原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

村上みか牧師からルター宗教改革の意図と経緯を 下田尾治郎牧師から教会組織論を学ぶ

この20年の間で教職者の質の低下は目を見張るものがあると考えるものは私だけではないようである。

協会本部が制作した説教資料を読み上げるだけで礼拝は済ませればよいとお考えの牧師も現れている。

親切というものほど恐ろしいものはない。

主体性を骨抜きにしてしまうことがあるからである。

そういう礼拝はもう聞きたくないと二世の中には不参加する者が出てきている。

それどころか礼拝が苦痛である信徒はほとんど全員のようである。

御輿を担ぐのであれば、しゃべりはしないし動きもしないので、重くても支えやすいが、悪代官が詰め所で絞り上げるようにして、毎日毎日信徒にお説教が続いている。

信徒はただ過ぎ越しの祭りだと思ってひたすら人事の時を得て解放される日を待っている。自分の体面だけを価値基準として、ひたすら上の外的評価のみに眼をやるばかりの有様である。どうでもいいような重箱の隅をつつくようなことばかり、天下の一大事と奔走しておられる。

何故こうも放っておくのであろうかと思っていたら、教区長も問題と感じてはいるのだが、どうやら任命権と解任権を実質的に持っているのは中央本部で、何らかのタイミングが訪れないと如何ともしがたいという事情らしい。

こうなると、安倍総理に大臣の不祥事に対する任命責任はないと言ってきた私であるが、監督責任者である教区長に罷免権がないというのは如何なるものであろうかと考える。

つまり、こうこうこうした事情で人事刷新が必要であると、中央本部に教区長が申請できる仕組があり、それを本部が検討し判断するということが普通の組織のように機能していないことは、宋総会長の責任である。直ちに組織の機能不全をただして頂きたいと願うものである。

宋総会長は、かって誰もしなかった、職員による牧会者の評価をスタートされている。

次は信徒が教会でかかえている悩みや不満や問題をダイレクトにすくい上げる仕組みが必要である。パソコンからメールが打てなくても、携帯のメールはできるという婦人は多いであろう。

こうした相談や御意見の窓口がないので、個人の限界まで追いつめられた信徒がネットで垂れ流し状態という結末になるのである。

それらを集計してこのような方針で善処するとフィードバックすれば、多くの信徒に歓迎されるであろう。

現場で解決できないことでも本部で解決できることがあるのである。

例えば社長が営業所に訪問すると、そこではこんなことで悩んでいるとわかる。その営業所のレベルでは如何ともしがたい問題ではあるが、社長からすればなんだそんな問題なら俺のところですぐ片づくと解決することができることが多い。

単に地域の教会に訪問して激励したり、復活のための御言葉もあってよいとは思うが、その地区の問題に何があり、それをどう解決すればよいのか、本部として、総会長として決断実行して頂きたいものである。

この教会組織に思うことは、もっと実務的に詰めていけないのだろうかという想いである。

どんな組織形態であれ、心情が失われ御言葉の理想が形骸化してしまえば、教会は機能不全に陥いり、死に至る。

しかしながら心情の風通しのよい組織や組織風土を常にその時のニーズに応じて求めていく必要はあることであろう。

 

 

牧師とは何か

牧師とは何か

 

 

 

さて、この本の中に、村上みか牧師が書かれた「歴史的に見た牧師像ー宗教改革期を中心に」という論文がある。

ルターの95箇条について貴重な指摘があるので、そこから学ばせて頂くことにする。

 

宗教改革そのものは教職制を含めた「教会制度」の改革を意図して始められたものではなかった、ということです。宗教改革を引き起こす契機となったルターの「95箇条の堤題」(1517年)は、なによりもローマ教会の贖宥符の実践とその前提である「救い」の理解を批判することを目的としていました。すなわち、人は「よい行い」(功績)によって救われるという当時のローマ教会の理解に対して、ルターは聖書に基づき、人は苦しみを通じ、真の通悔によって罪を許され、救いに与るのだと主張したのです。この「救い」に関する問題提起が、「95箇条」の意図するところであり、ルターにとっての何よりの関心事であったのです。

もちろん、「95箇条」においても教皇の権限に対する批判は見られます。しかし、それは「救い」の理解に関わる限りのもので、教皇制度や教会制度そのものについての批判はなされていません。その後もルターは数年にわたってー1519年のライプツッィヒ討論までー教皇への敬意を表明しています。

 

 この辺の記述は我々の教会の現状を考察するときに参考になるような気がする。村上牧師は要約して

既存のヒエラルキー制度に代えて、より民主的な制度を形成するというものではなく、ルターが本来、意図した「聖書の示す救い」の告知を保証する制度の探求に他ならなかったのです。

 これはどこかの組織の状況に実に似ているのではないか?

信徒は救いを求めて何とかしてほしいと願い。

しかし、どうにもこうにも変わりようがないと承知するに至って

現在の体制は変えなければならないという方向に進んでいくということである。

内的な救いに対する保証が担保されている組織であれば、続行してほしいと思うが、「助けてください」とさんざんお願いしても変化の兆しが見えないと判断すると、今度は救いの保証をもたらさない現在の体制そのものを壊して、本来の状態が回復されうる組織形態を求めて、運動が展開してくるということである。

実に切羽詰まった状況に信徒があることを、組織の頂上にいる殿上人には理解できなかったことが引き金となるのであろう。

 

下田尾治郎牧師は、プロテスタント教会における三つの職制モデルを説明している。それぞれの特色を知ることは有益であろう。ごくかいつまんで引用することにする。

 

 監督制の特徴と牧師職理解

 最初に監督制を見てみましょう。監督制とは各個教会やそれらを牧する牧師たちの上に、それらを指導する監督職を立てる教会制度です。宗教改革以降、ローマと袂を分かつにあたり、多くのプロテスタント教会は、とりわけ、カルヴィズムの流を汲む、長老派教会、会衆派教会等は、監督職を斥けましたが、それを残すプロテスタント教会も少なくありませんでした。英国国教会聖公会)、ルター派教会、メソジスト教会などがそうでありました。しかしながら、監督職を残しながらも、教派によって、また同じ教派であっても国によって、その意味合いは異なっています。教務を総括するうえでの最高責任者という意味においてその称号を用いる教会もあれば、「使徒継承」の教理に堅く立ちつつ監督職を残している教会も存在します。

著者によれば英国国教会において、例えば最高位のカンタベリー大主教(監督)から分割された主教区の主教(監督)が任じられ、主教は自らの主教区内の教会の司祭(牧師)を任じる。

したがって主教は一般信徒とは区別され、「使徒継承」に連なる存在であるという。

我々においては、神による祝福結婚式を、真の父母の名においてなして、「家庭盟誓」に宣誓された信仰と生活の実践をもって「使徒継承」ということになるかと思う。

ここでの主は再臨主であり、真の父母であるので、その使徒としての自覚と生活が求められるところである。

文鮮明恵父がこのような言葉を用いているわけではないが、「万父母祭司」神と共に暮らす「家庭教会」理想が導かれることは明らかであると考える。

 

会衆制については

 会衆制の特徴と牧師職理解

 一人の霊的賜物に恵まれた聖職者のリーダー(監督)に教会統治(指導)の権限が与えられている監督制の対極に位置するのが、会衆派(組合教会、バプテストなど)の教会制度です。会衆派教会は、カルヴィニズムの流れを汲みつつも、独自の聖書理解に基づき、この次に述べることになる長老派とは異なる教会制度を発展させました。

 会衆派の教会は、伝統的に各個教会の独立自治を重んじます。各教会が重要な自柄を決定するに当たって、いかなる外的な権威からも自由であると主張するのです。また、会衆派の特徴は、その名の示すとおり、選ばれた少数の者(たち)の権威を通してではなく、教会員全体の総意にこそ、物事を決定するにあたり、キリストの御心が最も良く現れると考えるところにあります。こうした会衆派の考えは、聖書や教会史の資料に表されている初代教会の職制に対する理解によっています。初代教会において、監督や長老といった名称で呼ばれる指導者たちが出てくるにせよ、彼らの間に、また彼らと会衆の間に上下の関係は存在せず、また、教会の決定は決定は常に教会全体の参加のもとになされたと会衆派の人々は理解したのでした。

 

教会の総会こそが会衆派教会の中心に位置する最高決議機関となり、それゆえに「全信徒祭司性」をもっとも表すという考えのようである。

牧師の役割は重んじているとのことではあるが、

私自身は神が復帰摂理歴史を導いてきたのは、その時々の中心人物であるリーダーであったことから、このような組織形態は信徒が主体となり牧師が対象となって授受作用してキリストの体を表すというように見えることから、主客が逆であるように感じられる。

神が民を導いてきた様子とは違和感があるのである。

 

 長老派の特徴と牧師職理解

 同じカルヴィニズムの流れを汲みつつも、異なる制度において教会をキリストの御心に適ったものとして整えようとしたのが長老派の教会制度です。キリストの権威を教会に及ぼさんとして、長老派教会は、その教会運営を、会衆の中から選ばれた代表者(長老)たちに委ねます。会衆派教会がそうであったように、長老派教会も、このような制度を採用することの根拠を聖書に求めます。最も初期の教会は、長老たちを中心に組織されていたと長老派教会は理解しているのです。聖書においては、長老たちに対する言及は監督たちに対する言及より多く、また監督の名称も長老と同義で用いられているとされるのです。そのような聖書理解に基づき、長老派教会においては、教会員の中から、その信仰とまた生活態度において模範となる者たちを長老として選出し、それらの長老たちの集まりである長老会を通して教会が指導されるように制度が整えられています。かかる教会統治こそが、聖書に描かれた教会の有り様に最も近く、また最も良く教会をキリストの体に整えうると、長老派教会は主張するのです。

 各個教会の独立自治を強く主張する会衆教会とは異なり、長老派教会は、各個教会を大切にしつつも、諸教会の結びつきを重要視し、諸教会の連合体をキリストの体と捉えるいわば全体教会主義の立場をとります。各個教会(小会)の上に、その地域の諸教会をまとめ、しかるべく監督指導する地区長老会(中会)が置かれます。これは、基本的には地域の全牧師とそれぞれの教会から一人ずつの長老によって構成されます。

 地区長老会は、牧師候補者を、試験し、認証し、按手を授け、教会に任職する責任を担います。長老派教会においては基本的に牧師は、各個教会にではなくこの地区長老会に所属し、その権限に基づき、各教会に就任また離任することになるのです。

 

最後では牧会者の資格についてや手続きのところがあるが、今日の牧会者の堕落は、いい加減な選出に一つの原因があるものと思われる。

世の中では人材に三種ありとして

人在:ただあるだけの人、いてもいなくても良いような人、可もなく不可もなくということか。

人財:いなくてはならない人

人罪:いてはならない人

の三種が存在しているといわれている。

牧師としての位置にいてはならない人を置くことは罪深いことである。

あってはならないことである。

腐ったリンゴを放置していて全てのリンゴが腐ってしまったというようなことがないように総会長は責任を持って善処して頂きたい。

 

さて、下田牧師の研究は非常に貴重なものであると思う。

是非、比較検証の域から実践的領域に研究を進めて頂きたい。

そこには多くの教会に神の恵みがもたらされることと思う。

せっかく学ばせて頂いたお礼に、より実践的な進展を図るための糸口として頭の中に浮かんできたものがあるので、お話ししたい。

 

各教会宗派にはその考えに対応している組織形態があることは示されたが、この中に見られる、キリストの体として有効に働いていると思われるような共通の機能、或いはスキルを抽出されてみてはいかがであろうか?

その時有用であると思われるのはアイビイのマイクロカウンセリングであるように思われる。ぜひ一読されて、実際に詳しい方にお会いして、教会宗派をこえて活用できる実践的恩恵を神により享受できる道を切り開いて頂きたいものである。

 

マイクロカウンセリング―

マイクロカウンセリング―"学ぶ‐使う‐教える"技法の統合:その理論と実際

 

 

そのほか、石井智恵美牧師はガラテヤ人3/28を引用する。

「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」

 

そして男性牧師が陥りやすいセクハラ・パワハラの問題を指摘している。

「女性教職として、日々感じることは、男性牧師が女性牧師を同僚として受け入れるためには、まだまだ隔たりがあるということです。」

と語られている。

私見では、この問題は男性牧師であるとか、女性牧師であるとかいうような、個人主義的牧師観では限界があるのではないかと考える。

つまりベターハーフとしての夫と妻がワンセットとした牧師像が要求されているのだと考えている。

どんなに立派なことを語っていても、妻を愛すること尊敬することを欠いていれば牧師としては不合格であろう。

夫は妻を敬愛すべきである。

それを信徒が審判主となってチェックしてくださることであろう。

したがって個人で評価される牧師ではなく、夫婦で評価され父母の如き心情で揃って教会の信徒に仕える夫婦牧師像、父母牧師像が求められているのではないであろうか?

このように個人のレベルでは解決しにくいものを

かえって夫婦レベルに引き上げた牧師像を求めることによってしか

本質的な解決は訪れないであろう。

かって統一教会を迫害した森山牧師は奥様を僕の如く扱っているとして

キリストの弟子にあるまじき姿であると既成教会信徒が私に話された。

著書を送ってきたとのことであった。

牧師先生がおっしゃるように

男と女の形が揃ってこそ、神の似姿なのである。

何故、牧師がそのような道を先頭に立っていけない理由があるであろうか?

だからこそ、家庭教会であり、家庭における夫婦和合の牧師像なのである。

 

 

次回は、草創期の先輩方が伝統として築いた信仰精神が腐敗し、現在の教会の混乱が何故起きてきたのか、ある観点から検討したい。

後半は牧会者になるべき祝福二世のために牧会の基本を得るための本を一冊ご紹介する。

書き殴ったので誤字や引用の抜けがあるかも知れないことをお詫びしたい。

神のため信徒のため日夜精誠を尽くされておられる牧師の皆さんに感謝し

神の祝福のあらんことを祈る。

アージュ