も、霊肉両面の過程を経てなされる。人間は霊人体と肉身が一つになって初めて、完全な人間になるように創造されているので、霊的過程による神霊と肉的過程による真理とが完全に調和され、心霊と知能とが共に開発されることによって、この二つの過程を経てきた両面の認識が完全に一致する。またこのとき、初めて人間は、神と全被造世界に関する完全な認識をもつようになるのである。このように神は、堕落によって無知に陥った人間を、神霊と真理とにより、心霊と知能とを共に開発せしめることによって、創造本然の人間に復帰していく摂理をされるのである。終末論
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