Amebaブログ「この道どの道」に
幹部はもう『真のお母様=独生女=無原罪』という認識です
という題の文章があった。
幹部はもう『真のお母様=独生女=無原罪』という認識です|この道どの道
そこから一部以下に引用してお話しすることにした。
この方の指摘はとても重要である。
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清平修錬苑HP<韓国語>より
http://kr.cheongpyeong.org/news/view.asp?page=1&idx=2471&s_item=&s_word=¬ice_id=news
ハン・スンウン先生 第37周忌 追悼礼拝、
真のお母様を誕生させた偉大な教育者、愛国者、宣教師-2015/ 3/ 31
<抜粋翻訳>
天一国3年天暦2月10日(陽3.29)午後7時
新門(シンムン)路大母様記念館で「ハン・スンウン先生第37周忌追悼礼拝」(以下、「追悼礼拝」)が開かれ、世界平和統一家庭連合ユ・ギョンドゥク韓国副会長、訓母様家庭、宗親(*父系の親族)(ハン・ウィイル会長など)、36家庭元老、摂理機関長(チェ・ユンギ統一財団理事長、ソク・ジュンホ学校法人鮮文学院理事長、イ・ギソン天宙清平修錬苑苑長、チャ・ジュンヨン世界日報社長など)、国家メシア、教区長、牧会者、協会局長、清心機関長、天宙清平修錬苑局長など100人余りが参加した。
ハン・スンウン先生は天の啓示に従って洪順愛大母様と成婚し、ヨハネの黙示録に約束された小羊の花嫁、子羊の妻である人類の真のお母様を誕生させたのです。
これは無形の天の父母様の独生女を誕生させることによって、天地人真の父母様として実体完成することができる功労を立てられたので、地上と天上の数多くの人の中で最も高貴な摂理的責任を完遂されたのです。”(イ・ギソン天宙清平修錬苑苑長)
“何よりも最後に大事な内容が何でしょうか?
その方の人生の中で最も重要なことは、洪順愛大母様に会って私たちの永遠の母であり人類の真の母である韓鶴子真のお母様をこの地に誕生させた功労こそ最大の功労ではないでしょうか?
このような摂理史的功労の中で、私たちが原罪を清算するしかなく、また、原罪無く生まれた、そのような驚くべき天の祝福があったのです”
“무엇보다도 마지막으로 중요한 내용이 무엇이겠습니까? 그분의 삶 속에서 가장 중요한 것은 홍순애 대모님을 만나서 우리의 영원한 어머니시고 인류의 참어머니이신 한학자 참어머님을 이 땅에 탄생시킨 공로야말로 가장 큰 공로가 아니겠습니까? 이러한 섭리사적 공로 속에서 우리가 원죄를 청산할 수밖에 없었고, 또 원죄 없이 태어났던 그러한 놀라운 하늘의 축복이 있었던 것입니다.”
(世界平和統一家庭連合ユ・ギョンドゥク韓国副会長)
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この翻訳が正確であるとすれば、 ここでわかることは
世界平和統一家庭連合ユ・ギョンドゥク韓国副会長と
イ・ギソン天宙清平修錬苑苑長とは
お母様が無原罪であることを強調したということであり、
お父様の教えに反した内容になっている。
またそれを聞いている蒼々たる方々の中で一人として異議を唱えるものがないということがわかる。
黙認か同意か、どうして良いかわからないかのいずれかの立場であったものと推測される。
以上の情況は亨進様が語った内容と一致している。
言うなれば、サタンに魂を売った天使長たちによって清平が占拠されてしまい、お母様が囲われの身同然となってしまっているということであった。
その裏付けとしての根拠となりうるものである。
独生女については様々な批判が為されてきたが、収まるばかりか、3月29日付の追悼礼拝でこのように複数の幹部が発言している以上、また誰も止めるようすや異議申し立てが無い以上、もはや内的刷新運動は少なくとも韓国では難しいということであろう。韓国が総本山であるから、その軸がぶれれば大きな影響を生じざるを得ない。
組織やアベルカインの問題は摂理国家の韓国と日本のものとばかり考えてきたが、摂理国家に侵入した問題が周辺国家に伝播しないわけにはいかないのだろう。
亨進様の呼びかけに、チリにつづいてモルドバが立ち上がった。
どうも世界的な問題になっているようである。
聖和以後3年以内に収集できない時には、神の祝福は韓国から異邦人に移されることであろう。
このような状況が続けば教会もアベルカインに分裂する可能性がでてきた。
一方亨進様が後継者であることを証しした仁進様がお母様とお会いしたり、お母様から活動のための支援を頂くことになった。
江利川姉が休眠状態である今、仁進様によって、お母様と亨進様の邂逅の日を設けて頂くことが唯一の希望である。子女様方が結束してこの情況を打破しなければ解決の糸口さえ見えないであろう。カインの子女である祝福家庭の問題をアベルの家庭が収集する責任があり、そのためにはカインの子女が偽りの信仰で結束している事に対抗することができるアベルの子女の結束は必要不可欠であろう。
トンデモ神学者のみならず、このような窮地に教会幹部が陥っているとは実に嘆かわしいことである。
このような追悼礼拝では万歳運動よろしく叫んで、
「お母様は無原罪ではない。お母様はありのままのお姿で、無原罪より遥かに素晴らしい、他に比べようのない勝利者であられる。ありのままのお母様億万歳!同意する者は私と一緒に叫んでください。ありのままのお母様億万歳!・・・・・・」
と立ち上がって繰り返し叫べば良かったのである。
信徒に叫ばせれば良かったのである。
しかし、誰もいなかったとは残念である。
側近たちは知らないのか!異次頓(イチャドン)を!
金 教斌著 「人物で見る 韓国哲学の系譜」50~51頁を引用する
新羅仏教は高句麗や百済の仏教とは違いました。もっとも大きな違いは、殉教からはじまったことです。いかなる宗教であれ、血を流して受け入れたものは強い力となります。
たとえば、カトリックは殉教を通じてローマの国教となり、韓国の天主教も朝鮮王朝後期に多くの信徒が弾圧の犠牲となり、その上に現在の韓国天主教(カトリック)の隆盛があります。そして、新羅仏教の殉教者は第23代法興王(514~540)の甥・異次頓(イチャドン)です。新羅では最初に仏教を取り入れたのが王室で、新羅王室は積極的に仏教を布教しました。しかし、新羅建国の主役だった土着の貴族たちの考えは違い、仏教の発展にブレーキをかけていました。そのような情況を背景に、仏教を発展させようという王の意思を察した異次頓は、みずから殉教をはかったのでした。
彼は臣下がすべて集まった席で王に願い出ます。
王様、どうか仏教を国教として認めてください。
しかしこのような私の願いを聞けば、きっと貴族らは
猛反対することでしょう
そうなれば、朝廷は混乱します
それゆえ私は、仏教の承認を願い出ると同時に
朝廷を乱した責任をとりたいと思います
どうか私を罰してください
『三国遺事』には異次頓の首をはねたとき、その首から白い血が飛び出て天から花の雨が降ったとあります。あまりにも誇張された話です。しかし、奇跡は起きました。この事件をきっかけに王の命令ではなく、王と臣下が心を一つにして仏教を受け容れます。
異次頓は仏教のため仏陀のため命を捧げるのだから、異変が起こる、奇跡が起こると預言して果てた。はたして切り落とされた首の切り口から乳白の液体がほとばしり皆を驚かせた。昔韓国に国士有り。
今度は日本人 ペトロ岐部カスイである。
五野井隆史「ペトロ岐部カスイ」から少し引用して、祭司たるもの牧会者たるものの覚悟を学びたい。
ペトロ岐部カスイは、豊臣秀吉が伴天連追放霊を発布した1587年、父ロマノ岐部と母マリア波多の子として大分の浦辺で生まれた。
父はパードレから洗礼を授けることができる許可を受けていた信仰的指導者であった。
五野井氏によれば、ペトロ岐部カスイにはジョアンという兄弟がいて、長崎にいた母マリアは日本にいたジョアンに対して以下のような報告があるという。
ジョアンには甚だ徳が高く敬虔なマリアという名の母がおり、彼女は息子と一緒に捕らえられませんでした。この女性は非常に年老いていて、彼女を扶養している、老女の杖でもあるジョアン以外には日本に他の子息を持っていませんでしたが、彼女は(自分が捕らえられなかったために)この唯一人の息子を神に捧げるというたいそう大きな願望を抱いていますので、我等の主が彼女にこの恵を与えるためにジョアンが捕縛されると、彼女はただちにこの意向のためにロザリオ誦1000を唱えることを約束しました。彼女は実際にこれを唱えましたが、たいして長い時間ではありませんでした(19号)
ペトロ岐部カスイのカスイは、五野井しによれば「活水」の漢字をあてて「カッスイ」と称するのが正しいとする説があるそうで、当時のローマの総会長クラウディオ・アクァヴィヴァClaudio Aquavivaの姓は
Aqua(水)+viva(生きた)を由来しているというものである。そういえば長崎のカトリック系の学校に活水女子大学などがある。
ペトロ岐部カスイは、どのような人であったか、五野井氏は語る。
大分県が先哲の一人として誇るペトロ岐部カスイは、ローマにおいて司祭になることを祈願して、マニラ、マカオ、ゴアに至り、灼熱の砂漠を踏破してエルサレムに巡礼したのちローマに上がって司祭となった。イグナティオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルの列聖式に際会した彼が、学業半ばにして急遽帰国を決意したのは、熾烈化する禁教迫害に苦しむ同朋に対する愛のためであった。幾多もの海難を乗り越えて帰国したのちには、島原一揆後の1639年に捕らわれるまで東北の地で潜伏活動に従事し、同年、江戸で拷問を受け惨殺された。まことにドラマティックな一生であった。自ら苦難を求めて未知の世界に飛び出し、異教の地を駆け巡り、殉教を覚悟して故国に戻ったペトロ岐部の在りようは時を超えて私たちに強く訴えるものがある。
長崎から出発して五年以上かけてローマに入ったペトロ岐部カスイであったが、天正少年使節の時の大歓迎とは異なり、一人門をくぐったという。
それゆえに、〔彼は〕迫害に苦しむ彼のキリスト教会を救済するために日本に行くべく神により召し出されたのである。そして彼は、そのことを少しも怖れず、また堪えることも意に介せず、またすべて日本において実行されていた福音の司牧者を殺す酷しい方法をも全く怖れなかった。
本人はどのように語っていたのであろうか。
聖なるパウロ、ヨハネ、ヤコボの修道士及びその他の日本の殉教者17人の列福は、私達には大きな慰めとなりました。そして、私が最も希望していることは、特に彼らの取次ぎによって将来日本全体がいち早く平和になって聖なるローマ教会に従い、主キリストに甚だふさわしい花嫁になることです。実際、花婿であると同時に父であるイエズス・キリストは、彼にふさわしい花嫁になるように私達の国を艱難と危険と殉教とによって清め飾り立てて下さるばかりではなく、さらに目下のところは彼らの列福によって教会全体のために照らし出し栄光を与えたいと望んでおられます(34号)
また
私達は何よりも先ず、私達の聖なる父イグナティオと聖なるフランシスコ・ザビエルの助力を絶えず乞い願っています。私達がたとい彼等の息子にふさわしくないとしても、このような大きな事業を成しとげることを、神が私達の罪のために私達を見棄てることのありませんように。
日本に来て苦労する中で背教の徒フェレイラに会ったという伝聞がある。
ある日本人が話すところによると、ぱーどれ・カスイ・ペドロは長崎に来て、彼(フェレイラ)に助言して、もしも彼が庄屋(役人)のところで前言(棄教を宣言したこと)を取り消すならば、自分は彼の穴〔吊し〕の拷問に同伴するだろう、と彼に言いました。しかし、その男はそのようにすることは望みませんでした。従って、パードレはすぐに退去してしまいました。ところで、これを知らせた人は十分な証拠とするほど疑いのないような証人ではないことです。恐らく来年には、追放された人々のなかで誰かがこの件についていっそう確実な報告を私に与えてくれるはずです。(43号)
彼の最後は二人の神父と共に同じ穴で穴吊りの刑に処され、二人の神父を励まし続けたが、役人たちは根負けしたのか、じわじわと長い時間苦しみを与えて殺すことを止め、激しい方法をとった。彼の死後二人の神父は棄教して牢送りになったという。
ポルトガル人がマカオにもたらしたこの拷問に対する記事は
パードレ・ペドロ・カスイは苛酷な拷問と全身にあてられた真ッ赤な金属片を耐え忍んで、キリストの偉大な騎士として死にました。人々が付け加えて言うには、彼は生きながら焼かれ、ついには彼はその忍耐によって全ての人たちを驚愕させました(46号)
2008年11月「ペトロ岐部と187殉教者」の列福式が挙行された。
列福式とは聖人に次ぐ福者としての地位が承認された儀式のことである。
ザビエルやロヨラの協助を得て使命を果たし天において彼らに迎えられたことだろう。
彼は我々に信仰者、また牧会者としての 覚悟を問うているのである。