原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

出家者(聖職者)と在家者(一般信徒)時代から アベル家庭とカイン家庭の時代へ

私が学生教会に所属していた頃は1800双以上しか祝福を受けている信徒がいなかった。献身者には祝福を受けていない者も多かったのである。

宗教の世界では、出家者(アベル)と在家者(カイン)という区別がある。

人類始祖のアダムとエバが堕落してしまったことから、本来は二分される必要のないものが、分離してしまったのである。それはあらゆる場面に現象として現れてくるが、この出家者と在家者という分離も同様にして起こってきたものである。

これらは本来の世界ではあり得ない様相なのである。

「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。」

以上のように神の定義が原理講論ではなされているが、

ここから

性相(心)と形状(体)の統一性 →個人レベルの統一性

陽性(男性)と陰性(女性)の統一性 →夫婦レベルの統一性

をその性稟としてうかがい知ることができる。

前者の性形の統一性が相対的に比べて神に似ている者をアベルとし

これは個人レベルでの話しである。

後者の陽陰の統一性が相対的に比べて神に似ている夫婦をアベルとし

これは夫婦レベルでの話しである。

ここで相対的にというのは堕落以前の世界においては、

本来は絶対的であった。

神と人に距離はなかったからである。

このような創造本然の人として降臨された方が

初臨のイエス様であり、再臨の文鮮明様である。

話しを戻して、出家者と在家者の区別が生じて来たのは

性形、心と体が神や仏という絶対者或いはその性稟である絶対価値、つまり神性や仏性に似て統一しているかを問題としているのである。

これは個人の問題であった。

ところが神が人に与えた祝福は三大祝福であった。

1,性形の統一によって人格完成し

2,陽陰の統一によって夫婦・父母完成し

3,天職をもって神と人と被造物に仕えよ

原理講論は以下のように記している。

神は万物世界を創造されたのち、最後に御自分の性相と形状のとおりに、喜怒哀楽の感性をもつ人間を創造され、それを見て楽しもうとされた。そこで、神はアダムとエバを創造なさったのち、生育せよ、繁殖せよ、万物世界を主管せよ(創一・28)と言われたのである。この三大祝福のみ言に従って、人間が神の国、すなわち天国をつくって喜ぶとき、神もそれを御覧になって、一層喜ばれるということはいうまでもない。

 

God created human beings as the final step in creating the universe. He created them in His image, in the likeness of His internal nature and external form, and gave them sensibility to all feelings and emotions because it was His intention to share joy with them. After their creation, God blessed Adam and Eve: These are the three great blessings. to be fruitful (mature and ready to bear fruit), multiply and have dominion over the creation.

日本語の口語訳聖書では「生めよ」であるが

to be fruitful の訳である。

成熟せよ(生育せよ)、つまり個性完成(個性を持って人格完成)せよという意味である。

性形(心と体)の一致度を基準として出家者と在家とが存在してきたが、実は個人の心と体において、神を中心とした一致が為さなければならなかったことが、堕落後の世界では個人差がでてしまったので、やむおえず分離してアベル(出家者)とカイン(在家者)に分かれてしまったのである。

このような神が創造本然の世界に求めなかった分離・分裂を創造本然の世界に導くために結果として現れてきた現象が「万民祭司論」であると見ることができる。

統一教会においては、万民祭司であることを神の前に誓ってきたのが「私の誓い」である。

個人路程であった。

ところが、私が伝道されてきた頃は未祝福者が多かったが、次第に祝福結婚をして祝福家庭が広まっていった。

すると神様は個人ではなく第二祝福に見合った「万夫婦祭司論」あるいは「万父母祭司論」の段階に進むことを促されるようになってくるのである。

つまり献身者と非献身者の区別が重要ではなく

祝福家庭か、まだそうでないかが重要に変わってきたのである。

そこで「家庭盟誓」を誓う夫婦や家庭をもってそのような摂理をステップアップされてきたのである。

すると教会でも、個人の男性牧会者のみでは片手落ちになってくるのである。

出家でも在家でもなく、神様が臨在される家庭という「臨家」とでも言うような姿に変遷せざるを得ないのである。聖家族化である。

神が家庭の内に住む「臨家」は夫婦揃って為さなければならないので、前回は夫婦牧師・父母牧師の提唱をしたわけである。

亨進様夫婦の礼拝は交互に行われる素晴らしいものである。

現在の教会では上位者が教職者を任命し監督する制度になっているが、上位者が任命するにしても、一般信徒の選任であっても、大切なことは模範的な夫婦であるか、少なくともそれを目指す者たちであるかが基準とされなければならないということである。

神を愛し神の御旨を愛する中で強く一つに結ばれていく夫婦が、牧会者とならなければならないのである。

多くの兄弟は外的な摂理ばかり気にしておられるが、

内的な摂理は今も昔も私の家庭教会なのである。

したがって個々の家庭教会が盤石であれば、今日の韓国の情況が如何なるものであれ、内的な心情的な神殿は崩壊しないのである。

個人的には長老派に近い組織形態がよいのではないかと思うが、選任は個人ではなく夫婦や家庭を基準として模範的な者たちが選ばれるべきであろう。

以上を振り返ってみると、

祝福が広まるにつれて

出家者が在家者をリードしてきた時代は終わりを告げ

祝福家庭のなかでアベル家庭がカイン家庭を導く時代が来ているのであろう。

したがって信仰歴や祝福区分もその内実を備えていなければ、意味がないどころか害になることさえ起こりうるであろう。

組織形態が機能不全を起こしている本質的な原因はここにあると

私は考えている。

3月にどれほどの英断をトップがすることができるかが問題である。

宋総会長にできなければ、厳しい冬の時代は続くことになろう。

 

最悪の時にはホームチャーチの摂理になることであろう。

回避できることを願う。

摂理の内的な進展に形態が付いていかず、引き裂かれたままになっているのである。

 

万家庭祭司、億万歳!