堕落論 動機と経路を考える 神山問題を例にする
神山の信者は動画をアップして悪の繁殖を意図している。
何故お父様に反逆する神山に、今もなお付くのであろうか?
神山が昨年9月26日に博多で行った勉強会なるものでの講義は悲惨なものである。不安を煽るような無責任な態度である。
「間違ったアベルに従う必要がない」と言うことを異常に強調している。
しかし、教会でもこのようなことは昔から指導されてきている。
特に非原理的な命令に従う必要はない。そのような問題に接した際には直ちに自分のアベルのさらに一つ上のアベルに相談する事になっている。
つまり、神山のように主張する場合は、必ずこの件を伝える責任がある。ところが神山はこの件には一切触れていない。
間違ったアベルに従う必要がないというのは、通常は問題の中にある信徒に道を示して問題を解決させるためであるが、神山の場合は、自分がお母様や教会の方針に従わない理由として、アリバイ工作として語っていると推測される。(事実認識と推理認識・動機の確認)
ここで分かるのはアベル・カインが神山には分かっていないと言うことである。
「今まで歩んできた私の長い年月の直接のアベルはお父様でした。真の父母様であると共に私のアベルでした。指示され報告する上司がいなくなってしまった。お父様が霊界に行かれたので、ちょうど糸が切れた凧のようになってしまいました。」
そこで、お母様に相談すればよいものを、自分でアベル捜し(子女様の品定め)を始めたというわけである。逆の発想である。自分で決めて良いというわけである。
アベル・カインという設定を否定すると堕落性を脱ぐ道がなくなる。
また、お母様を否定すると原罪を精算する道が塞がれてしまう。
アベルもまたカインと同様に、本人の課題である堕落性を持っており、これを脱がなければならない。しかしだからといってこれを原理的な手続きによらず無視することはできない。
神山はお父様のハワイでの御言葉を説明する。
ところがこの時語られた重要な内容は、
国進様をアベルとし顕進様をカインとして、お二人が一体化することであり、その一体化した兄弟をお母様がお父様につなげるというものであった。
この件を意図的にはずして解説してはいまいか?不自然である。
私自身は基本的には真の御家庭にはアベル・カインはなく兄と弟の関係があるだけであると考えているが、この時はお父様ははっきりとおっしゃられている。
私見では歴史的縦的なカイン・アベル問題の一切をお二人の御子女様で横的に精算してくださるためであったかと思う。
すると、神山は国進様に顕進様が一体化する方向に協助なり支援なりしてお仕えすることが願われることである。しかし、実際にはそのような行動をとっている気配さえない。
お父様がアベルとされたのは弟の国進様である。極めて原理的で自然な選択である。
また神山は真の家庭が一つもないと騒ぎ立てる。そうでしょう、事実なんだから認めるべきだというわけである。お父様は勝利宣言をされているのにである。
全く話しにならない名誉会長である。
仮に一億歩譲って、その通りだと仮定しよう。
そうだとして、神山が先ず言わなければならないことは
「もし真の家庭が一つもないとしても、何時の日か私の家庭を真の家庭にして見せます。そういう決意ですから皆様の御家庭も続いて御父母様を証して参りましょう。」
このように宣言するのが名誉会長としての責務であろう。
自分の責任を放棄して、外野でヤジを飛ばすような真似は慎んで頂きたい。
お父様が勝利されていないのだから、まして私の家庭が勝利していなくとも許されると考えるのであろうか?前半部分も後半部分も凄い発想である。
私は6,000双であるが、後輩の6500双や30000双の立派な方々の躓きにはなりたくないと思う。
彼らの希望を打ち砕いて何が面白いのか?
善神の業や悪神の業の区別も付かないのか?
勿論、私は真の家庭を目指して精進していく。多くの普通の信徒は同じである。
もしそう言わなければ、後からくる6500双以下の信徒に対して失礼である。
どの家庭も、まっすぐに育つ子供もあれば、多くの試練の中に道を見失い留まる者もある。たとえ全ての子供が堕落したとしても、それがなんだ!そこで怯んでいる暇はない。孫の中に神を愛する子供を立てて、そこから3代を全うすればよい。
復帰摂理を何のために我らは学んできたのか?
如何なる情況からでも復帰の道を行くためである。
アダムとエバが堕落した際に、エデンを追放された神が、引き裂かれるような心情の痛みに打ちひしがれるままに、止まっておられたというのか!堕落して叫びにも似た恐怖ののなかで悲惨な人生を歩むアダムとエバを、一刻も早く救って祝福したいという一心で、復帰の道を歩んでくださらなかったとしたら、どうして今日の我々の永遠の命が蘇生する日を迎えることができたであろうか?
何故神山は「真の家庭となる」と宣言して先頭に立たないのだ!
笑止千万である。お父様を差し置いてそんなだいそれたことを言うのは失礼であるとでも言うつもりか?
家庭盟誓は如何なる事を宣誓しているのか?お分かりでないのか?
神様と完全に一体化したお父様を教会の人が「いい加減に扱った」という。
晩年のお父様を麗水で2年見たと言い、「孤立していた」と言っている。
「コーナーに追われてもうろくしたじじいのように扱われました。」と言う。
お父様をそのようにしたというのは、一体誰のことを指しているのだ?
「それを私はこの目で見てんの」
見ているだけで止めなかったのか?
「お父様が叫べども・・・こうしなさい、ああしなさい」
誰も聞かなかったという。
ところがこの頃先日紹介した愛勝日の動画ではお父様が分派活動をする神山を叱責し「神山の言うことを聞いてはならない」としている。
神山はこの言葉がいつから無効になったと公言できるのか?
お父様はもう神山の言葉を聞いて良いとするのなら、お父様が怒っていた理由である、お父様の考えとは違う郭や顕進と行動を共にしていないことが少なくとも条件になる。ところがこの点を咎められたにもかかわらず、聖和をいいことに、曖昧にして再び分派活動を続け始めたのである。死人に口なしという訳である。卑怯なことだ。
口ではお父様のためと言いながら、腹では自己弁護のため、そう、言い訳のための活動である。
お父様が誰に酷いことをされていようと何故その時に解決しないのだ。
見て見ぬふりをして、今頃批判か?そして泣くとは・・・・不思議な方だ。
二つの天聖教については
先ず、お父様の語られた御言葉は全て学ぶことが望ましい。
ところが、これを実行することが難しいので
お父様は御言葉選集をお与え下さった。
それでも難しいので天聖教という具合である。
したがって、旧天聖教であれ新天聖教であれどれもお父様の御言葉であるから、
どんどん学んでいけばよいのだ。足りなければ選集に進めば良いではないか?
大切なことは、ある事に関する御言葉がここにこのように書かれているというような、検索能力である以上に、そうした御言葉を体得することである。
我々はパソコンの検索機能に成り下がってはならないのである。
しかも旧天聖教以降のお父様の語られた重要な説教をこのように一つにまとめてくださったのであるから、大変感謝すべき点もあるではないか?
改竄という言葉を神山は業と使っているが、改竄というのは
お父様が語っていることと違ったことを書いているというような場合に使うべき言葉で、むしろ、お父様の意図と違った言行を咎められた神山にこそ当てはまる言葉である。
天使長ルーシェルは
過分なる欲望を持った。愛の基としての位置に執着した。
→神山は主人に愛された、以前と同じような位置を欲した。
「ラスベガスで責任者を集めての訓読会の後、私は麗水に帰り海洋指導者修練会の講師としての仕事に専念しました。しかしお父様が聖和された後すぐに、麗水の海洋指導者修練会が閉鎖されてしまいました。」
お母様が位置(役職)を続けて与えようが、位置(役職)を取り上げようが
愛の減少感を感じ続ける必要があるのだろうか?
お父様に褒められようが叱責されようが
変わらず忠誠を尽くすのが侍義の道ではないか!
「お父様がどんなに麗水を愛したか・・・。麗水で私が見たお父様は、何かの峠をのり越えようと必死で蕩減条件を立てようとされて居られる姿・・・そして、その蕩減条件をサタンに見せ付けようとされるお父様の姿が私の脳裏に焼き付いております。」
笑わせてくれるものである。
ところが愛勝日の動画では
「神山・・・。1/3を使えなくしてしまったのは、神山が先生に侍ることができず、先生を忘れてしまった。・・・病気になったからと言ったのに、お前、麗水シンチョン(新村?)においての石膏で全部モールを造るときに・・・お前、信じてたの?信じてなかったの?・・・今まで信じてなかったろう?ここまで来て信じてなかっただろう?信じるの?信じないの?答えは?自分の数十年間やってみた内容。私の話しは先生以上であると・・・日本が1/5、3/5を全部駄目にしてしまった。・・・・何故先生に付いていて、郭 錠煥に付いて、そして誰だ?・・・顕進に付いて行って。全部父母様の代わり!?全淑に付いて、全淑の名前が良いからといって付いていって。それしたの?してないの?・・・したの?してないの?・・・・2/5、3/5を駄目にしてしまった。」と叱責されているのである。
分数は変わっていくが基本的には
1,神山によって多くが駄目になり失われた
2,私の話は先生より以上であるとして
3,先生に付いているはずなのに、父母様の代わりにに郭や顕進や全淑について分派 活動をしている。
それで叱責しているのだとお父様は語られている。
そこで「神山の話は聞くな!」
と真のお父様はおっしゃっているのである。
それでも神山が正しいというのであれば、お父様が間違っていると言うに等しくなるのである。
そうか、お父様が生きて居られるのに、お父様の心情に立てず(神の立場に立てず)に、死後の自分のために政治的に動いて、新しい主人の愛の基を過分に求めて、お父様の心情から離れ(自己の位置を離れ)、お父様より私の話が上であると主管性転倒し、偽りの言葉で罪の繁殖をして、罪悪世界を築くおつもりであったようである。
幸いなるかな。神山を離れる者。
彼らは真の父に祝せられるであろう。