「パウロの生涯と聖化の神学」という本のご紹介 聖化とは統一原理の聖別のことである。
だいぶ以前に岩上敬人牧師の「パウロ」という本を紹介しました。
目次
新約聖書とパウロの歴史的背景
パウロの生い立ちと教育
パリサイ派ユダヤ人・迫害者サウロ
パウロの回心と召命
回心後のパウロの足取り
アンテオケ教会とパウロ
第一次伝道旅行
ガラテヤ人への手紙の執筆
エルサレム会議
第二次伝道旅行
第三次伝道旅行
パウロの逮捕・ローマへ
ローマの獄中で
パウロの晩年
文字は大きめで、非常に困難があるも最新の研究を踏まえて出来る限り時系列に一本の物語としてパウロの歩みを描こうとする試みでした。
もっと詳しくパウロについて知りたいという方には、
同じ岩上牧師の書いた「パウロの障害と聖化の神学」という本があります。
「聖化」に関して書いている部分をギリシャ語表記ができないので、それは省いて引用します。
さて、パウロが聖化の概念を伝えようとした時に用いた言葉は「聖なる(形容詞ハギオス)」、「聖潔(名詞ハギアスモス、ハギオースネー)」、「聖くする(動詞ハギアゾー)」などで、ギリシャ語ハギオスを中心とした言葉のグループである。ハギオスは「分離した、取り分けられた」という意味である。
「パウロの生涯と聖化の神学」P19
「聖なる」(ハギオス)という形容詞が「分離した、取り分けられた」という意味だということですから、我々が復帰摂理のアブラハムでお馴染みの「鳩を裂く」ということと関係があるなとお気づきのことかと思います。
神様がお命じになった三種の供え物を裂くという行為でした。
「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山ばとと、家ばとのひなとをわたしの所に連れてきなさい」(創世記15・9)
アブラハムは牛や羊は裂いたけれど、疲れたのか山鳩を裂く前に眠ってしまい日が暮れてしまいます。
疲れて眠りに落ちたアブラハムに神様の声が響きます。「あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。」(創世記15・13)
旧約と新約に貫かれた解釈をするならそのようになるかと思います。
「聖化」とは、我々食口が言う「聖別」や「分別」のことです。
何か重要なキーワードや概念や内容に出会ったときには、必ず統一原理のどの辺と関係がありそうなのか?当たりをつける習慣を持ちましょう。
大きな恵みにたどり着くようになります。
「聖化」ですが、これに関係が深いと思われるところは、復活論ということになりましょう。
祝福を韓国で受けた時に、李ヨハネ先生が巡回に来てくださり、
せっかくなので質問したのが復活論でした。
「復活論では蘇生も長成も完成も皆、み言葉で復活とありますがどうして同じことなのに復活が違ってくるのですか?」
ヨハネ先生は、通訳のせいか的を射たご返事ではありませんでしたが、
ヨハネ先生の霊的背景が私の中からすぐに答えを引き出してくれました。
「なあんだ。そうか。それぞれ旧約のみ言、新約のみ言、成約のみ言によって復活するので復活の程度が違ってくるのか。『み言』とあるのは省略していただけなのか。」
そんなことからわかりませんでした。
モーセが神からみ言を いただくまでは、み言による聖別は存在しませんでした。
み言葉の実体になるべく誕生してきた人間でしたが、
「とって食べるな」という神のみ言を捨てたので、
堕落したアダムとエバはみ言以下の存在になりました。
それは堕落していない万物以下の存在でした。
したがって堕落していない万物を通してしか神の前に出ることができませんでした。
その万物はアベル、捧げる者はカイン。
だが、カインである捧げる者は善悪を分立なければ、善なる神が相対することができませんでした。
本来ならば自分を善と悪に分立しなければならないのですが、
鳩のように裂けば人間は死んでしまいます。
そこで、人間の代わりに万物が裂かれるようになりました。
人間の代わりにサタンの死亡の血を流してくれました。
蝮の子、蛇の子である人間が、サタンの血統と縁を切るためでした。
象徴的な血統転換です。
万物が善と悪に裂かれたことを通して、その供え物を捧げた人間の善と悪が分離できたと神様がみなしてくださいました。
ハギオスは「分離した、取り分けられた」という意味である。
わたしはこのようなキーワードの語源に恵みを受けましたが、
著者はパウロが語った文脈を通して「聖化」の意味を捉えるべきだと考えておられます。
上述した引用文を含んだ文章に著者がこの本を書いた意図が出てきますので、彼がどのようにしてパウロの言う「聖化」を捉えるべきだと考えているか以下に引用します。
本書は 聖書講解でも、神学書や霊想書でもない。敢えて分類するなら、聖化の教えに焦点を当てた聖書研究、あるいは注解書と言えるかもしれない、私はパウロの生涯と聖化の教えを詳しく解説する目的で本書を執筆した。聖書学の専門用語を用いているが、できるだけ一般の方にも理解してもらえるように解説をつけた。またギリシャ語には、すべて読み仮名をつけ、ギリシャ語の文法知識がなくても言語の意味が理解できるように努めた。聖化の主題を扱ったパウロの箇所には、難解な表現や文章が多く含まれている(例えばⅠコリント六・12〜20,Ⅰテサロニケ四・3〜8、五・23など)。そのため注釈者の間でも一致した解釈はなく、現在も活発な釈義研究が進んでいる。パウロの聖化の教えをできるだけ具体的に理解するためには、難解な節であっても釈義的選択をする必要があった。浅才非才を承知の上ではあるが、これまでの釈義研究を参照しながら、聖化の意味を明確にするよう試みた。一つの釈義的選択をする場合には、その理由も明示したつもりである。本書はパウロの生涯や手紙の理解についても、プロテスタントの伝統的パウロ理解を踏まえつつ、最近のパウロ研究から(特に1980年代から現在までを中心に)アップデートしている。もちろん、私のパウロ解釈に同意できない研究者がおられることは十分承知している。ただ本書を通して、パウロ研究や釈義研究の関心が高まり、活発な議論が交わされるようになれば、これほど感謝なことはない。そのため、どんな文献を参照しているのか(英語圏の文献を中心に)、できるだけ詳しい脚注をつけた。
本書では、ウェスレアン神学で用いられる神学用語(例えば「初時的聖化」「転機的聖化」「漸進的聖化」)を用いてパウロの聖化をまとめていない。理由は単純で、パウロがこういった神学用語を用いていないからである。ただパウロの聖化がウェスレアンの神学的理解に非常に近いことは、本書を読めば分かっていただけると思う。
本書は聖書の意味を深く知り、学びたいと願っている一般のクリスチャンの方々や教会学校教師、また神学生や牧師の先生も念頭において執筆させていただいた。本書を横において、じっくりと聖書と向き合っていただければこれほど感謝なことはない。私が心から願うのは、本書を通して、パウロと聖化の理解が深められ、聖書の学びや説教の参考となり、これからの聖書的聖化宣証の一助となることである。
大学生などは良いかもしれないが、幾分学際的な文章なので、手こずる方も出てくるかもしれませんが、何事も根気よく一歩一歩進むしか道がありません。
岩上敬人氏が翻訳した、N.T.ライトが書いた「使徒パウロは何を語ったのか」という本もあります。
こちらは読みやすいです。
目次は
第1章 パウロを理解する試み
第2章 迫害者サウロ・回心者パウロ
第3章 王の使者
第4章 パウロとイエス
第5章 異教徒への福音
第6章 イスラエルへの福音
第7章 義認と教会
第8章 神によって新しくされた人間
第9章 パウロの福音 当時と現在
第10章 パウロ、イエスそしてキリスト教の起源
できるだけ最寄りの図書館を利用されることをお勧めします。
こうして書いていて心に強く思うことは、やはり聖書のパウロの言葉をじっくり読むに越したことはないということです。
牧会の感覚も分かるでしょうし、
最近、昨年新しく翻訳された聖書も出たようです。
最後になんだと思われるでしょうが、そんな気がしてまいりました。
私自身の手元にあるもので重宝しているのは、新約聖書翻訳委員会訳
私はそれを持っていませんが、同様のものが収められている
以上は岩波書店です。
とても内容を理解しやすい文章と適切な注が新約聖書翻訳委員会訳の特徴です。
黙示録もこのシリーズで読みました。
新約聖書〈5〉パウロの名による書簡・公同書簡・ヨハネの黙示録
- 作者: 新訳聖書翻訳委員会,保坂高殿,小林稔,小河陽
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1996/02/20
- メディア: 単行本
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み言葉によって自分を聖別して復活するのが、われわれの信仰生活です。
善悪分立とは、神とサタンのいずれの所有になるかの決定です。
旧約時代は象徴的復活
新約時代は形象的復活
成約時代は実体的復活
そのようになるかと思います。
指導者は自分が聖別されているだけしか、人々を聖別できません。
信仰基台と実体基台の話です。
善悪の判断がつかないというのは、中間位置ですから、
いいとも悪いとも言えないというときには
条件が足りないということになります。
緒論の中間位置と条件、そして神の所有かサタンの所有かにも
聖化は関係してくると思います。
講義ではないのでこれくらいにしましょうか。
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