環故郷以前において、しばしば兄弟にこんなことを話しかけていた。
本来神様に対して信徒が捧げた献金は100%御旨のために使われるべきで、献身者の生活費、すなわち人件費である給料にも使うべきではないと思うといったようなことです。
どうしたら信徒が精誠を持って神様に捧げたものが、途中で間引かれずにすむようなことになるか、その仕組みを生み出すよう努力すべきではないか。
私が30ぐらいの時にたまたま、やはり家に帰ってきてテレビを見ていると、アメリカの牧師が紹介されている番組でした。
たとえばスーパーマーケットのチェーン店を経営している、勿論大金持ちの牧師などが出ていた。アメリカでは事業を成功させながら、その経済的基盤を持って布教活動をしている牧師たちは多いという話しでした。
神の国を建設するためには莫大な資金が必要です。
どの宗教も地の果てまでも述べ伝えようと思えば、そのための組織の維持拡大とそれに伴う費用は莫大なものにになることでしょう。
90年代にヴォーリズというクリスチャンのことを以下の本で知りました。
青い目の近江商人メレル・ヴォーリズ―創業者精神「信仰と商売の両立の実践」を受け継いで
- 作者: 岩原侑
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彼はメンソレータム(現在のメンターム)の販売権をアメリカの会社から買い取り、日本で販売する事業を設立しました。
アメリカはプラグマティズムの国とあって、信仰と事業のバランスが非常に上手いのは羨ましい限りです。
信徒がまさに神様のために捧げられた献金が、公的な職務とは言え、そのための給料として払われ、聖職者が使っていることは、実に神の前にはずかしいことです。
何十年もの間、改善されず放置されてきました。
もし、神のものが神にのみ帰するための仕組みができていたら、今日のような宗教改革前夜のカトリックの腐敗堕落のような惨事を我々は見ることがなかったでしょう。
今回は大変多くの人事があったようです。
ある教会では本部預かりの方が出ました。
すると離任式があります。普通は送り出す人が準備するものですが、
先ず「功労金」がいくらと請求し指示をします。
花束から何からご自分のために事細やかに言い渡します。
サモニムは家庭部長です。
隣の教会では無償で働く家庭部長がいます。
ある婦人が生活のため8万円をパートで稼いでいたとします。
ところが教会ではどうしてもこの方に力を貸してほしいということになりました。その方にとって生活費は無くてはならないものです。この時同等の価値の報酬が支払われることは何の問題もないことでしょう。
ところが、自分の方から報酬を要求し、その活動は毎月ほぼ皆無に等しく、それどころかその方にだけは相談したくないと信徒たちが思っていたとしたらどうでしょうか。
さらに、任命権が牧会者にあります。誰も文句が言えません。
このように利害関係者が任命したり、されたりすることを放置している上司の責任は重大です。このような利害関係がある時に限り第三者が任命権を持つようにすれば良いだけのことです。
姑息なことができないような環境を造ってあげて、間違いを犯さないようにしてあげるべきでしょう。
今日の牧会者は一般信徒よりも、遥かに基準が低いことを多くの婦人たちは見抜いてしまっています。
御自身の車を教会に無理矢理買い取らせます。
そして公用車を私的に乗りまくります。コスト削減というわけです。
離任した後も、返さずできる限り使うでしょう。
サモニムも女帝なんだから何でも言うことを聞きなさいと、
運転手を付けて使用してというふうに、スタッフを使い続けるでしょう。
もはや自分が何をやっているのかわかりません。
全く罪の意識も、公私の区別も付かないのです。
統一教会では男女問題と公金くらい口うるさく指導される重要なことはありません。
それがさっぱりわからない方が、仕切直して別の地域でどうやって責任を果たせることでしょうか。
本人のためにも末端の一信徒からやり直させる機会を与えてあげるべきでしょう。
信徒は献金を捧げる人、ご自分は公費を使う人。
まるで頭の中はそのように仕分けされているようです。
婦人部長はおやめになり、基台長も三人やめて、地方の教会がどうやって成り立つことでしょう。教育部長も信徒がなけなしのお金で作ってきてくださる料理の味にけちを付け、あれを作ってほしい、これを作ってほしいと頼んでいます。このかたも公金の感覚がありません。すっかりこれが当然という自動運行モードというわけです。
月に一度の帰省どころではなく、度々帰るその費用は誰が負担するのでしょう。
どうやって、次期責任者はやっていくのでしょうか。
しかも当然厳しいところで仕事をされた方が来るでしょう。
統一教会はJリーグのように何層ものピラミッドがあって、競争して上位にありつくような人事になっているようです。
これは新陳代謝が必要なサッカーには良いのかも知れませんが、これを教会が全面的に展開すると、疲弊する教会には常に実力がないと評価された方が赴任することになり、教会が死に至るまで続き、どこかの教会に吸収されるようになります。
ある教会を外から見ていて思うには、もう教会の建物はなくして、代わりに現在の貧弱な統一原理を受講する施設を変更するため、投資して大きく充実させて、伝道の目的に特化させ、そこから出発した方がよいと思われます。すでに外部施設で礼拝することもあるのですから。
お母様の発想と同じです。
まあ、ピラミッドで依然としてい行くしかないんだと言うかも知れません。仮に牧会者が200人いたとしたら、その中には教会を建て直すことが得意な人はいないのでしょうか。世の中でも会社が行き詰まった時に復活させる再建王と呼ばれるような方がいます。
我々の組織にはいないのでしょうか。
10人ぐらいいればよいのですが。
そういう人に疲弊した教会を担当し、杓子定規に基礎数かなんかで、ばっさり振り分けないでメリハリを付けてやれないものでしょうか。
評価によって自分が報われるように人間というものは動くわけですから、損益計算書の利益(献金)ばかりで評価するのではなく、バランスシートがあるように、教会の神霊に満たされている信徒が資産としてどれくらい計上されているかも評価されるべきでしょう。
すなわち教会長や伝道部長や教育部長が前任者に比べて私を復活させてくださったかどうか、実践メンバー以上の調査をするべきでしょう。
勿論それは支給する給料や昇格・降格に反映すべきです。
あたりまえのことをあたりまえにひとつひとつ実行するだけでも随分問題が解決するように思えます。
トップは前線に立たなければなりません。
これは前線の教会に行くということよりも、最前線の事情に通じるということです。それによって初めて正しい判断と決断ができ変革を起こしていけるからなのです。
問題はない方がいいに決まっていますが、問題があるのが人生です。教会においても問題があっても良いのですが、問題が起きた際に、本人に対してはどのようにしてこのようなことが起きないようにすべきと考えるか、「歯止め」を自発的に求めさせることが重要で、仕組みにおいても同様に「歯止め」をどう組み込むかが重要です。単に追求するだけでは建設的ではないでしょう。
亨進様は大変勘違いされているようです。
日本人信徒は、神様に献金したものを、どうして公金横領したものから取り戻してほしいと思うことでしょうか?
決してそんなことはないでしょう。
神に一旦捧げたものは全て神様のものです。
神のものは神に返されるべきです。
一旦捧げたものを日本人が取り戻したら、
今度は日本人も神のものを強盗したことになります。
たとえそれによって、結果として破産しようが、
年金がもらえなくなろうが
学資保険がなくなろうが
生命保険をかけられなかろうが
それが何でしょう。
そんなものはイエス様の時代にはなかったでしょう。
我々はイエス様が金持ちの若者におっしゃっられた言葉を
そっくりそのまま信じてメシアに従っているだけだからです。
お父様やお母様が先駆けて道を歩み示してくださらなかったら
とうてい我々如きには夢にも考えなかったことでしょう。
だから、神のため御旨のためにお使いくださればそれが幸せではないですか。
マタイ伝19章には
:16)すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
:17)イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
:18)彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
:19)父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
:20)この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
:21)イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
:22)この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
:23)それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。
:24)また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
日本人は可もなく不可もなく、金太郎飴のようにみんな、それなりの信仰者というかんじですが、韓国人は大変有能で立派な方か、それとも大変問題を抱えた困った人かのいずれかが多く、それなりの日本人のような人は極めて少ない。極端な話、これから憶測すれば半分は良いが半分は?ということになる。
大ざっぱには日本全体の韓国人牧会者の半分には問題があるのではないかと疑われることにもなる。
まあ日本人だって同じようなものです。
今日の学校の先生が昔の先生のように尊敬されるどころか、問題を起こして、尊敬を失っているように、今日の牧会者も同様な有様ではないでしょうか。
だったら全部二世に換えても、リスクは同じだと思います。
韓国からの出稼ぎ労働者に近い有様になってしまっているわけです。
出稼ぎ労働者なら結構ですが、実際はトラブルメーカーであることが多いのではないでしょうか。
在日の信仰的な同胞の信徒の皆さんとは何でこうも違うのでしょうか。
ところが止めさせても基準が低いので何をしでかすかわからないので、本部預かりになるのではないかと疑いが生じてくるのです。
献金はこの人たちの維持のためにさらに使われていきます。
囚人のために国民の税金が使われているのと同じ事だというわけです。
なぜこんな恥ずかしいことを書かなければならないでしょう。
できるだけ早く実際の全国の情況を正確に把握して頂きたいからです。どんな問題も十分な情報と問題の正しい定義ができれば、解決の道がまっています。蓋をせずに、神様どうか心配なさらないでください。必ず御心のままに解決して参りますからと、お父様のように歩んでいきたいものです。
ではお父様は牧会者に牧会者はかくあれと、どのように話しているのでしょうか。お父様はレビ族がなぜ祭司たる身分を備える資格を持つことができたのか、「牧会者の道」の中に示しておられます。
1 牧会者の起源はレビ族の祭司長
我々統一教会の信徒たちは、アベル的立場で国家的祭壇を設けなければなりません。分かりますか、どういう意味か。国家的です。民族を代表する国家的祭壇を設けなければならないというのです。
祭壇を設けるためには、祭司長の責任を果たさなければなりません。祭司長の責任を果たそうとすれば、祭司長がいなければなりません。ですから祭司長がいないのに祭壇を設けてはいけません。祭司長がいなければなりません。祭司長になろうとすれば、どうしなければならないのでしょうか? 全世界にあって、神様が愛する祝福を受ける一族にならなければなりません。そうでなければ駄目だというのです。それはレビ族です。分かりますか? レビ族でなければ駄目なのです。
今日、統一教会の教会員たちは、どのような立場に立てられたのかというと、レビ族と同じ立場に立てられました。それではレビ族とは、どんな一族だったのでしょうか? それは、所有するものがない一族です。十二支派たちが支派を編成して、土地を分配される時、レビ族は分け前を受けましたか? (受けませんでした)。受けなかったというのです。体しかありませんでした。体しかなかったのです。自分の所有物というものは、何一つなかったのです。
レビ族という一族は、自分の所有の分け前がないというのです。彼らの所有するものといえば、どんなものでしょうか? 聖殿です。彼らの所有は、聖殿しかないのです。聖殿の中には、祭壇があります。そして、祭壇があると同時に、祭壇の上に祭物があります。祭物を祭事にささげて、贖罪の恵沢を民に与えたのちに、祭物を自分の取り分として取るしかないのです。そうでしょう?
そのようなことを考えるとき、我々統一教会は、どのようにしなければならないのでしょうか? 我々統一教会自体は、レビ族のような立場に立たなければならないというのです。そうしようとすれば、私たちは、所有するものをなくさなければなりません。所有するものが多いですか、皆さんは? 自然にそのようになっていなければなりません。
ところで、一つ心配になるのは何でしょうか? そのような立場に立ったならば、祭司長にならなければなりません。祭司長となって聖殿をもたなければなりません。そして、聖殿をもったのちには、祭壇を設けなければなりません。また、祭壇を準備したなら、祭物をささげなければなりません。祭物をささげなければならないというのです。祭物をささげようとすれば、神様がこの地上の人類を救うために、昔は、羊と牛をつぶして祭物としてささげさせましたが、一番最後には、自分の一番愛する息子を祭物としてささげさせたのです。一番愛するもの、一番大切なものを、祭物としてささげよというのです。一番大切な祭物とは何ですか? 自分です。ですから、自分を祭物としてささげよというのです。
ですから、イエス様がこの地上に来て、もし祭物をささげて勝利していたならば、大祭司長になっていたのです。ところが、大祭司長になれずに、祭物になって亡くなってしまったのです。それゆえに、今日私たちは、大祭司長になる前に何をしなければならないのでしょうか? 祭物をささげなければなりません。祭物をささげようと思えば、どのようにしなければなりませんか? 血を流さなければなりません。裂かなければならないし、犠牲にならなければならないのです。それが原則です。犠牲にならなければなりません。
このようにして、私たちがある基準をなして、この民族が私たちによって、天の前に立てられるようになる時に、イスラエル十二支派は、ユダヤ民族は、このレビ族が正しくなせるか、なせないかによって、その民族の興亡が左右されたというのです。祭司長たちが腐敗すれば、その国も滅びるのです。祭司長が忠誠を尽くせば、その国も栄えるというのです。過去の歴史がそうだったというのです。(一五五・二七六)
第二節 現代の祭司長 責任者の行く道 より
お父様は救い主としてこられました、お父様が排斥すれば、その人は救いの道が閉ざされてしまいます。そこで大変叱られはしますが、悔い改めを促され、多くの信徒の前でその者を打たれて精算してくださり、再び歩むことができるようにしてくださいます。
ところがこれを逆手にとってしまわれたらどうでしょう。
では誰が審判するのでしょう。
それは子女様がすることになっているのです。
だから、都合が悪い子女様は常に蚊帳の外に置かれるようになっています。顕進様の本を読んでいると如何に迫害されてこられたかが、わかります。お父様を一世とすれば、アベルとカインの二世があり、アベルが御子女様であり、カインが我々信徒であるのに、アベルの子女様を押しのけてお父様に直接つながろうとしてきたのが、多くの問題を引き起こしてきたのだということが、よく読むとはっきりわかります。
つまりお父様を中心とした、アベルの氏族(真の御家庭)とカインの氏族(祝福家庭)の一体化の問題なのです。
ではこの問題はいったい具体的にはどのようなところに現れてきているのでしょうか。
今日の教会組織の問題はルターに始まる宗教改革に比較され、何人ものルターが教会から出てきました。
しかし、私はもう一つ別の類似があり、そちらの方が本質的な問題であると考えています。
次回はその話しをしたいと思います。
個人的なことを詳細にあげつらうのはもう止めたいものです。
私自身そのような資格を持つ者ではありません。
多くの失敗の果てに今の自分があります。
しかし、そのような者を一度たりとも神は見捨て給うことなく、今日まで励ましてくださり、導いてくださり、明日を指さしてくださっています。
必ず、お父様の伝統を二世に引き継がなくてはなりません。
皆さんに、神の加護と祝福のあらんことを!