天聖経の問題は表表紙から始まっています。
お父様が作られた天聖経は、
文鮮明先生御言葉宗
天聖経
お母様が作られた天聖経は、
天一国経典
天聖経
CHEON SEONG GYEONG
「お父様の名前」は削除され、お母様が地上で編纂された「天一国経典」に
取って代わりました。
これが、お父様を抹殺しようとするサタンの業だとは、我々はなかなか気づくことができなかったのです。
我々は神霊によってサタンの隠された意図を見破り、真のお父様と一つにならなければならないのです。
御言葉の改竄で、最も悪質なものは、お父様が我々にみ言葉を通して伝えたいと思われている意図、すなわち心情を蹂躙することです。
神様についても、お父様が我々に伝えたいと願われる意図が、木っ端微塵に粉砕されてしまいました。
それを最も顕著に表しているのが、神様とは如何なる方であるかという神観です。
天聖経では神観の中でも最重要な内容には見出しがあります。
ところが、その御言葉の核心を表現しているはずの見出しが、お父様の天聖経とお母様の天聖経では、180度変更されてしまいました。
多くの兄弟は善意に解釈して、お母様の意図を十分に酌み取れず、編纂者が過失をおこなったのだろうと考え、これは困ったことだとお母様を擁護されたことでしょう。
ところが一向に間違いは修正されず、誰も実質上の責任を取りませんでした。
まさか、お母様が主導で、お母様の願いを考慮して、その意に叶えるべく編纂されてきたとは、よもや考えることができませんでした。
お父様の聖和の直後でした。天正宮の最上階のお母様の部屋での会話を忘れることができません。会話の中で私はこう言いました。
「お母様は勝利された真の母であり、真のお父様の花嫁です・・」
それに対してこう言われました。
「違います。私は神でありメシアです」「私は何でもできます」。お母様は「절대 권력(絶対権力)」という言葉を用いました。
「私は絶対権力を持っている」
(10/25/2015 文亨進師説教から)
そのように、お母様はご自分が、「神でありメシアである」ことを宣言されました。
その意図によって、天聖経はどう見出しを変更したのでしょうか?
最も注目すべきところは、「真の神様」の中でも最初の章、「第一章 神様の本体」
の中の、「4)神様は父であられる」が消滅して、「第三節 真の父母である神様」が新たに加えられています。
「原理本体論」の本体ですから、本体という言葉がどれほど重要な言葉かは誰にもわかるでしょう。真の父天聖経では
実体をもった、神様の体で造ったアダムが、人間の先祖になるのです。言い換えれば、アダムは実体の神様です。無形の神様が実体の世界を主管するためには実体の体がなければなりません。それがあってこそ見たり聞いたりできるので、神様が実体の体として造られたのがアダムだというのです。それでは、エバとは誰ですか。エバはアダムの妻です。実体の妻です。それゆえアダムが実体をもった神様ならば、エバは実体をもった神様の妻です。神聖な神様が妻を得るというので驚くかもしれませんが、アダムは実体をもった神様の体です。エバは実体をもった神様の妻として創造されたのです。
②アダムは宋の祖先、有形の神様より(注:この見出しも削除された)
さらに、エバについてはこう説明されたいます。
エバは未来において、神様の王女です。王女であると同時に、将来の神様の相対でした。エバを愛の相対にしようとしたのです。神様の夫人となるのです。
②アダムは宋の祖先、有形の神様より
つまり、エバは厳密な意味においては、本質的には神様ではないというのです。
この御言葉はお父様の名前と共に抹殺されました。
これは「神は男性格主体である」というように表現されていることに、対応しています。
ところが、お母様は「勝利された真の母」や「真のお父様の花嫁」であることを
きっぱりと否定されました。
「違います。」と。
そして、真のお父様ではなく、
胎中より無原罪で、6マリア堕落体験などのない私こそが真の「神」
そして、真の「メシア」なのだ。
と亨進様に宣言されました。
「あなたがたはこれを信じなければなりません!」と。
これが独生女神学の正体です。
そこで、亨進様はそれでは男性神と女性神の二神論になってしまう、
唯一論ではなくなってしまうと心配されたのです。
お父様の対象挌位が嫌だといってお母様が離れて行かれたからでした。
自己の位置を離れてしまわれました。
お父様ではなく、私こそ女性格主体です。
お父様は私によって救われるという神学の表現が
家庭連合の新しい三位一体として発表されたのでした。
宋総会長が御父様と共にノアの家庭の蕩減復帰をされた時、ノア家庭の如何なることを中心に家族が一体化しなければならないかったことに対する摂理であったことでしょうか。 それは絶対「性」でした。 真の御家庭では人類の罪を精算するために6マリアと呼ばれる摂理がありました。 それは真の御家庭が我々の家庭とは違い、神様に捧げられる絶対基準の祭物だからです。
さて、絶対「性」を実際の自分の父の姿を目の当たりにして信じることが最もできにくいとすれば、誰でしょうか? それは妻であり、子供であり家族です。 そこで、ノアの子供たちは信仰を現すことができませんでした。 今回、亨進様は以下のような御父様の御言葉をご紹介されました。
「私が半ば狂って服を脱ぎ、そこでおしっこをするとき、どれ位の者が残るだろうか。私がたどった道がどれほどおそろしい道であったが誰も知らない。分からないのです。わたしを産んだお母さんも知りません。ここにいるお母様も知りません。それで多くの霊能者が私がかわいそうだと言って泣くんだね。これをいわなければだれが知るだろうか。どれほど問題が深刻であったか、どれほど霊肉共に闘ってきたのかがあなたたちにはわからないだろう。(210-81,1990.12.1)
お父様は私を試されたのです。意図的にお父様は気がふれたように振舞ったのです。「これをあそこに!」「いや、ここだ!」と叫ぶように言われました。お父様は愚かな人ではありません。誰が自分を信じているかじっと観察しておられたのです。数えきれない位、お父様が試される場に居合わせました。わたしを試されたのです。
ハワイでお父様が講演をされた時のことです。上着を脱ぎ、ズボンも脱いで「わたしは何も恥ずかしくない」とおっしゃいました。舞台裏は大騒ぎです。お母様は元周(チョン・ウォンジュ)「このタオルをもっていきなさい!」と叫んでいました。お父様はそのタオルをはねのけました。お父様が舞台から戻ってこられた時、皆が異様な雰囲気にありました。そこに「不信」が蔓延しているのを私は感じました。
ハワイはエデンの園です。恥じらいはあってはいけないのです。私はお父様をお風呂に入れて差し上げるときも恥ずかしく思ったことはありません。 (家庭連合には)恥じる文化、不信の文化が存在するのです。どのリーダー、どの指導者が、ではなく韓お母様からしてそうだったのです。神様の基台、神様の理想を壊しました。」
ノア家庭は絶対「性」の伝統を確立できませんでした。 イエス様の御家庭のマリアやヨセフも神によって教えられたにもかかわらず、不信して四位基台を破壊しました。 たくさんの御言葉を聞いておられたのに、いざ御父様が天に喜びを捧げようとあからさまにされた時、「万軍の主よ、万歳!永遠に感謝いたします。」と心情一体化するものが現れませんでした。 なんと御父様を傷つけられたことか! 父の心と一心に生きてこなかったからではないですか?
6マリアという、御父様がそのような絶対「性」の役事をされた時、誰がこの世で一番信じることができにくいことでしょうか?それはお母様であり、子女様です。 この時、誰が真っ先に御家庭の全員の前で、「神の絶対「性」の役事に栄光あれ!主の名は誉むべきかな!」と言わなければならなかったかが問題なのです。
三弟子を中心に我々食口すべてが、善の天使としての使命を果たして、お守りするべきでしょう。 本体論を何故御父様が語ってくださったのでしょうか。 「真の家庭で起きることは、君たちの家庭でも起こってくるんだよ。」 とお父様は言われました。
今が、その時です。 御父様の絶対「性」を堂々と信仰告白しなければ、我々と御父様は父と子の因縁を結ぶことができず、滅び去ってしまうのです。
家庭問題の中心が絶対「性」なので 復帰摂理の中心人物は苦労してこられました。 私は、たった一人になったとしても、御父様の無原罪と神性を語らずにはいられません。 現象ではなく、本質は何かと絶えず問いながら、共に御父様と一つになってまいりましょう。
敢えて申しましょうか。 宋総会長は御父様が露わになった時、恥ずかしいとは思いませんでした。 だが、その方が何故このように迷走しているのでしょうか? 悟りが不徹底だったからでしょう。 もし、お父様の実子であるならば 我々はその場において、どうして御父様だけに露わにさせたまま見物人として見過ごすことができましょうか? 反対に父が笑いものになってしまうではありませんか? 父の心情をどうするというのでしょうか? ハワイでも壇上に上がって、父と共に行動するものが、次々と現れていたら天一国はすぐ出発できたことでしょう。
御父様、我々の罪をどうかどうかお許しください。
心一つであれば、体もまた一つなり!
体一つであれば、その行いもまた一つなり!
それすなわち一心という。
お父様だけが露わになられ見せ物にしてしまった。
恥ずかしいとは思わなかったが
父と共に生きようとするには至らなかった。
それゆえ、もう一歩進まなければ
試練を超えて行くことができない。
聖和された父が最も期待しておられたのです。
「迷わず行けよ!龍天!」
さて、先程述べたことを指して、お母様は堕落されてしまった、大変なことになったと亨進様は悩まれました。
お父様はキリスト教をどうして評価されたのでしょうか?
愛を論じるならば、人格的神でなければなりません。情緒と、人格的に人と同じ素性をもった神でなければならないのですが、そのような神を提示した宗教はキリスト教以外にはないのです。神様を父と言ったのは偉大な発見だというのです。神様を父だと言ったのです。神様を父だと発見したという事実は今先生が話す、神様を内的父と(お父様を)外的父と見て実体に一致する愛によって統一的な権限をつくろうとするその基準、確実にこの基準までは発見できませんでしたが、そんな内容を暗々裡に解明することができる標題を掲げたという事実は驚くべきものです。そして唯一神を論じました。
②神人一体の人格神を要求
天の父である神様が内的父で、地上におられたお父様が外的父となって、絶対基準で一致したところに、キリスト教の唯一神が説いた不十分なところが、完成されるというのです。
お父様は、「愛を論じるならば、人格的神でなければなりません」と
語られましたが、お母様は、「力の神」「権力の神」を強調され、
御自身がそのような神であることを叫びました。
「違います。私は神でありメシアです」「私は何でもできます」。お母様は「절대 권력(絶対権力)」という言葉を用いました。「私は絶対権力を持っている」想像して見て下さい。同じ部屋にいる自分の母親の口から「わたしは絶対権力をもっている」というセリフを聞いたのですこれを叫ばれました。その声は部屋中に響き渡りました。台所まで聞こえたでしょう。同じ部屋には私の義理の姉もいましたが彼女にもそれが聞こえたことは間違いありません。そのような信じられない光景が繰り広げられていたのです。ドラマのワンシーンではありません。権力の虜になった女王が声を荒げて「わたしは絶対権力をもっている!」と怒鳴るのです。まるで映画を見ているようでした。実際にこの場面に遭遇した者としてこの出来事を消化するまでは本当に困り果ててしまいました。それでもお母様を信じて様子を見守りましたが、あるとき「これは大変なことになった」という思いに変わりました。(10/25/2015 文亨進師説教から)
お母様がここでおっしゃられた「メシア観」や「神観」は
「私は何でもできます」実際の表現は「절대 권력(絶対権力)」です。
「私は絶対権力を持っている」
つまり力としての神、権力としての神、それも絶対権力としての神です。
私は、聖和以降のお母様が堂々とされているのを見て、聖和されたお父様の影響を直接受けておいでなのだろうと思っていました。大変頼もしく感じていました。
ところが、そうではなかったことが、亨進様の証によってわかるようになったのです。
信徒であれば誰もが決して信じることができない、信じることも聞くことも考えることも拒絶したいことが、よもや起きているとは考えもしませんでした。
お母様が人類を救う母として立つための道は想像を絶する戦いがあることは、我々食口のよく知るところです。
お母様を最も支えられた方は偉大な信仰者であられた大母様でした。
しかし、大母様が聖和されてからは、誰かが大母様の代わりとなって、お母様をお守りしお支えすべきでしたが、なかなかそう簡単には見つかるはずもございません。
ところがある時から霊能者を通して大母様が役事されるようになられました。
お母様は誰よりも大母様を頼りにされて来られたので、通訳する訓母を大母様のように愛され大切にされました。
すると訓母の心の中に悪い思いが沸いてきたのでしょう。
「なんだ、真のお母様って言ったって、私に傅き頼っているではないか。そういう頼られている私は、また信徒に大母様、訓母様と尊敬されている私は何者でしょう?」
かってコンフェッションをしてくださった興進様が、用いたボディから抜け出た後にも、多くの人々に侍られた気持ちのよい感覚が残っていたことから、ボディの主が興進様を偽り装い勝手なことを始めた時とそっくりなことが起きたのです。
悪魔に魂を売った訓母は、自分の利益と栄光のために、嘘八百を語り始めたのです。
お母様には誰にも打ち明けることのできない心情がございましたが
その最たるものが6マリアです。
それを知っていた訓母は、慰めながらお父様とは心も行動も離れるように、少しずつ少しずつ誘導していきました。
そこで、何度もお父様は彼女を厳しくしかってこられたのです。
「金孝南とお母様は責任を取りなさい!」
では、神様は全知全能であられるとしても、
或いはまた真の主体者だといいますが、
全知全能の神や主体者としての神はどのように天聖経に示されているのでしょうか?
神様は知らないものがありません。全知全能であられ、全権者であられ、遍在されるというのです。それが私と何の関係がありますか。私と何の関係があるのかというのです。「ああ、全権があるので私を支配するのにいいですね、どこにでも遍在しているので私を監視するのにいいですね、知らないものがないので私をすべて精密に分析して身動きできないように造ったのですね」と、神様が私を全知全能で支配されるとすればいいことがあるでしょうか。
*
神様は天地を何をもって主管しますか。法で主管しますが、その法も愛で治める法です。そして治める方向を後押しするために宇宙の法も存続するというのです。それで神様は人間創造をなぜしたのかといえば、愛が恋しくてです。一人でじっとしていればいいのに、何のためでしょうか。刺激的で衝動的な愛が必要だからです。5)法度の中での全知全能である
①原則的基盤の上で全知全能である
神様は全知全能なる方なのに、力がなぜ必要でしょうか。宇宙を動かすことができる主体であられるのに、そうではないですか。力の大王だから力は必要ないのです。歴史上の英雄豪傑が偉いと言っても、歴史において大国を統治した君王、帝王たちが過ぎ去りましたが、彼らはみんな神様の権威のもとで踊りを踊っていった人たちです。神様は、私たち人間が必要とするお金も知識も必要ありません。
5)法度の中での全知全能である
①原則的基盤の上で全知全能である
法度を重視なさる神様が、法度の中の法度として愛の法度を重んじられました。
では。愛の法度を重視すると言うことは、いったいどのようなことを指すというのでしょうか?
いくら神様が全知全能だとしても、男性、女性は愛に絶対服従だと命令することができますか。「私も真の愛には絶対服従するから、私のようにお前たちも真の愛に服従しろ!」と、こうすればこそ父なる神様として堂々たる神様になるのであって、神様は守らずに「おい! 息子、娘、お前たちは愛に絶対服従しろ!」と言えば、それは話になりません。先生の位置にいる神様が、独裁者の神様になるのです。神様も同じように「私が真の愛に永遠に永遠に絶対服従するように、息子、娘も真の愛を中心として永遠に服従すべきだ!」と言うとき、息子、娘が「アーメン!」と言うのです。そうでないときには「父は自分勝手にして、私たちだけに服従しろと言うのでしょうか。ふん!」と言うのです。問題になります。このように見るとき、神様も真の愛には絶対服従するという論理を立てなければならないのです。
5)法度の中での全知全能である
③神様も愛の前では絶対服従である
「私も真の愛には絶対服従するから、私のようにお前たちも真の愛に服従しろ!」と、こうすればこそ父なる神様として堂々たる神様になるのであって、神様は守らずに「おい! 息子、娘、お前たちは愛に絶対服従しろ!」と言えば、それは話になりません。
それこそ、真の愛に絶対服従するということです。
真のお父様が行かれた道は、絶対「性」に絶対服従する道だったのです。
神様自身は絶対的な存在です。全知全能なる方です。遍在されます。その方には知らないものがなく、できないこともありません。そのようにすべてのものを備えた主体として絶対的な位置にいらっしゃる神様において、何が必要でしょうか。神様が絶対的な主体だとしても、主体自体が主体となると同時に相対となりたい心もなければならないのです。
5)法度の中での全知全能である
①原則的基盤の上で全知全能である
絶対権力を振るおうと思えば振るえるにもかかわらず、侍りたいという心があるというのです。
絶対の権能を持っていながら、むしろ侍りたいという、父母の心情を持ち僕の体で生きておらる。
そして、絶対権力を持たれる神様は、いったいいかなるな主体であられるというのでしょうか?
神様は絶対的であり、全知全能なので、愛をひたすら与え与えて、また分け与えても限りなく補充することができる愛の倉庫をもっています。それでは、神様の倉庫から愛を多く盗んで、夜も昼も限りなく愛を取って分け与え分け与えるとき、神様が「やあ、こいつ! 盗人、愛どろぼう!」と言って処罰するでしょうか。全知全能な神様なので、「そのようにしろ、してもいい。いくらでもやってみろ。お前が永遠にやってみろ。お前が入ってきても余る。それで私が神様だ。だから私が主体だ!」と、神様がそのように言われるのです。「私が主体なので、客体に与えても残ってこそ主体だ。お前たち客体である人間に与えても余ってこそ主体としての神様であって、そうでなければ神様になれない。私がそうなのだ!」と言われるのです。「私から愛を盗んで神様の愛の発電所のように限りなく与えたいならば、いくらでも補給してあげよう」。それで「これが全部なくなれば私はまたもっていきたいのですが、神様の愛のパイプに私を連結したらどうでしょうか」と言う時、「そうしたければしなさい」と言うのです。
4)神様は父であられる
①神様と人間は父子の関係
お母様が大声で、怒鳴り散らして亨進様に
おっしゃられた言葉とは決して相容れるものではありません。
宋龍天総会長!
貴方にお母様の永遠の命がかかっているのです。
貴方の愛するお父様に直接祈り求めてください。
最後に、家庭連合を立てて
真の母天聖経から導き与えられたお父様の御言葉を
振り返ってみましょう。
お母様の天聖経にはこんなお父様の言葉があります。
8生活感情で、私たちが、神様の感情と共感した感情を、いかに感じるかということが問題です。一人でいれば、思わず「お父様!」と呼び求めることができなければなりません。そうすると、神様から「どうした!」と答えが返ってくる感覚を受けるようになります。一体になれば、そうなります。誰もいないようですが、誰かが私を主管し、誘導しているというのです。そのような生活圏内に入った人ならば、神様がいる、いないということが問題にはならず、困難にぶつかれば、必ず「私」を擁護してくれ、導いてくれることがわかる立場なので、神様を裏切っていくことはできません。
第二章 心情と真の愛の神様
第一節 心情の神様
神様は心情の神様