十字架の聖ヨハネに見る主の花嫁理想の陥穽 同性愛はキリスト教の隠れた文化
三日儀式では、女性は堕落したエバからキリストの花嫁の立場に立っています。最初は堕落した子宮をもつ堕落エバです。男性は堕落した天使長の立場です。そこから神様の息子の立場を復帰して、さらにはキリストの体、神の種を持つ者へと変えられるのです。
三日儀式を通してキリストをまとい、聖布に触れることでその体全体が清められます。わかりますか。このビデオが描く内容と全く同じです。汚れが清められるのです。
そしてその儀式を通して神様の種がキリストを通してキリストの花嫁の子宮に宿り、その子宮を清めます。そしてその子宮から原罪なき神の子が産まれるのです。分かりますか。
まさにイエスは清めの「燃える炭」であるわけです。キリストの主要な立場は「花婿」です。再臨の時、イエスは「花婿」としてやってくるのです。そして悪を審判する裁き主として、また王の王として来るわけです。そして千年王国の王権を樹立する。
このビデオでもキリストの花嫁を教会だといっていますが、キリスト教2千年はパウロのいうように、教会がキリストの花嫁であると規定してきました。しかしこの考え方はサタン圏から激しい攻撃を受けてきました。つまりキリストの花嫁という概念を通して同性愛が常に侵入してきたということです。
キリストの体がすべての男女であり、キリストがその花婿であるとするならば男性は自分の妻よりも、その両親よりも家族よりも愛さなければならないでしょう?なぜならキリストは男性の花婿なのだから。これについては深く論じてこられませんでした。
しかしそこから逃げ続けることはできません。再臨主は花婿として来られるのですから。再臨主はそのことについても明確にされるでしょう。すべての矛盾するように見える立場を理想的な秩序に置き換えて下さることでしょう。そうして王国が確立するのです。
そして神様の清らかさと神聖は宮殿から全世界に広がっていくのです。
これと真逆の現象が家庭詐欺連合で起こっているのです。病的ともとれる2性の混同、混乱に蝕まれ、そのプロパガンダ(宣伝文句)として韓氏オモニ自身が再臨主、キリスト教2千年の結実であり独生女だと主張しているのです。さすがに幹部たちもこれを消化できずに、最新映像では「独生子、独生女」と二つ並べています。しかしこれはオモニの本音ではありません。
もう何度も言いましたが、韓オモニの本音は「お父様は堕落していた、それを自分が救った」これですよ!これがオモニの神学だというのです。お父様を再臨主と証しない最大の理由はここにあるのです。自分が独生女であることの証しかしないでしょう。
これがレズビアン神学を生み出し深刻な問題になることも話しました。私の見る限りどんどんとヒンズー教に近づいています。そこでは理想的な聖なる男性と聖なる女性が現れる。ラーマにたいするクリシュナ、シヴァにたいするラクシュミ。決して新しい考えではありません。
実際古くからある宗教の考え方です。古典的な多神教です。その最大の問題はそこに人類の救いの介在する余地がない、人類が視野に入らないという点です。なぜなら神自身の中の2性が授受して他者の必要性を感じないことになるからです。
人は取り立てて価値のない付属物に過ぎません。主体も対象もすでにそこに存在するからです。この種の宗教は決まって多神教に流れます。
私は最初にいいました。男性格主体の神様からひとたび離れるや、自己の対象として被造世界を創造したという一神教の基盤をすべて失います。もし多神教と一神教の違いが判らなければ、キリスト教弁証学を学ぶことをお勧めします。高度な弁証学の観点からその違いを見る必要があります。結論的にいうと、その道は必然的に堕落の道だということです。
2016年2月21日説教「神の計画にゆだねる」【英語説教日本語訳】全文 | サンクチュアリ NEWS
聖書でいう「花嫁」はキリストを信じる者です、「キリストの花嫁」です。また「キリストの体」とも呼ばれています。聖書では「キリストの花嫁」と「キリストの体」は同じものなのです。これをキリスト教は男性も「キリストの花嫁」だと誤って理解されています。花嫁、花婿の関係はその内に性的な関係を含んでいます。だからキリスト教はその中に隠れた文化として同性愛の問題を抱えているのです。カトリック、プロテスタントを問わず聖職者に同性愛者が多いのです。イエス様を愛すれば愛するほど、花婿として愛さざるを得ないのです。男性が花嫁になるという矛盾です。この種の考え方のほとんどがパウロの教えからきています。しかしイエス様ははっきりと花嫁を集めその一部は天国に入り一部は入れないとおっしゃっています。
4・11質疑応答から -六マリアの摂理的意味 | サンクチュアリ NEWS
洗礼ヨハネ
「花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。」(ヨハネによる福音書 3章29節)
「あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとりの男子キリストにささげるために、婚約させたのである。」(コリント人への手紙Ⅱ 11章2節)
イエス
「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」(マタイによる福音書 16章18節)
「そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エペソびとへの手紙 1章22ー23節)
パウロの神学では処女がキリストを花婿として迎えていく心情を男性にも要請します。
これが、おそらくパウロも意図せざる同性愛の文化をキリスト教の負の文化としてサタンによって構築される背景となってしまいました。
私自身の印象では同性愛の文化というものは一般にヘブライズムにあるというよりヘレニズムの文化に見られるものだという理解がありましたが、亨進様のみ言葉で、何かインスピレーションを与えられるようでした。
つまり、人類史始祖であるアダムとエバの堕落の性質が違うために、女性信徒は主の花嫁の心情を復帰すべきではあるかとお思いましたが、男性信徒はそうではなく、忠実な僕の心情を復帰すべきだと考えておりましたところに、亨進様のみ言葉は後押ししてくださるものだったので、大変勇気を与えていただきました。
男性信徒は忠実な僕、すなわち神の支配を実現するために王として来られたキリストに忠誠を誓いその使命を果たす家臣としての在り方が一方では使命として期待され、またもう一方としては、愛の分野で、天使長が超えることができなかった相対を持てないことに対して愛の減少感に陥ることなく、かえって最愛の相対を神に捧げることを喜びとする心情を復帰して天使長に対する主管性を復帰しなければならないというのです。
私以上の再臨の主を慕い求める相対者の姿に、かえって誇りを持つようでなければ、天使長の殻を破ることができません。
秀のブログに広講師による血統転換の講義がアップされました。
私自身は家庭修においても詳しい内容は聞けませんでしたので、全く血統転換の講義は受けていませんので、このような講義があるのかと参考になりました。
ここで重要なのは36家庭のところです。
条件的祝福には2つの意味があるのではないかと私は考えています。
一つは長成期の完成級まで心霊が復帰されていることが望まれるがそのようには至っていないので、祝福後の宿題として残っているというもの。
もう一つはメシアの種を子宮に宿して神の妻として復帰された女性から、天使長である男性が生み返されてアダム、すなわち神の実子に転換するような実体復帰をしていかないという意味においてです。
詳細には生死をともにできる信仰の三子女なども入るでしょうが、これは除外しておきます。血統転換に直接関わることに絞ってみるとそのように理解できるのではないかと思われます。
さて秀のブログでは以下のように書かれています。
タマルやバテシバやマリアやマグダラのマリアの話がこれの前に説明されて、天使長からエバを奪い返して来なければならない。寝取らなければならないというわけです。
なぜなら、アダムの妻になるべきエバが天使長によって寝取られてしまったので、これを蕩減復帰するためには、アダムは天使長からエバを反対に寝取らなければならないというのです。
36家庭が滅び去った今、この実体復帰の心情を我々は継承するものとなり、心情の世界において、超えてしまわなければならないことでしょう。
お父様の自叙伝が出版されて、6マリアと噂されていた方々が聖人と祝福を受けて、自叙伝に書いていない部分を悟りなさいとばかりに、前に並ばされ記念の写真が撮られたことを、我々は肝に銘じなければならないことでしょう。
実際には広講師はもっと詳しく説明されたことと思いますが、ここにアップされた内容では不十分です。
我々とこの血統転換の関係がよくわからないからなのです。
三位一体と聖霊の役事や血統転換また心情転換
これらの有機的な関係が明確ではないからです。
この辺りについては後ほどいくらか書いていきたいと思っています。
つまり、私という人間はどうすれば血統転換し心情転換することができるのかという、根本問題の解決こそが我々信仰をする者にとっての最優先事項だからにほかならないからなのです。
さて十字架の聖ヨハネの著作を読み始めたところですが、おやっと思いました。
彼が書く詩がおかしい。
彼の著作はおそらく女性信徒が主の花嫁になるためには参考になること大であることでしょう。ですが、男性にとっては女性を理解するには良くても、自分の信仰にそのまま適応するには危険が潜んでいます。
それは、王様がおっしゃっておられる同性愛の試練です。
まじめに信仰すればするほど、この危険は増していくという代物でした。
ここでは、十字架の聖ヨハネの著作「暗夜」にでてくる詩を記すにとどめます。
おいおい彼の代表的作品について感想を述べていきたいと思います。
再臨主であられる文鮮明恵父の統一原理の素晴らしさに改めて驚愕するしだいです。
統一原理によって十字架の聖ヨハネの功績と限界が照らしだされるからです。
霊魂の歌
1
ある暗い夜に、
愛にもだえ炎と燃え立ち、
おお、すばらしい幸運!
気づかれずに私は出て行った、
我が家は静まったから・・・
2
暗闇の中に 安全に、
装いを変え、秘密の梯子で、
おお、すばらしい幸運!
顔を覆って闇の中に私は出て行った、
我が家はすでにしずまったから・・・
3
この幸いな夜に
誰も見られず、何も見ないで、
ひそかに私は出て行った、
心に燃え立つ光の他には
何の光も導きもなしに。
4
その光は私を導いた
真昼の光よりも確かに、
私のよく知っている あの方が
私を待つあの処ー
誰ひとり居ない あの処に。
5
おお、導いてくれた夜よ!
おお、黎明より愛すべき夜!
おお、愛する者とされた人を
結んでくれた夜!
愛された人を愛する者に変容(かえ)ながら・・・
6
あの方のためだけ
ひたすら 守ってきた
私の花咲く胸に、あの方は眠っていた、
私は彼を愛撫した、
杉の枝は扇のように そよ風を送ってきた。
7
彼の髪を手にとっていると、
狭間からの風が吹いて来て、
その静かな手で
私のうなじを打った、
そして私の感覚をみな止めてしまった。
8
みじろぎもせず 我を忘れて、
愛する方に 顔をもたせかけていた・・・
すべては止み、私は身をゆだねた、
思いわずらいを みな
白百合の中に置き忘れて・・・
この本の冒頭に掲げられている詩です。
「神との愛の一致の道における 霊魂のありさまと手段を述べた歌の説明を始める。」
として詳細な説明を書いている本です。
この詩を読んで如何な印象をお感じでしょうか?
これを書いた聖ヨハネは男性であるにもかかわらず、
自分を女性として、主の花嫁としておいて
キリストを恋い慕い霊的な一致。
すなわち霊的婚約 ⇒ 霊的結婚 の成就に向かって行きます。
これは霊的では会っても、性的なニュアンスを伴う合一であるように
一読して感じられます。
亨進様の説教や質着応答のお話にキリスト教の同性愛問題が指摘されたので、それに呼応していくらか書きましたが、十字架の聖ヨハネを抜擢した聖テレサの著述から紐解いて行き、その後に聖ヨハネに戻ってきたほうがわかりやすいかと考えます。
聖ヨハネがだめだというわけではありません。真剣に学ぶ際には十分に気をつけなければならないということです。
今このお二人の信仰や心情を継承しておられるとお見受けされる方が、現在アメリカにおられます。かっては修道女であり今は家庭をお持ちの方です。
バーナデット・ロバーツという女性です。
私は彼女の本によって十字架の聖ヨハネの存在を知りました。
彼女は聖ヨハネに学んだ人でした。
私が聖人について学んでいるのは最後にバーナデットに戻ってくるためです。
おそらく聖テレサはキリストとの一致について、情的に長けた説明をされていて、十字架の聖ヨハネの方は、男性ですから知的にもその心情の世界を説明されていて補完しているのではないかと予想されます。
今日は亨進様のみ言葉に対応していくらか連想したことをお書きしました。
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