ウェイン・ダイヤーがエイブラハム・マズローに自己実現という言葉をどのような意味で使われるのか尋ねた際に、彼はこう答えたという。
「覚えておくべきことはたった二つです。ひとつは他人の良い意見に左右されないようになること、もうひとつは苦労してつかみとったものでもそれに固執しないようになることです。」
自己実現を主体性の確立と見なせば、前半は主体性の個性に関するものであり、後半は主体性の自由に関するものと見受けられる。
他人の良い意見という現象に左右されて、自らの本質である主体性を喪失することなく、かつ自らの精誠と試行錯誤の果てに掴み取った勝利さえも現象であり、それに囚われて自由という本質を見失ってはならない。
我々堕落人間の日常生活は実に多くの虚妄な現象に振り回され、永遠の生命に至る本質の見性を置き去りにしている。重要なことはたった一つであると言われるところである。
本質と現象とは原因と結果に関連する概念であるかと思うが、前者が対比的に使われることが普通であるのに対して、後者はつながりに視点があると言えるかも知れない。
先日、天国におられる孝進様と霊通されたか、何らかの命を受けたか定かではないが、全国を巡回している信徒の話を聞いた。詳細は分からない。どうも教会は肯定も否定もしていないようである。
何の目的で活動されるどんな人なのだろうと、何故か心に引っかかっていたら、若い頃所属していた学生教会の信徒にジャンヌ・ダルクが降りた事を想い出したのである。勿論本当に本物かどうかは誰にも分からない。とりあえずその点は考えずに話を進めたいと思う。
米ソ冷戦の時代にあって、大学は民主主義と共産主義の思想の戦場でありしかも最前線であった。ここで共産主義や社会主義に同調する人材が育成され、また教育する教授自体も容共的な勢力が多くを占め、マルキシズムは学生やインテリのファッションであった。大学生は卒業して社会のあらゆるところに配属されていき、社会に容共的風潮を醸造して大きな影響力を持つに至っていた。
多くの学生がノンポリであっても、一部の学生が繰り返し繰り返し共産主義的思想を吹聴すれば、特殊な意見であっても目立ち、多くの影響をもたらしていた。
現在における中国が領土領海の膨張拡大をあからさまに意図する行動を取っているように、当時はソ連が北海道を占拠し、停戦に至るなどの可能性があった。
そんな国際情勢の中で文鮮明 恵師は一般に温厚な宗教者が反共を唱えることですら違和感を覚えられるものを、さらに勝共といういっそう強烈な名称の運動を展開されたのである。
共産主義に勝ると言うのであるから、共産主義の間違いを指摘するに止まらず、正しい代案も提示するというのが勝共のスタンスである。
さてある女性信徒が平和ボケしてこちらが誠意をつくせば、あるいは話し合いを丁寧にすれば、必ずや隣国は理解してくれるという妄想をもった日本人の問題の深刻さに悩み救国の心情から、夜を徹して何時間も祈っていると異変が生じたのである。
本人が教会に来るはずなのに連絡もないので心配した二人の信徒がこの女性の住むアパートに訪ねていったのである。ドアの鍵は掛かっていたが窓から明かりが見えていたので、声をかけたり窓を叩いてみても応答はない。何の気為しに窓を横に開けてみると鍵が掛かっておらず動いた。中を覗いてみれば本人がどうやら祈祷しているらしくうずくまっていた。しかし様子が変だ。呼んでも返事をしない。やむ終えず窓からひとりが入ってドアを開けもうひとりも中に入った。
するとこの女性に降りたジャンヌ・ダルクが話し出したのである。「わたしはジャンヌ・ダルクです。今まで多くの人々を(守護霊のようにして)協力し助けてきましたが、結局失望することとなりました。もう二度と誰も協助はしまいと心に決めていましたが、彼女の救国の祈りを捧げる姿にかっての自分の姿を見るようで感銘して、もう一度だけこの女性の活動に協力しようと思いました。」
さて霊が去り彼女は元の生活に戻り学内の勝共活動を続けた。ところが詳しくは知らないがスランプがあった。すると協助していたジャンヌ・ダルクは彼女を去り別の信徒を選んでさらに協助し続けたのである。
それを知った彼女は落ち込んだ。それがきっかけとなったのかしばらく経って信仰を捨てていった。
ジャンヌ・ダルクが協助したとすれば、協助される側に同様の信仰や心情また決心覚悟があり、それ故相対基準が造成され授受作用、つまり相互作用である霊的な働きが与えられる契機を生んだと言えるのかも知れない。
それ故その事に対しては感謝したり光栄に思うことは普通であろう。ただしジャンヌ・ダルクや子女様というブランドを身に纏うことで自らの価値を高めたいという思いが沸いてきたとすれば、たとい小さな思いであっても用心しなければならない。
神の愛するところ必ずサタンが忍び寄る影あり。
少しずつ少しずつ心をずらしてしまうのが我々堕落人間の常である。基金から24億の金を着服した容疑者の坂本被告も初めはお金ではなく切手を換金する犯罪に手を染めやがて莫大なお金を勝手に湯水のように使うようになったとのことである。
上記のような守護霊の事例で地上人が犯した判断の誤りを聖書では偶像崇拝というのである。神ではないもの、即ち人間が作ったものに神の如く拝する過ちのことである。それが目に見える金の子牛であれば分かりやすいが、人間が心の中に作った現象である判断が虚妄であることは実に多いのである。
メシアであられる天地人真の父母様の権能によって、われわれ堕落人間の原罪が精算され、あたかもわれわれが本然の罪なき世界に生まれてきた如く、神によって分与された神性を自らの内に現すことを許されて、この内なる神性に礼拝することが本質である。
故にイエス様は「あなた方は神の宮であることを知らぬのか!」と喝破為されたのである。アブラハム・イサク・ヤコブの神とおっしゃられる理由もここにあるのである。
ジャンヌ・ダルクであれ聖フランチェスコであれキリシタンの殉教者である二十六聖人であれ、素晴らしい方々であることは間違いないのであるが、残念ながら我々のようにメシア降臨の時代的恵沢に与ることが許されず、神の御旨の真意を知ることができなかった。
自分が生きた時代的制約のなかで限られた情報からは天の父の御意を十分には知ることができなかったにもかかわらず、信仰の証を立てることができた事が、彼らの誉れである。
使徒行伝のステパノが市中に引き出され、暴徒に石打の刑に息絶える前に、語っていたことは我々が文鮮明 恵父によって教えられてきた復帰摂理史の概要である。驚くべき内容である。せめて武士の情け、キリシタンの二十六聖人がステパノの説教の真意を理解していたらと残念で仕方がない。
ステパノこそは神の摂理を正しく理解していた希有の信徒であったことだろう。
ともあれ、人間は神が各人与えて下さった神性の個別性である個性を誇るべきである。神が一方的に無償で与えて下さったこの賜物を開花させ香しい果実を結ぶのが人間の定めである。そこに天父の栄光を拝し、天父はほ誉むべきかな、一旦預かった個性を天に献祭し、自己を空っぽにしたいものである。
神のために権威ある者と立ち、神のために卑しいものとなり嘲笑する人々知られずに侍る。文鮮明 恵父はそのような御方であった。
蝉は脱皮した抜け殻を懐かしみはしない。
文鮮明 恵父もまた霊界で多くの霊人が地獄に蠢くところに、訪ねては伝道師、神の愛の実践に今もなお至誠を尽くされ続けておられる。
神のみが知る心情の境地。そこが我が恵師の住処である。
信徒たる者、天に召される日には万感の思いもて、主の栄光を讃え、救いの御業に感謝・歓喜して旅立ちたいものである。
神よ。弱虫の私をお守り下さい!アージュ!