原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

「牧師とは何か」を書いた既成教会の牧師から 牧師として必要なリーダーシップを学ぶ

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この本の監修者の一人である越川弘英牧師は。教会のリーダーとしての牧師について書いておられる。

 

 言うまでもなく牧師のリーダーシップは自己実現の手段ではありません。それは神に奉仕し、神の民に奉仕するための働きであり、リーダーはその器として存在します。牧師には神と神の民のために良きリーダーシップを発揮することが求められています。牧師がそのリーダーシップをどのように用いるかということは、教会共同体の形成と活動にきわめて大きな影響を及ぼします。だからこそ牧師は自らに課せられるリーダーシップをつねに意識し熟考することが求められるのであり、裏返して言えば、それを誤解したり誤用したりすることのないように自らを省みることが欠かせないのです。・・・・人々の信頼を得ることなしにリーダーがリーダーであることはできません。牧師はその人物を牧師として招いた人々によってリーダーシップを託されるのであり、リーダーとしての牧師はその責任を教会共同体として負うことになるのです。(14頁)

まさに正論である。正論が正論として現れないところに人間の責任分担の難しさがある。越川牧師はイエス様に見ることができる、サーバント・リーダーシップの概念形成の背景を以下のように紹介してくださっている。

 

 一般的なリーダーシップ研究の分野において、このサーバント・リーダーシップという概念を提唱したロバート・K・グリーンリーフは、「優れたリーダーは、まずサーバントと見なされる」と述べています。グリーンリーフ自身、クエーカーの新興的背景に立つ人物ですが、彼は「奉仕を通して導くリーダー」というイメージを、教会のみならず現代社会のビジネスの世界に生きる人々に対しても真に有効となりうるリ-ダーシップの形として提唱しました。

 サーバント・リーダーシップの大きな特徴は、従来のリーダーシップが上からのリーダーシップとしてイメージされるのに対して、言わば下からのリーダーシップとして理解されている点にあります。すなわち、従来であれば地位と権限を委ねられたリーダーが組織の下位にある人々に向かって(往々にして一方的な上意下達の形で)リーダーシップを発揮してきました。これに対して、サーバント・リーダーシップの場合、人々への奉仕を通して関係性が築かれていき、そこから湧き上がってくるリーダーへの信頼に基づいてリーダーシップが発揮されるという点に大きな特徴があります。そこで鍵となるのは、地位や権限、権威や権力ではなく、相互の信頼であって、それゆえにこそリーダーに求められるもっとも重要な資質とは、「信頼に値する誠実な人間性」ということになります。(17頁)

 ビジネスの世界では20年くらいまえであっただろうか?逆さまのピラミッドという組織論が提唱されてきている。会社の組織図を逆さまにしてみると、当然トップが最下位にくる。このトップから始まり、上位の役職の者は下位の者の目的・目標達成のための支援職であるという考え方である。

戦略の作成はトップダウンだが、その実行においては、トップや上位者は下位者の支援をするということである。

サーバント・リーダーシップはこのような組織論におけるリーダーの在り方に焦点を置いたものであろう。

このような組織論は末端組織が人間の細胞のように主体性を持つようになる。

昔のドラマ「コンバット」のようなものである。

譬えが戦争っぽい?

そのように捉えると、サーバント・リーダーシップというのはリーダーが仕える、すなわち支援に回ることを通して、フォロアーが主体性を復帰し活性化することを目的としていると見ることもできそうである。越川牧師は先の方でこのように語っている。

 

歴史を振り返ってみると、古代教会のある時期から監督・長老・執事(司教・司祭・助祭)といった専門職としての位階的な職制が整備されていくにつれて、一部の例外を除き、教会のリーダーシップは遠ざけられるようになり、教会における多様なリーダーシップは影を潜めるようになっていきました。中世における極端なまでの聖職権威主義clericalismのもとで生じた聖職者と信徒の二分化は、教会において「リードする者」と「リードされる者」の二分化を生みだしました。こうした傾向に対し、16世紀の宗教改革はすべての信徒がキリストの祭司職にあずかることをしゅちょうしたのです。(万人祭司)

 

 このような人間本性の宗教的主体性復帰運動として、最終的に現れてきたのが文鮮明恵師の提唱した「私の家庭教会と牧会者としての私」という概念である。

神様は毎日私の家庭を訪問してくださっているにも拘わらず、所属教会の牧師に聞かなければ恵を知ることができないというおかしなことがずっと続いてきたのである。

神様は人々との交流を強く欲しておられたが、牧師という通訳が常に必要であった。

何と不便で不自由な神様であったことだろうか!

ところがこれは神様自体に問題があったわけではなく、アダムとエバの堕落によって神宿ることのできる家庭理想を失い、それ故に万父母祭司・万家庭教会・万家庭礼拝理想が失われてしまったのである。

復帰摂理歴史に登場する中心人物とは基本的に祭司の立場である。神の祝福を受けたアブラハムとサラは諸国民の父となり母となって、真の父母理想を実現し、星や砂の数のように子孫を増やし、真の家庭理想を伝播していかなければならなかったのである。

イサクはモリヤ山に登っていく中で自分が祭物になるのだ、献祭になるのだと覚悟を決めたので、祭司の心をもったのであり、アブラハムは自分が祭物になって死ぬより、老境に得た子イサクを捧げるのは辛かったが司祭としての任務を果たした。

またサラも然り。こうして、食べたら死ぬ善悪知るの果を命がけで食べた蕩減を、親子三者が死線を超えることによって、サタンの血統の死亡の血を流し、神が忘れることのできないアブラハム家庭が誕生したのである。

今日我々が「祝福の中心家庭」というのは、神の祝福によって摂理の中心人物となった夫婦・父母が祭司である真の家庭、内的には家庭教会、内的な神殿であるというのである

そこで天一国主人、私たちの家庭は」家庭盟誓は始まるのである。

こうした内的神殿たる家庭教会が集合統一されて、キリストの体・真の父母の体として、外的に建設されたものが所属教会であったり、本部教会であったりするのである。

したがってこのような教会は、家庭教会を訪れ現れた神様の恵の交換相続の場であり、それゆえ栄光の場でもあるのである。

「天宙の代表的家庭」というのは神様を心情的に拝していながら、しかもそのことがあまりにもあたりまえのことなので、すっかり忘れてしまい、家庭から教会の名がすっぽりと抜けてしまっているような「真の家庭」である。

そこで、祝福二世は祭司として牧会者として育成していかなければならないのである

結局のところアブラハムの家庭に象徴的に見られたように、

これらの家庭は家庭そのものが祭壇となり、その構成員である家族全てが一人の祭司のような立場で、神に侍り神の臨在訪問を招く家庭となるのである。

「汝の若き日に汝の創り主を覚えよ」

そこで、文鮮明 恵父の「牧会者の道」を全ての祝福二世に、早急に普及し、お母様が願われる、一世と二世の交代を推進して、そのことによって罪悪責任者達もまるごと一掃しなければならないのである。

草創期の日本統一教会では二十代前半の青年達が教会長として奮戦し今日の礎を築いてこられた。

現在では数十年に渡って前線で信仰してこられた婦人の皆さんが教会を支えておられる。若く希望に燃えた青年が牧会者として立つとき、頼もしい息子のようにおもい、頼もしい孫のように思って支え、教会は復興し発展することであろう。

生きた神様を真に奉じるのであれば、このような厳しい環境にあったら二世はひとたまりもないと考えるのではなく、一気に一世を二世に換える時である。

仁川上陸作戦の絶妙なタイミングの時である。

 

イエス様は 独身の時殺害されてしまったので、あなたがたは神の宮であるとは言えても、神の家庭神殿であるとは言えずに天に旅立つことになってしまったのである。

「万民祭司」観は究極のところでは個人信仰に止まってしまうのである

したがってこのような出発を果たした内的な個人的キリスト教信仰が形骸化していくと、アメリカのような外的な個人主義となって蔓延するような、新天新地とは言い難い様相を現すしか道がないのである。

ここに名高いルターの「万民祭司」論の限界があるのである

ルターの限界はこの言葉の背景にある個人主義的信仰観(個人救済的信仰観)である。

そればかりか全ての宗教の限界がこの個人主義的信仰観なのである。

明確な家庭信仰観が欠落しているのである。

これではアダムとエバの堕落以前の、創造本然の創造目的を果たすことはできないのである。

そこで天一国主人、私たちの家庭は」となるのである。

 

さて、我々の統一教会もまるで中世のような権威主義に汚染されているようである。

 

「祝福家庭のための 侍義生活 ハンドブック」という本があるが

この本には信仰生活の儀式的側面や形式的側面は書かれてはいても

肝腎の心情世界の案内は皆無であると言ってよい。

侍義とは心情によって知られるものである。

形式を全うしても行義にこそ慣れ、果たして信義になるのであろうか?

ましてや侍義になるのであろうか?

 

さて越川牧師はこのほかにも多くを語ってくださっているが、今日世界宣教に行く祝福二世が多いので、下田尾治郎牧師の「神学的に見た牧師像」より牧師を意味する三つの言葉である、レバレンド(reverend)・ミニスター(minister)・パスターpastor)の区別を学びたい

 レヴァレンドは通常、牧師の個人名の前に付して、the reverend...のように用いられます。この用語は牧師自らが名乗る場合にも使いますが、元来は、revere(尊敬、崇拝する)という動詞から派生したものであり、敬意を込めて用いられる尊称と考えられます。

 それに対して、ミニスターという用語は、その動詞形に「仕える、あるいは奉仕する」という意味があることからも明らかであるように、神に対する「奉仕者」を意味します。具体的には、主に礼拝における説教や聖礼典の執行というかたちで御言葉に奉仕する職務者であることを示す際に用いられる職名です。先に述べてきたように、教会を建てるために、御言葉の権威を神より委ねられた者という意味に解することもできるでしょう。

 最後のパスターという用語は、元来、「羊を養い育てる者」(羊飼い)を意味する言葉であり、教会的文脈においては、任ぜられた特定の教会共同体の成員(信徒)一人一人に心をかけ、指導を行う者を指します。すなわち、牧師の牧会的側面を強調する用語です。

 一回で終えるつもりでいたが、ルターの万民祭司の話しが出てきてしまったので、

次回に村上みか牧師の「歴史的に見た牧師像ー宗教改革期を中心に」の中からいくらかピックアップして学ばせて頂こうと思う。また統一原理から私のような末端の牧師経験のない者が、ルターの主張に対して、何を更に得ることができるか、文鮮明恵父の恩寵の素晴らしさを確認したいと考えている。

正直に申せば、これから神の導きによって得ようという、他人から見れば、なんとも頼りない有様ではあるが・・・

 

最後に貴重な学びに与ったお礼として、S・F・ブラウンの「プロテスタント」を引用することにする。

 

プロテスタント (シリーズ世界の宗教)

プロテスタント (シリーズ世界の宗教)

 

 

 

福音書はキリストの敵対者として三種類の人々をあげている。

律法学者・サドカイ人・ファリサイ人である。

 

律法学者については

「律法学者」(scribe)とは、「書記」(writer)を意味している。ユダヤの書記は、何でも転写していたわけではなく、トーラー、すなわちユダヤ教の聖書を転写していた。書く者は、しばしば読む者でもある。律法学者たちは、ユダヤ教徒ヘブライ語聖書を緻密に読み込んでその意味を解釈する、公的な釈義家だった。祭司の役割が祭儀を司ることだったのに対し、律法学者は、教義を明らかにする役割を果たしていた。だから、自分たちによる訓練を受けてもいないのに、トーラーすなわち「旧い法」を解釈しようとする者がいれば、誰であれ、疑ったわけだ。さらに問題なのは、モーセノ法が神に与えられた法だったことだ。それゆえ「新しい法」を提示する者、しかも自らの名においてそれを敢行する者は、律法学者たちの眼に、神ご自身と神の法に挑戦しているように映ったのだろう。こうした多くの理由から、律法学者たちは、イエスと彼の使信に敵対したのだった。

 

 神様との約束の成就である「成約の法」を持ってこられた方が文鮮明再臨主である。

サドカイ人については

 サドカイ人は、ユダ地方がローマの支配下に置かれた後に影響力をもつようになった。彼らは、自分たちを含めたユダヤ人共同体をユダヤ教の伝統に根づかせることによって、力を得ていった。サドカイ人は、紀元前731年に始まったアッシリアによる支配のために、ユダヤ民族が分散し弱体化していったことを想い起こし、何とか自分たちのアイデンティティーを守る道はないものかと模索した。囚われの身になっている間だ、ユダヤ民族は雑婚を繰り返し、神に選ばれた民としてのアイデンティティーを失ったのだ。そこでサドカイ人は、独自の法ートーラーすなわち旧約聖書の最初の五書ーに忠実になることによって、ユダヤ民族のアイデンティティーえお守ろうと考えてきたのである。伝統は安心をもたらした。逆にキリストは、この伝統に挑戦する者として、疑念と不安を掻き立てる敵なのだった。

 雑婚ではなく神の血統と心情の相続者としての聖婚祝福を携えてやって来られた方が、文鮮明再臨主である。

ファリサイ人については

 ファリサイ人の名は、ヘブライ語で「分離した者」を意味する言葉から来ている。ファリサイ人は、成文法であるモーセの法に付随して生まれた、言い伝えによる法の体系を仕上げることに一役買った。彼らはサドカイ人から分離した者だった。彼らは、後者の法によって、ユダヤ人の生活を新しい環境に適応させ、絶えず変化していく世界を生き抜く具体的な指針を与えようとした。ファリサイ人には、彼らが新しい環境に適応しようとしたことを示す、ある特別な教えがあった。彼らは不死性すなわち死後の生を語り始めたのだ。そのために彼らはサドカイ人と対立した。というのも、サドカイ人は死後の生を否定していたからだ。イエスは「新しい法」を展開したのだから、ある意味では、ファリサイ人(分離した者)だったと言えるかもしれない。とはいえ、彼のラディカルな申し立ては、単なる環境への適応という域を超えていた。彼は全く「新しい法」を示すと申し立てた。彼は義務を満たすことを持って法とする考え方そのものに反対していた。彼は、より霊的なレベルに力点を置いたため、「旧い法」が要求する一連の義務のリストを脇へ押しやってしまった。

されに文鮮明恵師は、イエス様が語られたヨハネによる福音書16章12節~13節

を根拠とする「成約の法」を携えてやって来られたのであり、イエス様に直接学んだ弟子たちでさえ理解できず、拒絶するかも知れない内容なのであるという。

 

12 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。

13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

 

イエス様の時代のそのことを著者はこう纏めておられる。

 

 要するに、キリストの「新しい法」は、あまりにもラディカルで、この三つのグループのいずれにも到底受け容れられるものではなかった。彼らの眼からすれば、イエスがやっていることは単なる律法の改作ではなかった。彼はもはや法とは言えないようなものを「新しい法」として与えていたし、彼の使信はこの世を超越し、全く次元の違う約束の地を指していた。それは、あの世のことのように、従って、ユダヤの伝統に逆らっているように思われたのである。

 

再臨主も同様に受難の道を生涯貫かれてしまった。

神が再臨の日のために備えられたキリスト教第二イスラエル

再臨主である文鮮明恵師を通り過ぎ見過ごして去っていったためである。

我々の如き路傍の石がどうして御旨を支えることができ

資格があったことであろうか?

神の悲しみは測り知れない。

神の愛して止まない牧師さまたちに

神のなおいっそうの祝福があらんことを!

アージュ

 

牧師とは何か

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