原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

家庭連合の解説は、誰かのノストラダムスの一つの解釈みたい 一般女性に失礼です 自分勝手なのはオモニムです

 家庭連合がまたトンチンカンな自己弁護をしている。

サンクチュアリ教会側の「アベル女性UN創設大会」に関するお母様批判への応答 | 真の父母様宣布文サイト より画像と文章を引用します。

 

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公演文どおりであろうと、アドリブであろうと、

それはどうでもいいことです。

むしろ、公演文であれアドリブであれ、そこに表現された内容が何かが問題でしょう。

神様が働かなくなると、枝葉抹消ばかりが気になるようです。

 

家庭連合の解説はまるで誰かのノストラダムスの予言を解読しているような、

一つの説としては、笑いを誘う説として、面白いものがあります。

彼らは御言葉を頭のなかで考えます。

実際行動に即しては考えようとはしません。

聴衆の実際行動に即して考えるべきでしょう。

 

これは長い時間かけて解析するようなことが許される場で、

話されたことではありません。

公演のスピーチで一般に向けて話された内容です。

リアルタイムで理解できるように話されなければ、

公演のスピーチの意味がありません。

 

家庭連合の見解は、数秒?数分?数時間?数日?数週間?・・・でできたものですか?

一般聴衆が、会場で、聞きながら、そんな風に理解できますかね。

その聴衆はどんなふうに聞こえたでしょうか?

 

<聴衆の聞こえ方の一例>

文鮮明先生は、夫人の韓鶴子総裁を育てて、

勝利した世界的女性の代表として

お母様を女性連合に登場させてこられたが、

どうもそこにいないらしい?

いないというと?

なるほど、自分勝手にやりはじめたのということか。

今は自分勝手にやっているのか。

どうやら、文先生と夫人には考えと行動に亀裂が生じているらしい。 

 

スピーチを聞きながら前後関係で判断していくとすれば、

サンクチュアリのようにならざるをえないことでしょう。

彼らの机上の空論の要点は何でしょうか?

 

家庭連合の主張は

「オモニを育ててきたよ。」のオモニは公演原稿とは違い、

実際には「オモニム」と言っているので、韓鶴子オモニムを指していて、

「オモニはいません。」の方は、母という一般名詞だという。

この世の母たちのことだという。

そのこの世の母たちが「自分勝手にやっている」と

お父様が語っておられるのだそうです。

鰯の頭も信心からと言うが、まさにこれですね。

 

「母がいません」も一般名詞で、

「お母様のように勝利した女性はいません」ということで

くだけて言えば

 「この世にはまともな母がいません」

 

「文総裁には妻の位置もありません」というのは、

勝利した「文総裁の妻の位置も(元々あるのでは)ありません」という意味だという。

そして聴衆を向いて言っているので、

お母様以外の母である女性は皆

「自分勝手、自分勝手です」

と叱られているというわけです。

 

お父様がお母様を育ててきたことを家庭連合は認めています。

だが、お母様は認めていません。

これこそ自分勝手ではありませんか?

 

www.youtube.com

 

聖和4周年の主役は、お父様でした。

では、写真を見てみましょう。

お父様の聖和4周年、これはお母様のご意向? - シャボン玉のブログ より引用

 

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いつものように

お父様とお母様の用意された席の後ろ中央には、

衝立のようなものがあり

そこに燦然と輝いているのは、主役のお父様の紋章ではなく、

いつものようにお母様の紋章です。

聖和記念行事の時でさえもなのです。

お父様の紋章は用意されませんでした。

これがお父様の言う

「文総裁には妻の位置もありません」

なのです。

以下に彼らのトンデモ言い分を引用してみましょう。

皆さんが御確認下さいませ。

 

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 「私たち夫婦が20年前、本連合の創設時に明らかにしたメッセージの精神に従って、勝利した世界的な女性代表である真の母に侍り……、オモニを私が育ててきたよ。オモニはいません。文総裁の妻の位置もいません。自分勝手にやっている!! 自分勝手に。ん。……世界的な女性代表である真の母に侍り、真なる母の像、真なる妻の像を確立し、真の愛の運動によって理想的な家庭を結実させなければならず、

 この部分を、映像から忠実にディクテーションし、翻訳すれば、以下のようになります。

 「私たち夫婦が20年前、本連合の創設時に明らかにしたメッセージの精神に従って、勝利した世界的な女性代表である真のお母様に侍り……、お母様を私が育ててきました。母がいません。文総裁の妻の位置もありません。自分勝手、自分勝手です。……世界的な女性代表である真のお母様に侍り、真なる母の像、真なる妻の像を確立し、真の愛の運動によって理想的な家庭を結実させなければならず、

 上記の内容が、忠実にディクテーションして翻訳した内容になります。真のお父様は、ここで聴衆に対し、何を訴えようとしておられるのでしょうか? 真のお父様の意図される内容を吟味し、明確にしなければなりません。
 まず、着目すべき重要な部分が、勝利した世界的な女性代表である真のお母様に侍りという部分です。
 真のお父様は、元々の講演文には「勝利した世界的な女性代表である真の母に侍り」と“真の母(チャムオモニ)”となっているにもかかわらず、それを、あえて「勝利した世界的な女性代表である真のお母様(チャムオモニム)に侍りと言い換えて語っておられます。この「真のお母様」という部分は、韓鶴子女史を明確に意識された表現であり、その韓鶴子女史を「勝利した世界的な女性代表である」と語っておられます。
 つまり、真のお父様は、私たちに対して、そのような「勝利した世界的な女性代表である」韓鶴子女史に侍りなさいと命じておられるのです。

 続いて、注目すべき重要な部分が“固有名詞”と“一般名詞”の使い分けについてです。真のお父様は、それに続くアドリブの部分である最初の「お母様」という言葉は、“固有名詞”で「お母様(オモニム)」と語っておられます。
 したがって、そのような「勝利した世界的な女性代表である真のお母様(韓鶴子女史)」「私(真のお父様)が育ててきました」と語っておられます。これは、お父様が、あきらかに勝利された真のお母様を誇りに思っておられ、そういう人類の真のお母様を育ててこられたことを、自負しておられる表現なのです。

 ところが、その部分に続く「母がいません」という文言は、それまでとは違い、“一般名詞”で「母(オモニ)」と語っておられます。サンクチュアリ教会側は、そのような明白な違いがあることを無視して、いずれの言葉も「オモニ」とカタカナでテロップを入れることで、日本人が見るとき、いかにも韓鶴子女史について語っているかのように見えるよう、カモフラージュしているものと言えます。

 しかし、「母がいません」という文言は、“一般名詞”として語られているものであって、これは、今までの歴史において勝利した母がいなかった(しかし、韓鶴子女史が初めて勝利した母として立った)ということであり、韓鶴子女史を指して語っておられる言葉ではありません。むしろ、聴衆や女性一般に向かって、韓鶴子女史のように勝利した「母がいません」と語っておられるのです。もし、この部分の「母がいません」が、韓鶴子女史であると仮定するなら、その直前で「勝利した世界的な女性代表である真のお母様に侍りなさいと命じておられるにもかかわらず、その侍るべき“母”がいないという話になってしまうために、話が矛盾したものとなります。これでは、存在しない「母」に対して「侍りなさい」と命じる、全く意味不明な内容となってしまいます。

 それに続く、「文総裁の妻の位置もありません」は、そういう勝利した「真のお母様」が元々おられるわけではないという意味で語っておられます。つまり、独生女としてお生まれになった韓鶴子女史にも、「文総裁の妻」、「真の母」として勝利するまでの過程があり、果たすべき責任分担があったわけで、そういう勝利した「文総裁の妻の位置も(元々あるのでは)ありません」という意味です。
 そして、「自分勝手、自分勝手です」と叱責しておられるのは、女性一般に対して語っておられる言葉です。事実、お父様が語っておられる映像を見ると、このとき会場の聴衆に向かって語気強く語っておられるのが分かります。
 だからこそ、真のお父様は、聴衆に向かって、再度、勝利された世界的な女性代表である真のお母様に侍りと繰り返し語られた上で、そのお母様に侍ることによって真なる母の像、真なる妻の像を確立し、真の愛の運動によって理想的な家庭を結実させなければならないと命じておられるのです。

 したがって、「大観衆の前で、真のお母様に対し、『自分勝手にやっている』と語られた。真のお父様のその語気の強さから、とてもお二人が一体化しているとは思えない」というサンクチュアリ教会側の批判は、講演文の流れとお父様の真意を無視し、それをねじ曲げた、とんでもない批判です。お父様ご自身を貶めていると言っても過言ではありません。
 事実、彼らが拡散している約1分間の映像にない、その前後の部分を確認してみると、真のお父様が「自分勝手、自分勝手です」と厳しい口調で叱責しておられるときに、真のお母様は、お父様のすぐ近くに座っておられるのです【写真を参照】

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 それにもかかわらず、真のお父様はお母様を一切見る素振りはなく、むしろ、会場を見渡すかのように聴衆に向かって「自分勝手、自分勝手です」と語っておられます。これを見ても、この言葉は、真のお母様に対して語っておられるものでないのは明らかです。

 また、講演文全体を通して見るときに、この叱責の言葉は、真のお母様に対してではないことが、より明白となります。なぜなら、真のお母様を叱責される意味に受け取れる表現が、講演文に全くないからです。
 むしろ、講演文の冒頭の部分で、お父様は会場の聴衆に対し「私の妻である韓鶴子総裁と共に、心から歓迎いたします」と三回も繰り返し語っておられますし、さらには、再三にわたって「韓鶴子総裁と共に」、「私たち夫婦」、「真の父母」という表現を繰り返し語っておられることから考察してみると、真のお父様は、勝利された「真の母」である韓鶴子女史と共に、勝利された「真の父母」として、この講演をされておられるのは疑いようがないことです。


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