亨進様が黙示録をずっと深く研究されているようです。
どうも、新約聖書の信仰を全て相続し直そうとしておられるように見受けられます。
祝福二世(信仰二世である祝福準備二世も含む)は、
亨進様と共に新約聖書を同時学習されてはいかがでしょうか。
ところでこの説教が出て、少し心配になったことがあるので
ヨハネの黙示録の出だしを引用いたします。
:1)イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。
:2)ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。
:3)この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。ヨハネの黙示録第1章
ヨハネの黙示録は2000年後の私たちの時代について書かれたものではないといいます。
神によって預かった言葉である預言が、実際に未来に起こるであろうと、予め言葉にして伝えられた予言の性格は、すぐにも起るべきことをであり、時が近づいていると警鐘を鳴らしています。
ですから、このようなことを亨進様が知らないわかはないのですから、
2000年後の今日の我々を予言していると言うわけではありません。
こう言う時はどのように捉えるべきでしょうか?
相対思考では普遍性と特殊性を合わせて考える習慣をするといいですよと、お話ししてきたかと思います。
つまりここで聖書に書かれていることは
具体的な個別的な事柄について預言され予言されている側面と、
そうではあるのだけれども一定の普遍性があり他のことに対しても応用や適応しうる側面もあるというふうに見ていくことができます。
そこで黙示録は特殊性(具体的、個別的事柄)について語られてはいるのだけれども、
それでも普遍的に応用できる事柄ですよというわけです。
ノストラダムスの予言がとりざたされるのも、そういう二面性があるからなのでしょう。
易なども地上人に直接的助言ができないので、共通する易の言葉をもって、普遍性を個別化して、あなたにはこうこうこのようなところが関係していて重要ですよ、というわけです。竹ひごのような筮竹(ぜいちく)やサイコロを使って占いますが、霊界の霊人が協助して介入することができるスキができるのでしょう。
これを間接的啓示と呼びましょうか。
では、例えば統一原理にはそのような例があるのでしょうか?
原理講論ではないでしょうか?
皆さんがご存じの復帰原理の教訓がそれではないですか?
というわけで、大丈夫だとは思うのですが
くれぐれも、亨進様が黙示録に書かれたこの部分がお母様のことを予め預言しているとおっしゃられているなどとは、決して誤解のないようにお願いいたします。
黙示録に書かれている内容に似ているパターンで
今日清平の宮中で行われていることは展開されているので
どうか黙示録を教訓に天の父の御心を悟ってくださいということでありましょう。
亨進様が愛してやまないお母様のことをここまで言わさせてしまっている罪を
我々は負っています。
お二人に充分な基台がないからです。
人は石垣人は城というが如く
基台とは勿論我々の信仰です。
皆様方に日々、24時間中、神の聖らかな恵がありますように!
追記
この場を借りて、私がブログを執筆している時には必ず
Chalermyot Asavarattanakasikorn のYouTubeを開いて聖歌を流しながら
作業をしております。
力不足の私をいつもあなたの作品によって助けられてまいりました。
心から感謝いたします。