堕落論 「具体から抽象へ、抽象から具体へ」 と 「事実から推測」
第一節 罪の根 に出てくる思考に関係があると思われる言葉は、
言葉が文字どおりを意味するか、それとも象徴や比喩か というものがある。
このままでは使いにくいので、具体と抽象、具体的と抽象的という言葉に置き換えてみた方がよいかも知れない。
相対思考の時のように具体をみたら抽象をみる、抽象をみたら具体をみる。
または、具体から抽象化へ、抽象から具体へという作業を試みる癖をつけると言うことである。
もうひとつ「事実から推測」という言葉が出て来る。
このあたりをふくらませるために何か素材がないかと思い、宮永國子「とつぜん 会社が英語になったら」から少し文章を引用することにする。
「英語と日本語は別の言葉です。日本語で言えるけれど、英語では言えないことがあります。英語で言えるけれど、日本語で言えないことがあります。英語にあって、日本語にないものは、抽象表現です。物ごとをはっきりさせたい時に、日本語では「もっと具体的に言ってください」と言います。「もっと抽象的に言ってください」ということは、まずないと思います。分かってもらえないと思うと、相手は、これでもかと、具体例を繰り出してきます。ところが英語では逆に、具体例ばかり並べていると、教養のある人になじられて「だから、何を言いたいの?」と聞いてきます。具体論から一般論へと、展開してほしいのです。一般論は抽象です。抽象は、具体例をすべて含んでいます。だから一般論で言ってくれれば、具体例は一つあれば充分なのです。」
日本人は抽象から具体例を示すことは日常的に経験する事柄であるので、抵抗がないが欧米の方とのコミュニケーションにはその逆である、具象から抽象化して一般化することを求められることも多いという。
相手の伝えようとする意図をしっかりと受けとめたり、逆にこちらの意図を正しく受け取って貰うために重要なスキルが、具象と抽象の授受作用であるという。
より抽象化(一般化)れればされる程、それが示すものの範囲は広がっていく。
反対に具体化(個別化)されればされる程、それが示すものの範囲は狭まっていく。
中学や高校の生物学で脊椎動物をより具体的に あげると、魚類があり爬虫類があり両生類があり鳥類があり哺乳類があるという具合である。
この逆に例としてあげたものを抽象化(一般化)したものが脊椎動物ということになる。
以上のようなことは我々が話題にしている会話の内容にもあり、共通事項を見出しかっこでくくることを要求されることが国際社会では要求されることが多いということである。大変貴重な指摘である。
「こんな風に、英語には表現レベルが二層あり、話者は具体レベルと抽象レベルのあいだを、行ったり来たりするのです。これを二人の間ですれば対話で、そのやり取りがインタラクションと呼ばれるものです。これが会話のスタイルです。文法はこのスタイルを、正しく実践するためのツールだと考えると、英語はとても分かりやすくなります。」
このような正しいスタイルを、正しい文法で表現されたものは、教養のあるまっとうな英語すなわちproper Englishとなるというのである。
一流の英語という表現は差別的なニュアンスがあるために、まっとうな英語(proper English)という表現が使われるという。
「英語という言語は第一に分析的です。分析という作業は日本語の表現のようにアバウトなイメージを重ねていくのとは逆の作業です。英語はイメージを切り分け、無駄を削ぐツールとして、力を発揮します。そのためにこそ動詞を使い、そのためにこそ主語と目的語を確定するのです。イメージの持つ情緒や美観を犠牲にしても、英語は分析を優先します。英語の分析を知れば知る程、イメージ優先の日本語に慣れた私たちは恐怖感すら抱くことがあります。」
さて、宮永は以上のことによってTOEICとTOEFLの違い説明してくれる。
両者の目的が違っているのでその目的に対応した問題になっているというのである。
「双方の問題を見比べてみると、TOEICは事実認定を検定します。それに対して、TOEFLは推理能力を検定します。事実認定能力と推理能力は、両方あわせて、分析能力となるのです。「まっとうな英語」の要求する分析能力が試されています。」
宮永はTOEFLの成績がよい人はTOEICもできるとし、その逆は真ならずという。何故ならば推理には事実認識が織り込まれているからであるが、事実認識には推理が織り込まれていないからだという。それゆえ、TOEICができても、TOEFLはできるとは限らないという訳である。
「事実認識だけでは、推理は始まらない。推理は、事実の裏の原理を抽出します。この抽出過程を、「抽象」といいます。これは抽象の定義ですが、残念ながらこのあたりは、日本語には不得意な領域です。」
ということで、宮永さんの本によって、罪の根の本文の中にある思考のキーワードの理解を深めることができれば幸いである。
宮永さんによれば、観察能力や事実認識能力を前提とした推理能力と分析能力・抽象能力が「まっとうな英語」の必要条件であり、それらの総合はそのまま、英語では教養(Liberal Arts)というそうで、基本的な「知の力」を意味し、日本語の「教養」とはだいぶ意味が違うと指摘されている。
さて、皆さんお気づきのように、ということは、原理講論こそ英語で言う教養を培うことのできる教材であり、これ以上のものはないことであろう。
共に学んでいきたいと考える。